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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
20章 天秤の傾倒
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卓上の夜語り

夜更けの執務室には、書類とインクの匂いが沈んでいた。

机を挟んで積み上げられた残務に向かいながら、私は、先刻までこの部屋に満ちていた硬い空気が、ようやくわずかに緩みはじめているのを感じていた。ランプの灯りが紙面を照らし、羽筆の影を細く揺らす。外はすでに人の気配も遠く、石壁の外を擦る夜風の音だけが、時おり低く耳に触れた。


アストリットにあまりに軽く、それでいて徹底的に跳ね除けられた無様を見せたというのに、同じ机に残ったカイルの気配は、不思議と不快ではなかった。

公爵になってから初めての醜態だった。……いや、人生で初かもしれない。

あの聖女の皮を被った何かに、恐怖を植え付けられた時ですら外面は保ち切ったのだから。


先刻までの確執めいた応酬は、完全に消えたわけではない。だが、長く硬く凝っていたものが、わずかずつ沈黙の中で解けていくような気配がある。カイルが昔の呼び名を口にしたことも、その奥にある謝意を見せたことも、私の中でまだ静かに尾を引いていた。


ずっと気がかりではあった。

入庁以来、この男が一方的に距離をあけているらしいことは薄々気がついていた。何かに挫けていたことも。だが私には目の前の職務があり、助け起こそうにも、無造作に近寄るだけで政治に巻き込むことも分かっていた。

私たちは、思っていたよりずっと遠くまで進んでしまっていた。


それでも、諦めなければまた同じ方向に歩けるのだと、今日ようやく分かった。


そう思ったところで、私はふと羽筆の先を止めた。


「聖女殿との進捗はどうなんだ、実際のところ」


問いは唐突だった。

だが、口にしてみると、自分でも思っていたより軽い声音になった。雑談めかした響きに包んではいるが、そこに確かな興味があることは隠しきれていない。そしてもう、隠す気もなかった。

ここにいるのは、誰にも隙を見せてはいけない総長と官吏ではない。かつて仲を深めた、ただの兄弟分なのだ。


机の向こうで、カイルが手を止める。

半眼でこちらを見る表情には、呆れと警戒と、ほんの少しの可笑しみが混じっていた。


「……聞いていいのかい、それ。賭けしているんだろう?」


「気がついていたか」


思わず目を見開いた。

知っていたのなら、話は変わる。あの賭けは半ば遊興であり、半ば観察であり、半ば――いや、半ばが多すぎるな。いずれにせよ、当人が知っているなら多少の配慮は必要だった。


だがカイルは、肩を竦めただけだった。


「いや、知らないよ。ただ、グラント兄がやりそうな遊びだろうと思っただけだ」


はったりだ。


一拍遅れて、私は笑った。胸の奥に、昔の城下の雑踏がかすかに蘇る。幼いカイルが、こちらの先回りをするように目を光らせ、得意げに笑っていた頃の気配が、その横顔にまだ残っている気がした。


「……まいったな。これだから面白いんだがな!」


声を立てて笑うと、夜の静けさが柔らかく揺れた。


「まあ、私はアストリットにも跪いて許しを乞う立場だ。どうせ御破算だろう。干渉せぬとも全部味わいたい。だから好きなだけ聞かせてくれ」


「グラント兄は、結局“情報を食う”のが好きなだけなんだよな……。まあ、分からなくもないけど」


カイルは呆れたように吐いたが、その声音に以前のような刺はない。むしろ、自分にも同じ性分があることを認めている気配があった。知ることで世界を形作り、推測することで相手の輪郭を掴もうとする。イェルスの血というより、彼自身の飢えなのだろう。だが、それを私の影響だと感じているなら、それはそれで悪い気はしなかった。


しばし沈黙が落ちた。

カイルは羽筆の軸を指先で軽く弄びながら、息を吐き、目を閉じる。


「どうだろうな……俺は彼女の全てが大好きだけど……雲を掴んでるみたいだよ」


その声を聞いた瞬間、私は目の前の男が、思っていたより深く疲れていることに気づいた。

軽薄な言葉ではない。恋を語る若者の浮かれた声音でもない。そこには、届いたと思った瞬間に指の間をすり抜けるものへ、何度も手を伸ばしてきた者の倦みがあった。


カイルの目が、ここにはいない誰かを映す。


その姿が見えるわけではないが、カイルが思い浮かべている聖女の像は、語る前から彼の表情に滲んでいた。愛する女を思う顔であり、厄介な謎を前にした研究者の顔であり、そして、傷ついた小さな生き物を驚かさないように息を潜めるような顔だった。


「リシェリアと手を繋いだ。抱き寄せた。頬に触れて……口づけたよ。膝枕もしてもらったな」


淡々と並べているようで、ひとつひとつの語尾に熱が残る。

口にするたびに、カイル自身がその事実を確かめ直しているようでもあった。まるで、書類に記された記録を読み上げるのではなく、夢だったかもしれない出来事を、言葉にして現実へ留めているようだった。


「グラント兄が見ていると確信して、わざと見せつけたこともあったろ」


少し笑いながら、カイルが肩を竦めた。

私はわざと眉を上げる。


「……そうだったかな。それで?」


見ていた。もちろん見ていた。

久しぶりに心の底から笑った。

お忍びで連れ立ったアストリットと喫茶しながら、喜劇のような逢瀬を眺め、二人で微笑み、語り、手に汗を握った。

あれほど楽しい休日もなかなかなかった。だが、それを本人に言うのは野暮というものだ。


カイルは、私の反応をちらりとだけ見ると、机上の書類へ視線を落とし、静かに続けた。


「心が豊かだ。草花や動物が好きで、果物や甘いものも好きだ。酒は強くない。本を読むのも好きみたいだ」


言葉そのものは、どれもささやかな観察だった。

だが、私には分かった。カイルはそれらを、単なる情報として集めていない。彼女が何に目を留め、何を喜び、何を避け、何に手を伸ばすのか。そのすべてを拾い集め、自分の中に並べ、何度も見直している。


「好奇心が強いし、けっこう大胆だ。無礼を働かれたら忘れない。悪戯や実験めいたことも好きで……研究者に向いてると思う。教育を受けてないのが勿体なかったくらいだ」


私は黙って聞いた。


「それに――優しい」


そこだけ、声が変わった。

ごくわずかだった。だが、私にはその変化がはっきり聞こえた。分析する声ではない。宝物を壊さぬよう、掌の上に載せる時の声だった。


「相手の話を聞くのが上手で、なんでも理解しようとする。肯定してくれる。……好きなところだけど、少し怖いくらいだな」


その言葉は、文字面ほど美しいものではない。

理解しようとする。肯定してくれる。人はそれを美徳と呼ぶかもしれない。だが、それは時に恐ろしいほど無防備で、曖昧にぼかすための包み紙にもなる。カイルはそこに気づいている。気づいていながら、惹かれている。


厄介だな。


カイルは目を伏せ、静かに息を整えた。やがて椅子の背に体を預け、深く息を吐く。


「その優しさに甘えてしまった。縋ってしまった。受け入れられていると、自分勝手に距離を詰めすぎてしまった……と今では思う」


声が低くなった。

指先が胸に触れる。そこにまだ何かの熱が残っているような仕草だった。


「リシェリアに、彼女に好意があるのかって聞かれた。だから……俺は彼女に『愛している』と伝えた」


私は黙っていた。

それは軽い告白ではない。少なくとも、カイルにとってはそうだったのだろう。カイルは、言葉を武器にも盾にもできる男だ。だからこそ、言葉で武装しきれないものを口にした時、その傷は深く残る。


「そうしたら。リシェリアは、俺と寝てもいいって、そう言った」


その瞬間、カイルの指に力がこもった。

言葉を選び損ねた女の残酷さと、言葉を受け取り損ねた男の苦さが、机を挟んで静かに広がる。聖女殿に悪意はない。おそらく、ほとんどない。だからこそ、厄介なのだ。


私は低く問うた。


「寝たのか」


「寝るかよ」


返答は即座だった。

吐き捨てるような声だったが、その底には怒りよりも痛みがあった。カイルの唇がわずかに震えているのを、私は見逃さなかった。


「彼女は、諸々の御礼に“寝てもいい”と言ったんだ。俺は身体目当てで愛したわけじゃない」


その掠れた声を聞きながら、私は眉間に皺を寄せた。


それは、きつい。


恋情を示した男に、報礼として身体を差し出してもよいと言う。そういう誤解が生じるほど、彼女はその領域から隔絶されていたのだろう。そう考えれば責めることはできない。だが、受け取る側の痛みが消えるわけでもない。


慰めるべきか、叱るべきか、笑い飛ばすべきか。どれも違う気がした。

だから私は、ただ聞いてやることを選んだ。


やがてカイルが小さく笑った。


「正直……セランに勝てる気はしてないよ」


乾いた笑みだった。

敗北を告白するようでありながら、同時に、その言葉を口にしてしまったことで少し楽になったようにも見えた。


そうかもしれない。いや、あきらめるのは早い。


どちらも言えた。でもどちらもまだ言うべきではない。

私は机に視線を落とす。

紙をめくる手が止まり、ランプの火がわずかに揺れた。


再び静寂が訪れる。


私は頭の中で、知っている断片を繋ぎ直した。セランから聞いた彼女の過去。アストリットが示した警戒。カイルが今語った接触の深さ。聖女殿の反応。あの底知れないもう一つの影。


カイルは、思った以上に踏み込んでいる。


それは危うくもあるが、無意味ではない。セランだけが聖女殿の傍らにいるわけではない。カイルはカイルで、別の角度から彼女の氷に触れている。


人の心は、やはり予測が難しい。

だからこそ、面白い。だが今、それを面白がるだけでは足りない気がした。


「そうだな……。私も、聖女は手負いだと聞いている」


私は静かに言った。


「そういったことを学ぶべき時期に、彼女は人の営みから外れていた。そして今、それを遅れながら取り戻しつつある。どう相対するか、お前の人としての器が問われているのだろう」


言いながら、視界の奥に、かつて垣間見た、もう一つの影がよぎった。

あれは、人が軽々しく触れていいものではない。

だが、今ここでカイルが語っているのは、その影ではなく、リシェリアという一人の娘だった。草花を好み、甘いものを喜び、無礼を忘れず、知識を欲し、誰かを理解しようとする娘。

その両方を抱えた存在に対して、どう手を伸ばすか。


それを誤れば、誰もが傷を負う。


「だから難しいんだ」


低い声だった。


「体の感覚が心の方向に基づいていない。体を許すかどうかさえ、対象を愛しているかどうかで判断していないんだぞ」


私は、その言葉にわずかに目を細めた。


なるほど。


カイルは浮かれているだけではない。聖女殿が何を許し、何を拒み、なぜそうするのかを、かなり冷静に見ている。好意と恋情、信頼と無防備、経験不足と選択。その境目が混ざっていることを、少なくとも理解しようとしている。


頭のおかしい挙動も多かったが、これは思ったより悪くない。


「……いや。嫌いなら、触らせないらしいからな。俺のことを一定以上は好いてくれているのは確かだ」


そう言い切った途端、カイルの頬がわずかに熱を帯びた。

口では冷静を装いながらも、表情はあっさり本音を裏切っている。


私は苦笑した。


「冷静だな。頭のおかしい挙動も多かったが、それでも恋に溺れている最中で、なおこれほど冷静でいられるとは」


感嘆は本物だった。

恋情に溺れながら、なお対象を観察し、線を引き、負けを認め、可能性を測る。滑稽で、痛々しく、そして面白い。やはり人間はこうでなくてはならない。


「ふむ。……少しくらいは共有してもいいだろう」


私は机上に視線を落とし、羽筆の軸を指先で弄びながら低く呟いた。


「セランは自身こそ聖女殿のすべてを知っていて、受け入れているという自信があるようだったな」


セランの言葉と態度を思い出す。

あの男は、待つ男だ。傷ついた獣の傍に座り、時間をかけて同じ体温になる。強引に氷を割ろうとはしない。融けるまで寄り添うことを、自分の役目だと思っている。


その忍耐そのものが彼の自負になっている。


「災禍に遭い、放浪した。同じ経験を持つ当事者として、聖女殿の心に傷があること、厚い氷の隔たりがあることも熟知している」


私は、短く息を整える。


言うべきかどうか、少し迷った。


セランは待っている。カイルは手を伸ばしている。どちらが正しいかは分からない。だが、待つことだけが慈悲とは限らない。自ら融かそうとする者がいて初めて、動くものもある。


ただ、そこまで言えば口出しになる。


だから、言葉は選んだ。


「だが、その傷痕を知るからこそ手を出しあぐねている。……これは、励ましでもなんでもないが」


前置きをして、顔を上げる。


「私は別に、お前がセランに水をあけられているとは思わない。お前も、まだ同じ線の上にいる。追いつける範囲だろう」


短く、しかし確かに告げた。

慰めではない。評価だった。

カイルがわずかに目を伏せる。


「だが、今のお前なら為せると思える。幾重にも絡み合ったような問題を解くのは、お前の得意とすることだろう? 聖女殿と出会ってからのお前は特に、そうだ」


低く、穏やかに告げる。


「聖女殿だって、お前に会って変わったはずだ」


そのまま、私はそっとカイルの肩に手を置いた。

重い掌を置きながら、命令でも叱責でもない触れ方を選ぶ。慰めと呼ぶには少し不器用で、励ましと呼ぶには少し近すぎる。ただ、身内の若者が傷ついている時、兄貴分だった者としてそうしたかった。


カイルの肩が、ほんのわずかに力を抜いた。その表情に、何かが静かに届いたのが分かった。


「……ありがとう。励まされる」


私は、それを聞いてほんの少しだけ目を細めた。素直なカイルを見るのは、まだ慣れない。だが、悪くはなかった。


「まあ……どう並んでも、俺の方が似合ってると思う。今は勝ててなくても、負けないつもりだ」


私は思わず眉を上げた。


「大きく出たな。だが、今のは少し負け惜しみに聞こえるぞ」


嗜めるように言うと、机の向こうのカイルが少しだけ不満そうな顔をした。

その顔が、昔の少年の表情とほんの一瞬だけ重なった。


夜更けの執務室には、まだ冷えた空気が残っていた。未処理の書類も、未解決の恋も、いくらでも机の上に積み残されている。

それでも、その奥に確かに――希望の温度が残っていた。


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