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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
20章 天秤の傾倒
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半歩ずつ寄る語り

諦めて椅子に腰を下ろした。


たまには王国軍の帳簿でものぞくのも悪くない。

事務処理という名目での避難。

……ついでに、セランの弱みでも見つかればなお良い。


アスティが出ていった扉は、しばらく沈黙を残していた。

つい先ほどまで彼女の怒声で揺れていた室内は、急に広く、冷たくなっている。

机上には持ち帰りの書類が積まれ、花も菓子も、歓待らしいものは何ひとつない。アスティ望むかかどうかは知らないが、何一つ色気のない実務の部屋。


……なるほど。

振られるべくして振られた部屋だ。


背もたれに軽く体を預けると、革が微かに鳴った。

冷えた室内に、紙の擦れる音と、ランプの微かな燃える音だけが響く。


……沈黙が気まずい。


書面の山を手伝いながら、俺は羽筆先を滑らせ、何気なく口を開いた。


「それで閣下は、どうして公女殿下にご執心で?」


言葉尻は軽いが、視線は書類のまま。

いつものやり方だ。油断を装いながら、核心を突く。


「お前にわかるまい」


短い。

だがその一言には、拒絶と防御が凝縮されていた。


グラントの筆跡は乱れていない。

ただ、署名の最後の一画だけ、いつもよりわずかに深く紙を削っていた。


ああ。

思った以上に堪えている。


ならば、少し追い打ちをかけてやろう。


「……別段、興味もないから構わないが、断られるなんて、思わなかったんだろう?」


挑発ではなく、ただの分析として言ったつもりだった。

だが、グラントの目の奥がわずかに揺れた。


「……黙れ」


低く、重く。

その声には、普段の冷静さよりも生々しい怒りがあった。


……珍しいな。

本気で堪えているらしい。


俺は羽筆を動かしながら、静かに返した。


「今は就業時間でもなければ、ここは公邸でもない。いつでも命令を聞くとは思わないでいただきたい」


言葉の刃を研ぐように、穏やかに。

視線は一度も上げず、淡々と書類に目を通し続けた。


「……そうだな。取り乱した。すまなかった」


少し間を置いて、グラントが低く詫びた。

その声音に、わずかな素直さがあった。


「ああ」


短く、温度のない返答。

怒りも慰めもない。ただ、気にしていないと示すだけの音。


再び部屋に静寂が戻る。

紙の擦れる音だけが、夜の帳に溶けていった。

ランプの炎がわずかに揺れ、机上の影が長く伸びる。


二人とも、仕事に戻った。

机の上には、署名済みの文書と未整理の報告書が山のように積まれている。

互いに言葉を挟まず、それを淡々と片付けていく。


傷ついたグラントを見るのは、思ったより居心地が悪かった。

ずっと巨大な影のように見てきた相手が、今はただ、好きな女に真正面から拒まれた男の顔をしている。

その顔を見ていると、いつまでも噛みついている自分の方が、ひどく子供じみて思えた。


目を上げずに、俺はふと口を開いた。


「率直に言えば、一連の件は感謝している」


羽筆を止めず、淡々と続ける。


「リシェリアを婚約で守ってくれていること。その後も、自由にさせてくれていること。それから……一門の末弟を、今までなるべく気にかけてくれていたこと。ありがたく思っている。小さな対抗心で、それらを無碍にしたりしたこともあった。申し訳なかった」


「顔を出すべき夜会も、避けるべき相手も教えてくれた。王都で軽んじられないよう、各所に裏で口添えしてくれていたと聞いたこともある」


口にしてみれば、思っていたより多かった。


「俺が宮廷に上がって身の程を知っただけなんだ。俺は力も後ろ盾もない狭小領の若造。並び立つどころか、遠すぎた。……正直に言えば、あんたの影は大きすぎて、どこに行っても鬱陶しかった」


ああ、大樹のようだと思った。


存在は大きくて、自分の中に根ざしている。

それなのに反発したくて、その木陰から逃れたいと思った。

どこまで行ってもできなくて、いつしか見上げないようにしていた。


けれど、その影がなければ潰れていた場面もある。

守られてもいた。


……自分の子供っぽさに苦笑いが出た。


沈黙。


羽筆の音が止む。

グラントが、驚いたようにこちらを見た。


「……カイル」


その呼び方には、役職も家名もなかった。

俺を叱る時の声でも、使い勝手のいい親族を見る声でもない。

ずっと昔、城下へ抜け出す前に名を呼ばれた時と、少しだけ似ていた。


思ってもみなかった言葉だったのだろう。

少しだけ手を止めた彼の横顔に、初めて人間らしい柔らかさが差した。


俺は軽く肩を竦めた。


「まあ、だからその詫びというか、感謝を込めて送り込んだんだけど……これは誤算だったな。すまない」


自嘲混じりの笑みを浮かべる。


男女の仲を深め、業務の効率も上げ、そしてアスティへのささやかな仕返し――三方得を狙ったつもりだったのに。

結果はこのざまだ。


「その意図は……さすがに気づかなかった」


グラントが微かに息を漏らす。


「単に、折り悪く忙しかったのだ。そして上官が目の前で書類を片付けていれば、副官であるアストリットは気詰まりで手伝うしかないだろうが。私はお前のように、すぐに予定など空けられない。……せめて、事前に通達してくれ」


「ははははは! そう言えばそうだな。悪かった」


俺も笑う。


空気が少しだけ軽くなる。


「……お互い、言わなくてもわかると思ってここまで来ちゃったよな、グラント兄」


ようやく顔を上げて言った。

柔らかな微笑みを浮かべる。


その呼び名は、喉の奥で一度引っかかった。

もう何年も使っていない。

使わないことで、自分はもう子供ではないと証明したつもりでいた名だった。


本当に幼い頃――まだ俺たちが“子供”でいられた頃、王都で大人たちの社交から外されると、俺はグラントと、その兄ロデリックと三人で、城下へ抜け出してはお忍びの小冒険をした。俺には姉しかいなかったから、二人は頼れる兄貴分だった。


グラント兄はいつも先導するように楽しそうに走っていき、ロディ兄は俺が置いていかれないように穏やかに後ろを歩いた。


普段は領地に散らばり、数年に一度会う程度の親戚付き合いだったが、両親の死後、俺はグラントと青年としての交流を取り戻した。成人して王都へ上がった時には、大人の社交の仕方もいくつか教わった。仕官し、その実力差に苛まれるようになるまでは。


グラント兄、ロディ兄。


大人にならないでいられた頃のその呼び方を、あえて使った。


俺たちは別の人間だ。


本当は、意固地になることなんてなかった。


「ま、アスティは根に持つ性質じゃない。また別の日に仕切り直せばいいさ。毎日懲りずに怒られてる俺が言うんだから、間違いない」


軽口を叩きながら、帳簿を閉じる。

その響きが夜に溶けていく。


「お前……すごいな」


グラントが小さく呟いた。


それは、俺が毎日怒られていることへの感想ではなかった。

転んでも、恥をかいても、次の一手を探す。

その厚かましさを、少しだけ羨んでいるような響きだった。


自分のことも、アスティのことも、そして俺のことも――どこかで侮っていたと、ようやく気づいたような声だった。


「ロディ兄にも久々に会いたいな。今は何をしてるんだ? 領地の方にいるのか?」


「まあ、そんなようなものだ。私一人や代官だけでは経営は回らんからな」


グラントが、未処理の書類を一束こちらへ寄越した。

俺は何も言わずに受け取った。


さっきまで命令のように見えたそれが、今はただ、同じ机に座る者への分担に見えた。


そして。


何年も降り積もっていた澱が、ゆっくりと静かな夜に広がっていった。

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