半歩ずつ寄る語り
諦めて椅子に腰を下ろした。
たまには王国軍の帳簿でものぞくのも悪くない。
事務処理という名目での避難。
……ついでに、セランの弱みでも見つかればなお良い。
アスティが出ていった扉は、しばらく沈黙を残していた。
つい先ほどまで彼女の怒声で揺れていた室内は、急に広く、冷たくなっている。
机上には持ち帰りの書類が積まれ、花も菓子も、歓待らしいものは何ひとつない。アスティ望むかかどうかは知らないが、何一つ色気のない実務の部屋。
……なるほど。
振られるべくして振られた部屋だ。
背もたれに軽く体を預けると、革が微かに鳴った。
冷えた室内に、紙の擦れる音と、ランプの微かな燃える音だけが響く。
……沈黙が気まずい。
書面の山を手伝いながら、俺は羽筆先を滑らせ、何気なく口を開いた。
「それで閣下は、どうして公女殿下にご執心で?」
言葉尻は軽いが、視線は書類のまま。
いつものやり方だ。油断を装いながら、核心を突く。
「お前にわかるまい」
短い。
だがその一言には、拒絶と防御が凝縮されていた。
グラントの筆跡は乱れていない。
ただ、署名の最後の一画だけ、いつもよりわずかに深く紙を削っていた。
ああ。
思った以上に堪えている。
ならば、少し追い打ちをかけてやろう。
「……別段、興味もないから構わないが、断られるなんて、思わなかったんだろう?」
挑発ではなく、ただの分析として言ったつもりだった。
だが、グラントの目の奥がわずかに揺れた。
「……黙れ」
低く、重く。
その声には、普段の冷静さよりも生々しい怒りがあった。
……珍しいな。
本気で堪えているらしい。
俺は羽筆を動かしながら、静かに返した。
「今は就業時間でもなければ、ここは公邸でもない。いつでも命令を聞くとは思わないでいただきたい」
言葉の刃を研ぐように、穏やかに。
視線は一度も上げず、淡々と書類に目を通し続けた。
「……そうだな。取り乱した。すまなかった」
少し間を置いて、グラントが低く詫びた。
その声音に、わずかな素直さがあった。
「ああ」
短く、温度のない返答。
怒りも慰めもない。ただ、気にしていないと示すだけの音。
再び部屋に静寂が戻る。
紙の擦れる音だけが、夜の帳に溶けていった。
ランプの炎がわずかに揺れ、机上の影が長く伸びる。
二人とも、仕事に戻った。
机の上には、署名済みの文書と未整理の報告書が山のように積まれている。
互いに言葉を挟まず、それを淡々と片付けていく。
傷ついたグラントを見るのは、思ったより居心地が悪かった。
ずっと巨大な影のように見てきた相手が、今はただ、好きな女に真正面から拒まれた男の顔をしている。
その顔を見ていると、いつまでも噛みついている自分の方が、ひどく子供じみて思えた。
目を上げずに、俺はふと口を開いた。
「率直に言えば、一連の件は感謝している」
羽筆を止めず、淡々と続ける。
「リシェリアを婚約で守ってくれていること。その後も、自由にさせてくれていること。それから……一門の末弟を、今までなるべく気にかけてくれていたこと。ありがたく思っている。小さな対抗心で、それらを無碍にしたりしたこともあった。申し訳なかった」
「顔を出すべき夜会も、避けるべき相手も教えてくれた。王都で軽んじられないよう、各所に裏で口添えしてくれていたと聞いたこともある」
口にしてみれば、思っていたより多かった。
「俺が宮廷に上がって身の程を知っただけなんだ。俺は力も後ろ盾もない狭小領の若造。並び立つどころか、遠すぎた。……正直に言えば、あんたの影は大きすぎて、どこに行っても鬱陶しかった」
ああ、大樹のようだと思った。
存在は大きくて、自分の中に根ざしている。
それなのに反発したくて、その木陰から逃れたいと思った。
どこまで行ってもできなくて、いつしか見上げないようにしていた。
けれど、その影がなければ潰れていた場面もある。
守られてもいた。
……自分の子供っぽさに苦笑いが出た。
沈黙。
羽筆の音が止む。
グラントが、驚いたようにこちらを見た。
「……カイル」
その呼び方には、役職も家名もなかった。
俺を叱る時の声でも、使い勝手のいい親族を見る声でもない。
ずっと昔、城下へ抜け出す前に名を呼ばれた時と、少しだけ似ていた。
思ってもみなかった言葉だったのだろう。
少しだけ手を止めた彼の横顔に、初めて人間らしい柔らかさが差した。
俺は軽く肩を竦めた。
「まあ、だからその詫びというか、感謝を込めて送り込んだんだけど……これは誤算だったな。すまない」
自嘲混じりの笑みを浮かべる。
男女の仲を深め、業務の効率も上げ、そしてアスティへのささやかな仕返し――三方得を狙ったつもりだったのに。
結果はこのざまだ。
「その意図は……さすがに気づかなかった」
グラントが微かに息を漏らす。
「単に、折り悪く忙しかったのだ。そして上官が目の前で書類を片付けていれば、副官であるアストリットは気詰まりで手伝うしかないだろうが。私はお前のように、すぐに予定など空けられない。……せめて、事前に通達してくれ」
「ははははは! そう言えばそうだな。悪かった」
俺も笑う。
空気が少しだけ軽くなる。
「……お互い、言わなくてもわかると思ってここまで来ちゃったよな、グラント兄」
ようやく顔を上げて言った。
柔らかな微笑みを浮かべる。
その呼び名は、喉の奥で一度引っかかった。
もう何年も使っていない。
使わないことで、自分はもう子供ではないと証明したつもりでいた名だった。
本当に幼い頃――まだ俺たちが“子供”でいられた頃、王都で大人たちの社交から外されると、俺はグラントと、その兄ロデリックと三人で、城下へ抜け出してはお忍びの小冒険をした。俺には姉しかいなかったから、二人は頼れる兄貴分だった。
グラント兄はいつも先導するように楽しそうに走っていき、ロディ兄は俺が置いていかれないように穏やかに後ろを歩いた。
普段は領地に散らばり、数年に一度会う程度の親戚付き合いだったが、両親の死後、俺はグラントと青年としての交流を取り戻した。成人して王都へ上がった時には、大人の社交の仕方もいくつか教わった。仕官し、その実力差に苛まれるようになるまでは。
グラント兄、ロディ兄。
大人にならないでいられた頃のその呼び方を、あえて使った。
俺たちは別の人間だ。
本当は、意固地になることなんてなかった。
「ま、アスティは根に持つ性質じゃない。また別の日に仕切り直せばいいさ。毎日懲りずに怒られてる俺が言うんだから、間違いない」
軽口を叩きながら、帳簿を閉じる。
その響きが夜に溶けていく。
「お前……すごいな」
グラントが小さく呟いた。
それは、俺が毎日怒られていることへの感想ではなかった。
転んでも、恥をかいても、次の一手を探す。
その厚かましさを、少しだけ羨んでいるような響きだった。
自分のことも、アスティのことも、そして俺のことも――どこかで侮っていたと、ようやく気づいたような声だった。
「ロディ兄にも久々に会いたいな。今は何をしてるんだ? 領地の方にいるのか?」
「まあ、そんなようなものだ。私一人や代官だけでは経営は回らんからな」
グラントが、未処理の書類を一束こちらへ寄越した。
俺は何も言わずに受け取った。
さっきまで命令のように見えたそれが、今はただ、同じ机に座る者への分担に見えた。
そして。
何年も降り積もっていた澱が、ゆっくりと静かな夜に広がっていった。




