識者の不覚
アスティに、俺がリシェリアの精神を知覚……いや、侵犯していたことが露見した。
そして、リシェリアの内にいる、得体の知れない存在のことも。
正直、自分の中でも処理しきれずにいたことを吐露して、少しだけ荷が下りた感はある。
代わりに、なんとも冷や汗の出る展開になってしまった。どっと疲れた。
それでも今日も、アスティを誘導することには成功した。
さて。
イェルス邸にアスティをぶち込むことも、これで三度目になる。
俺がグラントとアスティを半ば強制的に引き合わせる理由は単純だ。
リシェリアが喜ぶから。
リシェリアは純粋に、グラントの恋というものを応援したいと思っているから。
これでリシェリアが柔らかい表情を見せてくれるなら、この手の軽口や策謀、どんな悪趣味な手でも使う価値はある。
だが、さすがのアスティも警戒を通り過ぎ、呆れの域に来ていた。そろそろこの手も効かなくなるだろう。
とはいえ、次の手法を考えるのは、徹底的に失敗してからでいい。
俺は場を整えるだけだ。
一対一の場さえ設ければ、恋愛経験豊富なグラントのことだ。いずれうまくアスティを落とし切るはずだ。
二人に足りないのは、二人きりで会う理由が対外的に少ないことだけなのだから。
この日までは、俺はそう思っていた。
「念のため聞くわ。用件は?」
低く、しかし棘のある声音。
アスティが腕を組み、軽く片眉を上げてグラントを見下ろしていた。
足音一つとっても、感情の振幅がわかる女だ。
さすがに、もう騙されていない。
わかっていながら、それでもグラントの前まで律儀に来てくれるあたりが彼女らしい。
「じゃあ、俺は急用ができたので退出させてもらう」
言い終えるや否や、上着を羽織る俺の腕が掴まれた。
びくともしない。
布が軋む。
その手の力強さに、俺は思わず苦笑を漏らす。
……貴族令嬢の腕力じゃない。
一度でも殴られたら、多分骨の一本は折れる。
「ああ。退出を許す」
執務机の向こうで、グラントが静かに手を組んだ。
その声音には一切の起伏がない。
俺はその声を合図に、もう一度逃れようと腕を引っ張る。
が――
「さ、せ、るか!!!」
アスティの怒号が、分厚い石壁の部屋に反響した。
「元々急用なんてないのも把握してるのよ!」
肩を引き寄せられる。
鋭く、確信をもって。
いつでも引き倒せる距離。
肌の間に走る緊張。
……戦場のようだ。
グラントの市邸、その私設の執務室。
「毎回、毎回、連れてこられて用なんてないじゃないの!」
アスティの声が響く。
「連れて来られたら、グラントが持ち帰った残務の手伝いをさせられるだけ! 私は小間使いでも文官でもないのよ!」
怒りの熱が、瞬間的に室内の温度を上げたようだった。
薄い紙の山が揺れ、インク壺が微かに鳴った。
「は、はぁ?」
俺は襟を締め上げられながら、信じられないものを見るようにグラントを見た。
グラントは、ぎくりと音がしそうなほどわずかに肩を強張らせ、沈黙していた。
なんで黙ってる?
たとえアスティへの求婚の話が冗談でも、虚構を演じろ。
そうじゃなかったとしても、高貴な淑女を歓待くらいしろ。
やる気、あるのか?
「さすがに失望せざるを得ないな。せっかく場を整えたのに、誼を深めていないとはね」
思わず皮肉が漏れる。
逢瀬じゃなくても、共に晩餐をとるくらいできるだろう。
なぜ、実務なんだ。
なぜ、机なんだ。
どうしてこの部屋に、花の一輪すらないんだ。
「……残念ながら、業務が立て込んでいてな」
グラントが静かに応じる。
その声には、ほんの僅かな責任転嫁の響きが混じっていた。
「カイルもまだ、そんなこと言ってるの? リシェリアやセランが真に受けるならともかく、あんた自身、戯言だとか言ってたじゃない」
アスティの怒気が、少し冷めてきた。
呆れ。
軽蔑。
どちらともつかない表情で俺を見ている。
「正直どうでもいいんだが、行動すればリシェリアとの話題の種になるし、まかり間違って進展しても破談が早まる。俺には利益しかない」
合理的な素晴らしい理論だ。
堂々とそう言い切る自分が誇らしい。
口が止まらない。
「こっちの迷惑を考えて。私の味方はいないわけ?」
アスティがため息を落とす。
その指先はまだ俺の襟を掴んだまま。
熱が伝わる。
苛立ちの温度。
「そうか。まあ、実際、アスティが禁止目録を作ったから腹いせでやっている点はある。もしアスティがリシェリアと俺を応援してくれるというなら、味方についてもいい」
暴露する俺も俺だが、息が詰まりそうなこの状況では正直本音しか出てこない。
「……あんた、自分が悪いとか恥ずかしいとか思わないの」
その視線には、軽蔑よりもむしろ諦めと呆れが宿っていた。
机の向こう。
グラントは静かに俺たちを見ていた。
まるで、珍しい動物の生態でも観察しているような目。
ふいに、低く問うた。
「……それほど、迷惑だったか」
沈黙。
その一言の奥に、わずかな緊張が混ざっていた。
グラントと過ごす時間そのものが迷惑なのか――そう聞いているようだった。
「迷惑」
アスティは即答した。
「そうか……」
グラントのまぶたがわずかに動いた。
それだけで、心中の衝撃を悟る。
それは、そうだろう。
……いや、恐れ多くもグラントは公爵だったな。
侍る女性はみな、お眼鏡に適おうと甲斐甲斐しく世話を焼いてきたのかもしれない。
……さすがにこれは気の毒か。
「交流まで嫌がるのは何故だ? 縁を深めて見えてくるものもあるだろう」
俺は助け舟のつもりで、話を繋いだ。
学問に行き詰まるのはよくあること。その度に手を変え道を変え、答えに辿り着くしかない。
原因追及は大切だ。
「実際、縁談相手としては、家格に申し分はないと思うが。グラントと婚姻するのが嫌なのか?」
「別に」
アスティからの答えは短い。
けれど、その一言にすべてが詰まっている。
「別にとは?」
つい深掘りした。
この副詞は、次の一手を引き出す鍵になる。
「別に構わないけど」
声はあくまで平坦。
「そんなの家の問題なんだから、しろと言われればするわ」
名門の娘らしい、潔い現実主義。
世が世なら王女だった女だ。王権争いで御母堂が勝っていれば、彼女は王姪ではなく王女として生きていた。
重い責務のためには、婚姻に夢想を持たないよう育てられるのも、ある意味当然といえる。
「だ、そうだが?」
俺は首だけ動かしてグラントに戻す。
「そうか」
淡々と、端的に。
何も感情を混ぜないその声に、逆に生々しい敗北の色が滲んでいた。
グラントだって、そんなことはわかっているはずだ。
彼の場合、すでに自らが当主で、決定権は本人にある。必要なのは相手家の意志だけのはずだ。
そして、筆頭公爵との縁談を望まない家など殆どない。
娘を妻に望まれてなお首を振る家など、考えつくのは……他国の王族との外交縁談、そして次代の王妃候補。
あるいは。
最後の言葉はあまりに不遜すぎて、脳裏に浮かべることすら気が引ける。
しかし……すれ違いの正体には思い至った。
俺は宮廷政治など欠片も関わりたくないし、詳しくもない。
だが、そこはかとない不穏さを見る限り、グラントには、メイスン家当主と交渉するより前に、アスティ本人の受諾を確かなものにしたい理由があるんだろう。
……実際、思ったよりグラントは本気で、アスティは乾いている。
二人の温度差。
それがこの部屋の寒気を増しているようだった。
どちらの立場に寄り添うのが得か。
脳裏で一瞬そんな計算が走る。
だが同時に、妙な既視感があった。
リシェリアとセラン。
あの二人もまた、こんなふうにすれ違ってくれれば。
……いや、そうであってくれ。
「そもそも交流を嫌がったことなんてないけど。単に密約にかこつけて仕事を押し付けてるだけじゃない。これがどうして迷惑じゃないと思うわけ?」
アスティの鋭い一言。
「それはそうだな。アスティが正しい」
俺は即座に同調する。
グラントの眉が一瞬だけ動いた。
「……調子いいこと言うわね。あんたが元凶でしょう。今日はあんたが残って手伝いなさいよ。私は帰るわ」
その一言で、場の空気が再び爆発しかける。
虎の尾を踏んだ。
……いや、踏み抜いた。
「そもそもこれは、なんで既定事実のように扱われるのよ。そういう話は、実際に縁談を申し込むなり求婚なりしてからにしてくれる?」
アスティの声は、もはや静かだった。
だが、ほんの少しだけ見えない灯りがともったかのように、わずかに空気が軽くなる。
そうだな。
順序がおかしいのだ。
ちゃんとグラントの方から、一度正式に話を通しておくべきなのだ。
どうでもいいが、きちんと求婚をしてみせろ。
こんな事務しかない部屋でなく。
美しい景勝地や聖堂、大樹の前とかあるだろう。
花を手配し、いつもみたいに歯の浮く詩のような愛の言葉で跪け。
俺は目をむいて、そんな言葉を、音もなく念じた。
思念を送れる異能があればいいのに。
リシェリアならできるのだろうか。
……とにかく俺には知覚することしかできない。
「追って正式な書面を作るが……内々の意思確認として……それは、了承してもらえるということだろうか?」
俺の必死さはあえなく伝わらず、グラントが姿勢を一切崩さずに言った。
机上の筆の影が、長く伸びる。
なんなんだ。
昔から見せびらかしていた手練手管はどこに置いてきたんだ。
「馬鹿じゃないの? お断り。じゃ、失礼する」
アスティは即答した。
一切の逡巡もなく。
そのまま、颯爽と立ち去った。
扉が閉まる音が、やけに遠く感じた。
最初の騒ぎが嘘のように、静寂が戻る。
俺は口を閉じ、目を伏せ、そして心の中で呟いた。
――あのグラントが、婚姻を持ち込もうとしている相手に、なんの口説きもしていないとは。
長年の仕事での信頼関係に胡座をかき、断られるはずがないと高を括ったのか。
天罰。
人の心を軽んじた者への、当然の報い。
……まあ、俺が言えた義理ではないが。
「……あー。騒がしくしてすまなかった、グラント」
上着の皺を払いながら言う。
「でも脈が無いわけではなさそうだから、まあ、健闘を祈る」
振り返ると、グラントは手を組むのをやめ、背もたれに身を沈めていた。
深い吐息が、胸の奥で響く。
「……いや、お前は残って手伝っていけ」
沈んだ声。
拒絶ではなく、ただ疲れ切った声音。
ああ。
やっぱり帰さない気だな。
俺は額を押さえ、天井を見上げた。
燭台の火がわずかに揺れ、その影が長く伸びていた。
――今日もまた、ひどく長い一日になりそうだ。




