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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
2章 赤
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最初の事件、その初め

一章であったストーカー事件の裏側です

「セラン。使えそうな資材を持ってきた」


低い声に振り向けば、陽に焼けた茶髪をかき上げながら歩いてきたのは、少し年上の先輩兵士、ダリオだった。肩に木箱を抱え、気安い笑みを浮かべている。


「あ、ありがとうございます」

俺は思わず背筋を正し、両手で木箱を受け取った。


彼は旧知の相手だった。


アスティの隊にいて、あの時、俺と最初に刃を交えた兵。矢をつがえて必死にリシェを守ろうとした俺の放った一矢が、確かに彼を貫いた。


今、その跡はどこにもない。リシェが完全に癒したからだ。


あのときの血の匂いも、呻き声も――


ふと、あの瞬間が脳裏に蘇る。


あの日は狩った動物の毛皮を抱えて、俺だけ近くの村へ向かった。冬が間近で、雪が降れば森の中の隠れ家と村への往来は閉ざされる。少しでも蓄えを増やしておきたかったし、リシェに栄養のあるものでも食べさせたい――その一心だった。


村で焼き菓子を手に入れて、心を軽くして戻るところだった。


だが帰路、隠れ家を囲む蔓の目印が破られているのを見て、冷たい刃を突き立てられたように立ち止まった。知らぬ人間の匂いも風に混じっていた。心臓が跳ね、荷を投げ捨てて走った。


商人や難民ならまだいい。だが野盗なら、リシェを見られたら終わりだ。普通の女の子だって危ないのに、リシェは異能を持つ。そもそも金になるし、波長が合えば一目で人を虜に捕らえてしまうことがあった。小さな執着はやがて肥大し、愛や欲に変わり狂気へと至る。……今まで一つの所に居つけなかった理由だ。


だから、リシェを人目にさらさないことを選んでいたのに。


祠の前に数人の影とリシェの姿を見て、矢をつがえて飛び込んだ。矢は一人の腕をかすめ、彼女を取り囲む群れの隙を生んだ。短剣をくわえ、獣のように走って飛び込む。リシェを背に庇い、刃を構えて睨み据えた。


一人をタックルで倒し、別の一人の剣をかわして背中を取る。残り三人――勝てるかもしれないと一瞬思った。


だが小柄な影が指先を動かした。


全員の呼吸が揃う。群れとしての連携。次の瞬間、押し倒され、拘束されていた。


リシェが引きずり出され、フードを剥がされる。銀髪が宙にほどけ、その色に男たちが息を呑む。


――見られた。


終わりだと思った。


だが、群れの中心にいた小柄な影が前に出て制止した。男装していたが、若い女の匂い。野盗ではなく、国の役人だと名乗った。名はメイスン。千年祭を控え、この祠堂を調査に来たと言う。


俺は必死に抗弁した。近隣の村長の許しを得て住んでいること、リシェは妹だということ。


だけどメイスンは告げた。


「ここは国が管理することになった。もう出ていってもらわないと」


ようやく安心して住めそうだったのに。…血の気が引いた。

彼女はリシェの力を見抜いて、リシェを誘った。


「あなたは優秀な祭祀官になれそうね。一緒に来ない?三食のご飯もある。家も服も。身分も命も守られる。……そのお兄ちゃんくらいなら養えるわよ」


挑発する目が俺を射抜く。力も栄養も足りない俺の腕では、拘束する兵に敵わない。悔しかった。


睨み返す俺の腕を、リシェが決心したように掴んだ。


「……セランと一緒でいいなら。行きます」


――その時の、どうしようもない苦しい敗北感はいまだに抜けていない。


「何か困ってることあれば言えよな。お前もリシェリアも馴染みじゃないか」


意識が引き戻される。


目の前では、ダリオが気安く声をかけてくる。その指先は、無意識なのか、それとも意識的なのか、リシェが癒したもう存在しないはずの傷の位置をなぞっていた。


その目は、熱に浮かされているように見えた。


ぞくりと背筋に嫌な予感が走る。


……リシェの力のせいだろうか。


最近は彼女も力の扱いを学んで、無闇に誰彼構わず捕まえることはなくなっていた。それでも、あの放浪の最後、極限のときに溢れ出た力で、この男を引き寄せてしまったのかもしれない。


リシェが時折無意識に生き物を惹きつけてしまうその異能を、俺は“魅了”と呼んでいる。だがそれは、彼女が望んでしたことじゃない。光に群がる蛾や、腐肉に群れる蠅、蜜を求めて嗅ぎつける虫たち――そういう自然な反応のようなものだ。リシェはただそこにいるだけなのに、勝手に群がってくる。


ここでも同じことが起きるなら、俺が番犬として蹴散らさなきゃならない。だが、兵舎や城内で問題を起こすわけにはいかない。乱暴に排除すれば、逆にリシェの立場を悪くしてしまう。


まだ何も起きてはいない。


けれど、俺は常に警戒を解けない。


その熱を帯びた視線がリシェに向かうのなら、見過ごすわけにはいかない。

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