砕けた警鐘
私は、ジェスに別室へ下がらせていた文官たちへ戻るよう伝言を頼み、下がらせた。
「ちゃんと医務室にも寄るように」
「はい、ありがとうございます。失礼いたします」
短いやり取りの後、扉が閉まる。
人払いは長引かせるほど目立つ。
けれど、このような事案直後の机に、何も知らない文官を戻すわけにもいかない。
執務室に残ったのは、私とリカリオだけだった。
砕けた護石を手巾ごと丸め、リカリオに預ける。
「処分しておけ」
「承知」
机の上には、まだ微かに冷えた気配が残っている。
つい先ほどまでそこに横向きに載せられていた若い兵の困惑と、砕けた護石の赤だけが、空気の中に沈んでいるように思えた。
「……姐さん」
「すぐに文官が戻る。たるんだ呼び方をするな」
「……殿下。ジェスも金糸雀みたいに使ってんですかい」
リカリオの声はいつも通り飄々としているのに、目だけは鋭かった。
机の上に置かれた、破裂した護石の欠片を見下ろしている。
血で汚れて傍目には見えにくいが、金属の爪で留められた石は、もともとがその色であったかのように赤変している。精神的な干渉があった証拠だ。
「ただの備えだ」
即答した。
こんなものは常識だ。
暗殺、間諜、洗脳、呪い――そういったものは貴族の世界には日常的に転がっている。
それを防ぐための護石をつけさせるのは、聖女に対してだけの特別な策ではない。
侍女にも近衛にも、必要な範囲で施している。
だが、今回の件は小さくない。
護石がなければ、ジェスもダリオのようになっていたかもしれない。
その可能性を思うと、背筋が冷える。
「嬢ちゃんは、見た限り、もうそういうことないと思ったんですがねえ」
リカリオが呟いた。
もし彼が察して連れてこなければ、ジェスは壊した護石を自分の不注意と勘違いして隠したかもしれない。
そうなれば、兆候を見逃すことになっていた。
「ジェスはどうするんで」
「また新しいのを付けさせて庭に戻すわ。未然に防げてるし、警戒も生まれてる」
口に出してから、自分でも思った。
“警戒が生まれた”――それはこの国では、最も確実な防御手段だ。
一度痛みを知れば、人は無防備ではいられなくなる。
「左様で」
リカリオの声は低く、冷たい。
だがそれは情のない響きではない。
彼はわかっている。
もし同じことが繰り返されれば、ジェスのような若い兵は放逐か――あるいは処理だ。
代わりはいくらでもいる。
リカリオ自身も、そうした現実を潜り抜けて今の地位にある。
だからこそ、ジェスに生き残ってほしいと本気で思っている。
「リシェリアは、精神の不安定さも随分収まっていた。悪夢を見る回数は激減している。異能の制御はずっと良くなっていた。……カイルが何か隠匿していなければだけど」
思わず独り言のように口にした。
カイルの“色呆け”ぶりはさておき、業務の上では信頼していた。
彼が何か見逃していないか――少しだけ胸の奥にざらつきが残る。
「状況的にはセランの坊主の方では」
リカリオの言葉はもっともだった。
「セランで今更?」
小さく息を吐く。
「坊主は長期不在で、嬢ちゃんは不安がっていたと聞いております。異能は精神で操るものなのでしょう? そういったものが要因では? 異能なんてものは使えないので、聞きかじりですが」
リカリオは頭を掻きながら、ぼやくように言った。
実際、非異能者に使用感というものは説明しにくい。意識を集中して脳裏で操作するようでもあり、体内にある筋肉を使うような感覚でもある。“意識しないと使えない”という点から、精神に属する技と扱われることが多い。酩酊や意識喪失、過度な動揺では制御を失い、使えないのが常識ではある。
「不確かなことは言えない」
原因としてはあるかもしれない。ないかもしれない。
「ただ、それならセランは帰って来たのだから、解消しているはず」
それ以外なら、あまり考えたくはないが――密室での密会。
報告だけを聞けば叱責ものだ。
それでも、あの二人に限って限度を超えるとは思っていなかった。
カイルならありえた。のぼせて、逸脱して、度を越しそうになる姿を何度も見た。
……それでも、過度に揺らいでいたのはカイルの方で、リシェリアではなかった。
リシェリアは、一般的な人間よりもかなり近い距離感を持つ子だ。
そのうえ、もともと親密で、家族のような間柄。私と出会う前の二人は、難民暮らしで野宿で共寝は当たり前。他人であれば赤面するような触れ合いも、平然な顔で照れも恥ずかしげもなく行える。
そして、セランは理性の男だ。
リシェリアへの欲を、自分の中で飼い慣らしてきた男だ。
リシェリアのほうがむしろ、彼を頼り、甘える側だったはずだ。
それでいて、密室程度でいまさら何が起きる?
恋愛の悩みがあって、ジェスに相談していたという。
――恋。
面倒な響きだ。
王宮でも祭祀庁でも王国軍でも、それで崩れる関係はいくつも見てきた。
「…………はあ。後で探っておく」
重く息が漏れた。
グラントとの賭けのことが頭をかすめる。
私が話すことで天秤を傾けてしまうかもしれないと気が引ける。
いっそ、あの賭けになど関わらなければよかった。
そうしたらリシェリアに、姉として素直に尋ねられた。
リシェリアから直接相談されたわけでもない。
それなのに、こうして報告を受け、動かなければならない。
今日は、市邸に帰る気がしなかった。
明かりも落とさず、執務室の長椅子に寝転がる。
外の夜気が窓からゆっくりと流れ込み、紙の端をわずかに揺らす。
沈黙の中、まだ指先に護石の冷たさが残っていた。
先ほど、サフィアを呼んで侍女たちの護石をすべて検めさせた。
耳飾りも腕輪も、どれも異常なし。
色も変わらず、ひびも入っていない。
……よかった。
あの護石は使い捨てるしかない、小さな屑石だ。
霊的な干渉を受け、身代わりに砕けることで“知らせる”程度の機能しかない。
防ぎ続けることも、浄化することもできない。
ただ一度、気づくための目印。
今回ジェスに触れかけた干渉は、恐らく強度が弱かったか、完全には発動していない。
話の内容から見ても、石の破砕音を境に意識が戻っている。
ジェスの精神が深く歪められていないと見る根拠はある。
たったひとつの石しか赤く変わっていないからだ。
耳飾り以外にも、護石はいくつか気づかれないように仕込んである。
そのいずれも変色していなかった。
全てが変色していたのなら、私はジェスを魅了の疑いで拘束しただろう。
本当に危険なのは、気づかぬまま染まっていくこと。
当然、セランにも知らせずに密かに持たせてある。
支給された兵装の中、士官服のボタンの裏、靴の金具。
ジェスと同様、複数の箇所に仕込んでいる。
急ぎリカリオに命じ、セランの部屋に入らせて、それらを検めさせた。
どれも赤変の兆しはなかった。
――だが、あの男は例外だ。
リシェリアの相棒。
とうの昔に、完全に彼女に染まっている可能性はある。
心も、魂も。
染まりきった状態では、もう石は反応しない。
干渉でも侵蝕でもない。
それは彼自身の本質に組み込まれてしまっている。
それでも、あの穏やかさで何年も飼い慣らしてきたのだから、問題には思わない。
飼い慣らしてきたのは、リシェリアではない。
セラン自身だ。
彼は自分の中にある欲を、衝動を、獣じみた執着を、理性で押さえつけてきた。
だから、問題はなかった。
少なくとも、これまでは。
問題があるのは――中途半端に触れ、加速度的に精神を溶かされる場合だ。
局地的に。不意に、触れたものだけが壊れる。
ダリオのように。
……ジェスは防げた。
二度は起こさせない。
目を閉じる。
「リシェリアの恋の悩み、か……」
静かに呟いた声が、天井に吸い込まれていく。
恋。
リシェリアには幸せになってもらいたい。良かれと思って薦めたこともある。それなのに、急に恐れていた精神干渉の気配が漏れ出た。
それは恋を恐れる気持ちの発露なのか。それとも自分に振り向かせたいという願望が漏れているのか。
それをカイルは知っているだろうか。
セランは、気づいているだろうか。
もし、恋がリシェリアの魔性を呼び覚ますのなら、国家の擾乱を止めるために、恋をやめさせなければいけない。説得して、止めさせて、無理なら誰とも触れない場所に閉じ込めて、大樹に奉仕だけさせる。そんな悪魔の所業が必要になるかもしれない。
リシェリアを救ったのは自分だ。
だから、リシェリアを閉じる役も自分になるかもしれない。
それが一番の裏切りであり、一番の責任でもある。
頭の奥で、遠く小石が弾ける音がしたような気がした。




