赤き変容
なんとなく、胸騒ぎがしていた。
強い言葉を使ってしまったことも、リシェリアさんと世間との間にある、埋まらないずれのようなものも、ずっと気にかかっていた。
あの人は、こちらが当たり前だと思っていることを知らない。けれど、知らないままでも悪意はなくて。
……だからこそ危ういよな。
僕が言った言葉が、余計な傷になっていないか。あるいは、逆に何かを見落としたまま通り過ぎてしまったのではないか。そんな落ち着かない感覚が、胸の奥に薄く残っていた。
あの後は、門限の為に迎えに来た聖女付き侍女のラファにリシェリアさんを引き渡し、庭の入り口で見送った。僕も手早く片付けを済ませ、兵舎へ戻ることにした。
夕暮れの石畳には、水を撒いた跡がまだ薄く残っている。昼の暖気は抜けきっておらず、蒸し暑い。顎を生温い雫が伝った。
不快だった。
「清拭してから寝たいな……まだ湯、貰えるかな」
気を抜いて歩いていたら、背後から低くて太い声がかかる。
「おーう、小僧。お疲れさん」
振り向くと、リカリオさんだった。
「あ、リカリオ様。お疲れ様です!」
にこやかに挨拶を返す。
「……どうした、その耳」
けれど、リカリオさんの口元にあった笑みは、途中で不自然に止まった。目だけが僕の左耳へ据わり、いつもの気の抜けた空気が一瞬で消える。
何を見つけたのか尋ねる間もなく、腕をつかまれた。がっしりとした手で、逃げようにもびくともしない。
「え? 耳?」
「……」
何も言わず、僕の顔――いや、左耳を凝視している。
次の瞬間、つかまれた腕を引かれ、身体ごと軽々と持ち上げられた。
「いっ……! あたっ! 肩抜けちゃう! 痛いですって!」
「今、どこから来た。庭か」
深刻な声だった。
リカリオさんは僕の服についた土の汚れを見て、勝手に納得したように頷く。
「嬢ちゃんか。……はあ。ついてこい。いや、持っていく」
「え、え? え!? えぇっ!?」
気づいた時には、もう肩に担がれていた。
完全に荷物扱いだ。体格差がありすぎて、抵抗にもならない。視界がぐらぐら揺れて、廊下を行き交う兵たちが驚いた顔で立ち止まる。恥ずかしい。というか、怖い。いったい何が起きているのか、自分の耳がどうなっているのかも分からないまま、僕は運ばれていった。
そして、連れていかれた先は――まさかの、アスティ様の執務室だった。
扉を叩くこともなく、勢いよく開けてしまう。
警護兵も、室内にいた文官たちも、驚いてこちらを見た。
「前触れなく失礼。人払いを」
リカリオさんの一言で、全員が慌ただしく退出していった。
扉が閉まると、急に静かになる。重たい空気が落ちて、僕の心臓の音だけがやけに大きく聞こえた。
アスティ様は椅子の背へ身体を預けたまま、足を組み、こちらを見て――眉をわずかに上げた。
僕はアスティ様の執務机の上へ、雑に横向きに下ろされた。左耳が上を向いている。まるで、まな板に載せられた魚みたいだ。
アスティ様の視線は、机へ載せられた僕の顔には止まらなかった。まっすぐ左耳へ落ち、一度見ただけで目の色が変わった。
驚いたようには見えない。
ただ、何かを確定した人の目だった。
「バージェス・ラング、そのままで構わない。直近の行動を報告しろ」
声が静かで、かえって怖い。
リカリオさんが隣で腕を組んでいるのも、圧がすごかった。
「はっ……はい。朝八の刻から夕四の刻まで当番勤務でした。食堂にて夕食を取った後、聖女の庭にて半刻ほど従事し、兵舎へ戻るところでした」
「庭の話だけでいい。何をした。克明に述べなさい」
「自分が到着した時は聖女様のみで、ご挨拶申し上げた後、作業に入りました。聖女様は庭を見回った後、虫除け剤を散布しておられました。間もなくセランが入場し、その作業を聖女様と交代して請け負いました。作業後、セランは聖女様と少し談話をしていたようです。自分は古株の抜去と処分を行っていました」
真面目に、事務的に答えた。
けれど、報告するたびにリカリオさんの目つきが鋭くなる。アスティ様は無言で羽筆を取る――いや、こちらから一度も目を離さないまま、リカリオさんへ投げた。記録より、僕の顔や声の変化を見ることを優先しているらしい。
リカリオさんは羽筆を片手で受け取り、慣れた様子で書き始めた。
「その時の二人の会話は?」
……うわ。そこも突かれるのか。
けれど、聞かなければならない立場なのだろう。
「作業小屋にお二人で入られてしまいましたので、内容までは確認できませんでした。……作業の報告と、私的な談話かと」
これでは、完全に告げ口だ。けれど、言わざるを得ない。ごめん、セランさん。
「……」
アスティ様が、眉をわずかに上げる。おそらく、密会していたことを察している。そして、次に、何を僕に問うべきか考えている。
「外まで届く会話や、特筆すべき物音はありませんでした」
僕は必死に先取りして答える。
本当に、これ以上は知らない。知らないから、言えない。言わずに済む。……あの時、あまり近くにいなくてよかった。
ああ、もう。
言いながら恥ずかしくなってきた。自分は、何を報告させられているのだろう。
「……まあいい、わかった。その後」
「は、はい。出てきた後、セランと聖女様は直前の作業へ戻られました。夜勤当番のため、セランが先に庭を退出することになり、残った自分と聖女様で片付けを行いました。その間、少し私的な会話をしました。聖女様は侍女が迎えに来て、先にお帰りになりました。自分が施錠して退出したところで、リカリオ様と遭遇した次第です」
「お前は、リシェリアと何を話した」
「私的な……内容です」
「話せ」
アスティ様は怒っているわけではない。ただ淡々と、命令した。
……逃げ場がない。
「自分から、聖女様の恋愛事情についてお尋ねし、聖女様のお考えに対して、少し意見を申し上げました」
短く伝えた。
アスティ様の目が戸惑ったように見開かれ、一瞬、動きが止まった。
だけどすぐに眉根を寄せてわずかに不快そうに口を開いた。
「どうして、そのような私的なことを尋ねる? あの馬鹿な賭博、また蒸し返されたんじゃないでしょうね。まさか……貴方まで加担しているんじゃ」
総毛立った。ありえないことだ。僕はそんなことにうつつを抜かすために登城したわけじゃない。皆まで言わせまいと慌てて否定を畳みかけた。
「いえ。いいえ。滅相もございません! 以前から何度か、聖女様の方からご相談を受けていまして、その延長です! 婚約者である総長の前で、どう振る舞うべきか、などをですね……」
一番当たり障りがなかった話題を挙げる。婚約者としての立ち振る舞い。平民の婚約者と貴族階級の社会的な立場の違い。だけど、これ以上掘られると誤魔化しは苦しい。
あの話を深掘りすれば、セランさんだけではなく、カイルさんまで被弾する。それに、やっぱりリシェリアさん個人の私的な部分の話だ。出来ることなら他人の僕から明かしたくはない。
アスティ様の庇護を受けた身の上で、命ぜられれば全て報告しなければならないことは当然わかっている。聞かれれば答える。それでも守りたい線はなるべく保ちたいと思った。
喉の奥が少し詰まった。
「……」
アスティ様の動きが止まる。
いつもなら、すぐに反応するのに、今回は何も言わない。視線を少し落とし、宙を見て、考え込んでいる。
「……いいでしょう。では、今回の件に限って概要だけ言いなさい。場合によっては、仔細に確認する」
有難かった。アスティ様は、僕の愚かな部分も包んでくれたようだった。いや、配慮したのはリシェリアさんの心かもしれない。
とにかく今のところは、そこまで踏み込まないでくれるらしい。
「ええと。恋愛の必要性や、負の側面に対するご不安があるようでした。自分は、答えを急いで決めず、しばらくその問題を考えるのを休まれてはどうかと申し上げました」
「それだけ?」
「はい。聖女様も同意され、それで話は終わりました」
「……異変や違和感は?」
「いえ、特に……」
そう答えようとしたのに、勝手に口が動いた。
「聖女様が、ご自身のお考えを述べられた時に……一瞬だけ寒気がして、小石がぱちりと弾けるような音がしました」
「……そこね」
アスティ様が、何かをつかんだような声で言った。
リカリオさんの羽筆が、一瞬だけ止まる。二人の視線が、短く交わされた。何を確認したのか、僕には分からなかった。
「その直前の様子は」
「え、ええと……」
思い出す。
あの瞬間、確かに怖いと思った。理由もなく。夕暮れの庭に立っているはずなのに、足元から冷たいものが這い上がってくるようで、息をするのを忘れそうになった。
「何か、リシェリアさんが、どこか遠くを見ていて……すごく綺麗な顔で微笑まれて……」
口にした途端、執務室の壁や机が少し遠くなったように感じた。
柔らかな頬。光を含んだ瞳。唇へ触れる指先と、わずかに上がった唇の端。そればかりが、もう一度目の前へ浮かんでくる。
耳の奥に残っていた冷たさが、わずかに深くなった。
見てはいけないと思ったのに、見てしまった。
「見ていてはいけない気がして……その時です。弾けるような音がしたんです」
途中から、自分でも言葉を整理できなくなっていた。口だけが勝手にしゃべっている。
静かな間が落ちた。
アスティ様は一呼吸置いてから、言った。
「もういい」
それから、声の調子を少しだけ変える。
「ジェス。話は変わるけれど――貴方の耳飾り、石が砕けているわ。耳朶も切れているけれど、痛くないの?」
「え!?」
思わず手を当てた。指先に、乾きかけた血がついた。耳から顎へ、血が伝っていた。
痛みは今も感じていない。
怪我しているらしい耳は……冷たい。まるで、冬みたいに。
「帰りに医務官のところへ寄りなさい」
アスティ様が上質な手巾で、耳元の血を拭ってくれた。指先が耳朶へ触れた瞬間、その動きがほんのわずかに止まる。けれど、何も言わない。そのまま、砕けた耳飾りを静かに外していく。
「あれ。いつの間に……せっかくいただいたものを……申し訳ありません」
手のひらで、砕けた耳飾りを見た。
下賜品だ。
仕官した時、アスティ様からいただいたものだった。それが、小さく破裂したように砕けている。
薄緑色の石が付いていたそれは、今は赤く、乾いた僕の血に塗れている。
耳飾りが外される間、リカリオさんは何も言わなかった。ただ、担いだ時につかんだ腕や肩を一度見て、それ以外に怪我がないか確かめるように、僕の全身へ視線を走らせていた。
「いいのよ。これは預かる。また新しいものを用意するわ」
その声は優しいのに、目だけが恐ろしいほど真剣だった。
砕けた耳飾りを手巾へ包みながら、アスティ様はしばらく僕の目を見ていた。質問を探しているというより、僕の中に何が残っているのかを測っているようだった。
「最後に一つ聞く。バージェス、今、聖女をどう思っている?」
「え……」
リシェリアさんのこと、だよな。
好きだ。
可愛い。
綺麗。
優しくて、純粋で、無垢。
一緒に働けるのは嬉しい。
……セランさんやカイルさんがいなければ、立候補したかった。
そんなことを、一瞬のうちに思い出した。
けれど、口から出たのは――あの瞬間の感覚だった。
「ちょっと、怖い方かもしれません」




