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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
20章 天秤の傾倒
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停止線

セランさんが庭に帰還した、あの日。


ちょっと、いや……なかなか小屋から帰ってこなかった。


小屋の前で待っている身としては、さすがにどうかと思った。


中で何してたんだよ、セランさん。


戸の向こうから声が漏れたわけではない。物音だって、せいぜい床板が軋む程度だった。それなのに、こちらが勝手に気まずくなる。庭仕事の道具を無意味に並べ替えながら、僕は何度も門の方を見た。


誰かが来たら、どう説明するつもりだったんだろう、あの人。


再会の喜びって、そんなに長く噛み締めるものなんだろうか。


……いや、まあ。恋人同士なら、そうなのかもしれない。


セランさんは据わった目で入って、朝よりもずっとご機嫌で出てきた。

もう全身から「満たされました」という空気がだだ漏れだった。隠そうともしていない。むしろ、自慢げにすら見える。


リシェリアさんの方といえば小屋へ入る時も、出てきた時も、頬を赤くしていた。再会を終え、作業へ戻る前には、居心地悪そうに少し乱れた銀髪を耳へ掛け、袖口を整えていた。

少なくとも怒ってたり、嫌なことをされたようには見えなかった。


ただ、セランさんがもう一度そばへ寄ろうとした時だけ、持っていた作業籠を胸の前へ持ち上げ、二人の間へ挟んでいた。


だから、照れているのだと思った。


……ああ。さすがに、気持ちが通じ合ったんだ。

よかったね、セランさん。


きっと、会えない時間が恋を育んだんだ。そういうことだよね。


とはいえ、リシェリアさんはグラント様の婚約者だ。


僕にできるのは、せめて二人が他の人の下卑た視線に晒されないよう守ることくらいだと思っていた。


最初の一日くらいは、僕も微笑ましく見ていた。


二か月も離れていたのだから、少しくらい距離が近くなるのは仕方がない。ようやく再会できたのだから、その喜びがしばらく続くのも当然だと思った。


けれど、翌日も、その次の日も、セランさんは同じようにリシェリアさんを小屋へ連れていった。


何かにつけて小屋へ用事を作っては、リシェリアさんを引っ張っていく。リシェリアさんが作業や物を取りに小屋へ入れば、少し遅れて当然のように後を追う。


僕が見ていれば、目と手振りだけを寄越して、戸を閉めてしまう。しばらくして、満たされたような顔で出てくる。


それなのに、次にリシェリアさんを見つけた時には、また最初から飢えていたような目をしている。


……うん、さすがに。どうかと思う。


この数日、セランさんの挙動はおかしかった。


リシェリアさんの気配を全身で追っていることは、見れば分かる。仕事をおろそかにしているわけではないし、リシェリアさんがいない時は普通だから、ぎりぎり許容していた。


けれど、さすがに露骨すぎて心配になってきた。


カイルさんが見たら、即座に割り込んでくるか、軍務へ苦情でも言いそうだ。そのくらい、セランさんは締まりのない顔をしている。


たまたまなのか、久しぶりにセランさんが戻っていることで、庭へ顔を出すのを遠慮しているのか。それとも、セランさんと顔を合わせるのを避けているのか。……幸いにもカイルさんには、まだこの状況を気づかれていない。


でも、時間の問題だ。


そろそろ落ち着いてもらわないと、またあの二人の言い争いを目撃することになりそうで怖い。


……カイルさんのことは。


うん。


多分、リシェリアさんと少し仲良くなって、浮かれていただけなんだろう。

あの人は、リシェリアさんのことになると、やたらと純情だし。


まっすぐで、子供っぽくて。


でも、だからこそ、簡単に壊れてしまう気がするんだよな。


だから僕は、静かに祈っていた。


誰かが壊れませんように、と。


庭仕事の合間、セランさんが当番勤務で早めに下がって不在になった時を見計らって、僕はリシェリアさんへ声をかけた。


「リシェリアさん。さすがに、恋が分かった……ってことですよね」


聞いてしまった。ずっと、聞きたかった。

僕は、聞いてもいいはずだった。


それでも、「セランさんと恋人になったんですよね」「カイルさんとなんかありました?」なんて直接的なことは聞かずに耐えた。


「うん……そうだね。少しは、正解が分かったかも」


その声は、どこかふわりと浮いていた。


けれど次の瞬間、リシェリアさんは、ふと何かを思い出したように頬を染めた。


睫毛が震える。


指が、そっと唇へ触れる。


その仕草が、恐ろしいほど綺麗で。


……目が惹きつけられる。


風は吹いていたはずなのに、銀髪の先だけが、妙にゆっくりと揺れて見えた。


鳥の声も、葉擦れも、少しずつ遠ざかっていく。


代わりに、リシェリアさんの伏せられた睫毛や、唇をなぞる指先の動きばかりが、異様なほど鮮明に見えた。


見ているのではなく、見せられている。


見せられている?


……僕が、魅入られてる。


そんな感覚が遅れて背筋を這った。

僕は、足元から迫り上がるような冷気を感じた。

理由は分からない。でも、ぞくりとした。


心のどこかが告げていた。


見てはいけない、と。


目をそらなさきゃいけない。


どうか、こちらを見ないでくれと願った。


一歩、後ずさった。靴底が、小さく土を擦った。

その音で、リシェリアさんの瞳が緩む。


ふわりと笑った。


その時、耳元で、小石がぱちりと弾けるような音がした気がした。


「でもね。恋をするのって……辛いことが多そうで、そんなにいいことじゃない気がするの」


……は?


その声の温度が、不意に春へ戻った。

 

花が咲く音すら聞こえそうなほど、軽やかだった。

遠くで鳥が羽ばたく音、梢のざわめきが一瞬で現実に帰ってくる。


先ほど一瞬感じた冬の気配は遠のいていた。


「うん。だから、別に。私はあんまり恋なんて……しなくてもいいかなって思った」


あっけらかんと言った。


「は!?」


声が裏返った。


え? 何? どういうこと?


理解が追いつかない僕を置いて、リシェリアさんはさらりと続ける。


「あ、ううん。違うの。セランやカイルが恋をしたいなら、それはいいの。二人がしていたいなら、恋をしてくれていてもいいと思う」


少しだけ言葉を探してから、穏やかに微笑んだ。


「でもね。私は二人が……苦しまなくていいようにしてあげたい」


……は?


は?


それ、相手をやむなく殺す時の言葉じゃない?

どうか安らかに、みたいな。もしかして、どっちも振るの?


あんなに甘い顔をしておいて?


さっきも、あんなにセランさんの理性を溶かした後で!?


……残酷だ。


こんな時だけ、心がないみたいに見える。

いや、違う。心がないわけじゃない。


普通の女の子と変わらない顔をしているのに、その奥にあるものだけが、どうしても僕と同じものには思えなかった。


……セランさんもカイルさんも、欲しいのはその心なのに。


「……えっと。どうですかね、それは」


どうにか声を絞り出した。


「それは……どちらにも喜ばれるとは、僕には思えません。特に。今のセランさんにそんなことを言ったら、死んじゃいますよ」


あれほど熱が上がり切ったセランさんへ、そんな冷や水を浴びせたら、どうなると思う。

少し皮肉も混じっていたけれど、本心だった。

リシェリアさんには、まだ自覚が足りない。


「え、死ぬっ……?」


リシェリアさんの顔から、一気に、血の気が引いた。

さっきまでとは打って変わり、青い瞳の奥に深い影が落ちる。


今日見た中で、一番深刻な顔だった。

目の奥に、絶望に似たものが一瞬だけ覗いた。


その瞬間、しまったと思った。


リシェリアさんにとって、人が傷ついたり亡くなったりすることが、何より恐ろしいものだと僕は知っていたのに。


メイスン邸で彼女たちに会っている者の間では、災害に遭って以来、リシェリアさんが悪夢に苛まれているという話は有名だった。


軽口で扱っていいことではない。


人を失うことも、置いていかれることも、きっと僕が想像するより、ずっと恐ろしいものだったのだろう。


それなのに僕は、止めたい一心で、一番使ってはいけない言葉を使ったのかもしれない。


「……えっと。そう、死ぬほど! 死ぬほど悲しませますよ」


慌てて言い直す。


「失恋や痴情のもつれで、自ら命を絶つ人だって実際にいますからね」


少しだけ意味を変えた。

けれど、それでも警告は必要だった。


王都の中にだって、傷害や刃傷沙汰、心中未遂の話はある。愛人に刺されたとか、浮気に居合わせたとか……そういう事件は、決して珍しいものではない。


リシェリアさんを、今のうちに止めておかないと。

そう思った。


恋を、理性と知識だけで理解しようとしている。

感情が、追いついていない。


「……カイルさんだって、そんなことを言われたら、また寝込みますよ」


できるだけ穏やかな声を作る。

カイルさんはすでに前例があるから、間違いない。


「ねえ、リシェリアさん。正解を急いで決めなくていいんです。無理に答えをつくらなくてもいいんです。……この話、少しお休みしましょう?」


「そっか……そうだね。うん。休む」


リシェリアさんは素直に頷いた。


「本当にありがとう、ジェス。……私、もう少し、勉強することにする」


僕の言葉を受け止めてくれた。


そのことに、ほっとした。


これでいい。


少なくとも今すぐ、セランさんやカイルさんへ、恋なんて必要ないと告げることはない。


そう思った時、リシェリアさんが、そっと僕の手を握った。

指はいつも通り細く、柔らかかった。

ひやりとしたのに、触れているうちに体温が沁み込んでくる。


冷たくも温かい、聖女の指。


握られた瞬間だけ、何かが軋んだような気がした。

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