止まらない過熱
戻ってから、数日が経っていた。
最初の一日は、戻ってきたという事実だけで気が済んでいた。庭の土を踏み、使い慣れた道具を手に取り、ジェスが真面目に守っていた苗を見て、ようやく帰ってきたのだと思った。国境の乾いた風も、硬い寝台も、遠い町で覚えた人の声も、湿った王都の空気を吸ううちに、少しずつ身体の奥へ沈んでいった。
リシェとも、何度か庭で顔を合わせた。
長く停滞していた俺たちの関係が、少しだけ進んだ。それは何もかもが新鮮だった。
顔を見れば嬉しい。声を聞けば落ち着く。少し肩が触れるだけで、長く空いていたものが埋まるような気がした。
そして、隙を見てはもう少し近づいた。帰ってきた確認をするように人目を忍んで、抱き寄せては髪に、頬に、手に……唇に触れた。
少し浮かれている自覚は、まあ……ある。
けれど、リシェを見ると、また手を伸ばしたくなってしまう。
昨日触れたのに、今朝も触れたい。さっき声を聞いたのに、もう一度近くで聞きたい。
恋の成就ってそういうものなのだろう。
ただ、城ではそうもいかないことは理解している。
リシェは聖女で、公爵の婚約者でもある。俺が好きなだけ傍に寄っていい相手ではない。節度をわきまえた幼馴染として並び、作業をし、何でもない顔で言葉を交わす。
今までだってそうしてきたし、これからもそうする。
だから今日も、ただ庭の作業を手伝う顔で、俺は小屋の前に座っていた。
開いた戸の向こうでは、リシェが播種用の種を選っている。
前かがみになるたびに揺れる銀髪。笊の上を行き来する細い指先。時折、首筋へ落ちる髪を払いながら、虫食いや欠けのある種を一粒ずつ取り除いている。
俺のすべき仕事は終わってしまっていた。本当は先取りして進められる仕事もあるにはある。だけどそこまでは手につかなくて小屋の入り口近くに腰を下ろし、誰かが来ないか庭へ意識を向けていた。
けれど、視線はどうしてもリシェへ戻ってしまう。
リシェを見ているだけで、胸の奥にまた熱が溜まっていく。
ようやく想いが通じ、リシェも俺と同じ方へ歩き始めた。だからこそ、「幼馴染」という枠を崩さないよう、距離を細かく調整しなくちゃならない。
……もっとも、今までが近すぎただけでもある。
遠征先の国境詰所で、リシェに足を癒してもらった同僚兵士が、苦笑交じりに言ってきた言葉を思い出した。
「お前と聖女さんが並んでるところ、初めて見たけど、確かに近すぎるよな。噂になったのも、まあ仕方ない気がする。今後は気をつけろよ」
言いたいことはよく分かる。
あの距離は、確かに男女のものに見えたのだろう。
リシェに近づく者を牽制するため、意識的に親密さを演出した瞬間だってあった。
あれが噂の燃料になったことは、否定できない。
だから今日、ここでもう一度、俺たちにとってどこまでが普通なのか、互いの認識をきちんと合わせておきたかった。
庭の隅々へ意識を巡らせる。外から見ている視線や執務室から探るような狐野郎の気配もない。庭の端で資材の在庫を数えるジェスが見える。あれは手伝うようなことでもない。
「リーシェ。まだ終わらないのか?」
何でもないふうに声をかけながら立ち上がる。別に急かしたいわけではない。ただ、中へ入る理由が欲しかった。
「んー。もうちょっと」
入る前に、ジェスと目が合う。
眉を下げて、呆れるような、苦笑いのようななんとも言えない顔。それでも何かを言うことはなく、察してくれたように俺に背を向けた。
悪いな、ジェス。
胸の中でだけ詫びて、小屋の中へ足を踏み入れた。
そっと戸を閉める。
蝶番が小さく軋み、庭を渡っていた風が戸板の向こうへ遠ざかる。
「暇なら今日は帰ってもいいよ。ジェスもまだいるから人手は足りてるし」
リシェは気に留めた様子もない。振り向きもせず答える。
「馬鹿だな。聖女様の護衛を切らしてどうすんだ」
壁の高い位置に開いた格子窓から、細い夕陽が差し込んでいた。舞い上がった土埃が、その光の中をゆっくり漂っている。
外からは風に揺れる葉擦れと、帰っていく鳥の声がかすかに届いていた。
庭はいつもと同じように穏やかなのに、戸一枚を隔てたここだけが、妙に狭く、熱を逃がせない場所になったように感じた。
「なあ、リシェ。貴族はあんまりしないかもしれないけどさ。こういうのは、別に普通だよな」
そう言いながら、肩を抱いてみせる。
兵士同士が健闘を讃えて肩を組む。それくらいの軽い感覚のつもりだった。
けれど、指先に触れたリシェの二の腕は柔らかくて、ただそれだけで得をしたような気分になってしまう。
リシェは小首を傾げ、肩を抱く俺の手をちらりと見てから答えた。
「うん?」
ほんの少し考えた後の、素直な返事。
そうだよな。こんなの、違和感を覚えるような触れ合いじゃない。
「手をつないだり、抱き合ったりするのも、まあ、ちょっと親しければおかしくないだろ」
言いながら腕を滑らせ、後ろから抱き寄せる。リシェの右手を取り、俺の左手の指を絡める。
背中越しに感じる華奢さ。
頬に触れる髪の細い感触が、危ういほど心を甘くする。
「うん。そうだね」
柔らかく、受け入れてくれる声。
絡んだ手のひらから、体温が混じりあうの感覚に胸が緩む。
そう、平民なら、これくらい日常だ。再会を喜んで抱き合うことも、親しい相手と手をつないで歩くことも、特別なことではない。
……なら、これも自然な流れだろう。
「あとは……口づけか。手や頬なら、それこそ貴族だって挨拶でするもんな」
握った手の甲へ、そっと唇を寄せた。
その瞬間、リシェの顔が近くなる。
近すぎて、心臓がどきりと跳ねた。
……欲しくなる。
今日はリシェからも、してほしい。
自分の頬を指さす。
「……リシェ。してみて」
「ん」
きょとんとしながらも、リシェは素直に応じてくれた。左右の頬へ、触れない貴族式の挨拶の口づけ。
小さく、唇を鳴らす音がした。
そして、おまけを添えるみたいに、俺の唇へ軽く触れる口づけがあった。
その一瞬で、胸が爆発しそうになる。
……嬉しい。
「挨拶で、唇にはあまりしないみたいだけど……家族とか、恋人とか、すごく親しい人とならそれも普通でしょ? セランは特別だから」
頬へ手を添えてくれる優しさ。その微笑みこそが、俺を特別にする。
家族とか、恋人とか。
恋人という言葉が入っているだけで、浮かれてしまう。リシェは、俺が特別扱いを好むと分かっていて、先回りして、おまけのような優しさをくれた。
嬉しい。……嬉しい。
「うん。これは俺とリシェの仲だからな。……特別だ」
顔が勝手に緩む。
いや、もう恋人のはずだ。何も間違ってはいない。
何も言わなくても、こんなに受け入れあってるんだ。
それでも、すぐに表情を引き締めた。
「外ではするなよ」
ここは城内だ。
表向きは、幼馴染の線を越えないようにしなければならない。
「うん? しないよ。サフィアに怒られちゃう」
リシェは肩をすくめて、のんびりと作業へ戻っていく。
その仕草まで、また可愛い。
挨拶程度の口づけや抱擁はともかく、顔を舐めたり、添い寝したりすることまでは、さすがに大っぴらにはできない。
平民だって、そんな触れ合いをするのは家族か兄弟、それも幼い頃くらいだろう。俺たちが野晒しで生きていた頃のことを知るアスティたちは、事情を察しているけれど。
リシェが失った家族の空白を埋めるような親密さは、残しておきたかった。だから俺も今まで、指摘してやめさせることもしなかった。
これからも、俺たちの普通であってほしい。
今のところは二人きりの時だけの特権でも、そのうち、表向きにも番いであることを当然のように示せる日が来る。
……来る。必ず。
その確信が、喉の奥で熱く脈を打った。誇らしくて、全世界へ知らせたくなる。
けれど今は、密室だ。
残念だが誰にも見られない。
……残念じゃない。幸い誰にも見られない。
さっきの軽い口づけだけでは、物足りない。
「リシェ。おかわり」
顎へ触れ、腰を抱き寄せた。
「ええ? ちょっと……もう……」
たしなめる声。
けれど、伏せられた睫毛が揺れ、頬に差した紅が美しい。
……可愛い。
それだけで胸が満たされる。
いや、満たされない。
もう一度だけ、絶対にしたい。
「なあ。外ではしないから……いいだろ」
言い訳にも似た呟きの後、唇を重ねた。
軽く押し合う輪郭。
少し冷たい、滑らかな唇。
触れ合いながら、どうしても笑みが込み上げて止められない。
「んん!」
胸を軽く叩かれ、リシェの身体が腕の外へ逃れようとする。
本当に嫌なら、もっと強く拒む。
リシェなら、ちゃんと言う。
耳まで真っ赤なのだから、ただ照れているだけだ。
そう決めつけて、腕へ少し力を込めた。
離したら、たぶんまた寂しさが押し寄せる。
だから、あと五秒だけ。
いや、十秒は欲しい。
あと少しだけと自分へ言い訳しながら、リシェの唇へもう一度重ねた。
このまま時が止まればいいのに、同時に、誰にも憚らず触れられる未来まで早く進んでほしいと思う。
トントン、と肩を軽く叩かれる振動で我に帰った。
瞬間、俺の頭を占めていた感触が失われていく。
リシェを息切れさせてしまっていた。
「悪い」
唇を離し、親指の背で自分の唇を拭う。
俺も呼吸は楽になったのに、胸はざわざわする。
「はっ……ふ……苦し……」
リシェは呼吸を整えるように胸元へ手を置き、俺から少し距離を取った。
それでも俺には、恥ずかしそうに視線を逸らしたようにしか見えなかった。
外では葉が擦れ、鳥が一声鳴いている。庭を歩く誰かの足音も、遠くの回廊を閉じる扉の音も聞こえない。
世界から切り離されたように静かだった。
その静けさの中では、触れ合った息と、胸の奥で暴れる鼓動の余韻だけが、ひどく大きく感じられた。
吐息が甘い。
その息がまだ俺の皮膚へ触れているような錯覚があって、もうすぐに恋しくなる。
……もう一回。
したい。
喉の奥で、理性の薄い声が生まれた。
手が伸びかける。ほんの数ミリ、指が動く。
……どうしてなんだ。
こないだから、渇くのが早い。
どんどん、早くなってきている。
前は、触れるどころか顔も合わさない日々なんて当たり前だったのに。
リシェは、どうなんだろう。
救いを求めるように顔を見ると、青い瞳が余韻に濡れて揺れていた。
宝石のような光。揺れて、潤んでいる。
喜んでいるのだと思えて、胸が跳ねた。
……なら、いいよな。
もっとしても。
ふと、彷徨っていた俺の視線と、リシェの視線がぴたりとぶつかった。
その瞬間、瞳孔がすうっと開く。
「!」
俺が見惚れていたことに気づいたらしい。
頬が、ぱっと朱に染まった。
「……リシェ」
言葉の先にあった「もう一回」が、喉の奥で勝手に生まれる。
「え!?」
吸い寄せられるように一歩踏み出したところで、リシェがはっと身を引いた。
さらに顔を寄せようとすると、指先が俺の唇へそっと置かれ、進路を塞いだ。
「も、もう駄目。今日は終わりにして」
「なんで。……別に、いいだろ」
遮られた口で言うから、声がこもる。それでも止まれなかった。
「そんなに何度もするものじゃないでしょう? それに……最近、毎日べたべたするじゃない。作業が進まないよ……」
呆れた声。
それなのに頬は柔らかく赤く、照れているのが丸分かりで、余計に火がつく。
「二か月ぶりだから、全然足りない」
掌を舐めて黙らせてやろうとしたら、リシェがびくりとして手を引っ込めた。
その勢いのまま、するりと俺の腕から逃げてしまう。
「セランが勝手に行ってたのに……」
分かっている。俺が勝手に遠征へ出た。
それでも、リシェが迎えに来てくれたから、俺はここへ帰ってきた。だから、そんなに照れずに、もう少しべたべたさせてくれよ。
「なあ。あと一回だけ。そしたら終わるって」
けれど、少しの間があった。
リシェは考え込むように視線を揺らし、小さく息をついた。
播種用の種を選る笊を示して、淡々と宣告する。
「駄目。……日が落ちる前に、これをやらなきゃ駄目なの。暗くなったら見えなくなるし、明日は雨だからできないの。邪魔するなら出ていって。……出ていってくれなきゃ、ジェスに手伝いに来てもらうよ」
ジェス。
……駄目だ。ジェスの前では、まだ明け透けに触れられる段階じゃない。
「……わかったよ」
リシェは真面目で、いつだって目の前のことを疎かにしない。その強さが愛おしくて、悔しい。
俺の甘えは、あっけなく、綺麗に、ど真ん中で撃退された。
さっきまで燃えていた熱が、一気に行き場を失い、喉の奥へ重く沈んでいく。
リシェには「二か月ぶりだから足りない」なんて言ったけれど、本当はそんなものじゃない。
比べものにならない。
十数年分だ。
リシェに出会って、背丈が今の半分もなかった頃から、形を変えながら積もり続けてきた想いだ。
触れられるようになった今、その全部が渇きに変わっている。
本当は、もっと、もっと――。
言えるわけがないけれど。
それでも、せめて近くにいたかった。
姿を見ていたくて、小屋の入り口へ戻る。
番犬みたいに、そこへ座り込んだ。
はあ……。せめて、さっきあの指を舐めておけばよかった。
……分かっている。
これ以上踏み込めば、口づけだけでは済まない。
リシェも分かってるから……だから止めるんだ。嫌がっているわけじゃない。
ただ――照れ方が可愛いから、余計に厄介だ。
くそ。
真っ赤になるリシェを、泣きそうになるまでからかって、不貞腐れたらすぐに抱き締めて、頬擦りして、機嫌が直るまで甘やかしてやりたい。
前は、もっと冷静でいられたのに。
どう攻略してやろうか、なんて考える余裕もあったのに。
今では、近くにいるだけで耐え難いほど心臓が鳴る。
いざという時に動じないように、俺に構う女相手に、反応を読み、距離を詰め、関わり方を覚えた。
それなのに。
全っ然、比較にならない。
いざリシェを俺のものにする時に、平静でいられる自信が一欠片もない。
なんでだよ。
恋が叶ったんじゃなかったのか。
叶ったはずなのに、前より苦しいほど恋焦がれている。
……もしかして。これこそが、恋ってやつなのか。
リシェは俯き、笊を細かく揺すっている。
虫食いや欠けのない種と、傷んだものとを根気強く選り分けていた。
わずかに揺れる銀髪が、夕焼けの光を受けて金色に輝く。
ああ。
俺の女。
やっぱり可愛い。
ずっと目で追っていると、ふとリシェが顔を上げた。
「まーた、見てる」
咎めるような言い方なのに、声は柔らかい。
「ああ。俺は聖女の番犬だからな」
真顔で返すと、リシェがくすりと笑った。
「もう。見張るなら、せめて外を見張っていてよ」
軽く叱りながらも笑い、許すように微笑んでくれる。それだけで、胸が甘くなる。
次の休みなら。
俺とリシェの二人きりなら、誰にも咎められる理由はない。
きっと、この焦りにも似た欲望も、この耐え難い渇きも、隙間なく抱き締め、口づけて、添い寝をして、その温もりでしっかり満たせば癒えるはずだ。
そうすれば、また城で距離を置かなければならない日々にも耐えられる。
休みだ。次の休みに。
リシェと寄り添えば、この渇きもなんとかなる。
……きっと、なんとかなる。




