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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
20章 天秤の傾倒
243/246

止まらない過熱

戻ってから、数日が経っていた。

最初の一日は、戻ってきたという事実だけで気が済んでいた。庭の土を踏み、使い慣れた道具を手に取り、ジェスが真面目に守っていた苗を見て、ようやく帰ってきたのだと思った。国境の乾いた風も、硬い寝台も、遠い町で覚えた人の声も、湿った王都の空気を吸ううちに、少しずつ身体の奥へ沈んでいった。


リシェとも、何度か庭で顔を合わせた。

 

長く停滞していた俺たちの関係が、少しだけ進んだ。それは何もかもが新鮮だった。

顔を見れば嬉しい。声を聞けば落ち着く。少し肩が触れるだけで、長く空いていたものが埋まるような気がした。

そして、隙を見てはもう少し近づいた。帰ってきた確認をするように人目を忍んで、抱き寄せては髪に、頬に、手に……唇に触れた。


少し浮かれている自覚は、まあ……ある。

けれど、リシェを見ると、また手を伸ばしたくなってしまう。

昨日触れたのに、今朝も触れたい。さっき声を聞いたのに、もう一度近くで聞きたい。


恋の成就ってそういうものなのだろう。


ただ、城ではそうもいかないことは理解している。

リシェは聖女で、公爵の婚約者でもある。俺が好きなだけ傍に寄っていい相手ではない。節度をわきまえた幼馴染として並び、作業をし、何でもない顔で言葉を交わす。


今までだってそうしてきたし、これからもそうする。


だから今日も、ただ庭の作業を手伝う顔で、俺は小屋の前に座っていた。


開いた戸の向こうでは、リシェが播種用の種を選っている。

前かがみになるたびに揺れる銀髪。笊の上を行き来する細い指先。時折、首筋へ落ちる髪を払いながら、虫食いや欠けのある種を一粒ずつ取り除いている。


俺のすべき仕事は終わってしまっていた。本当は先取りして進められる仕事もあるにはある。だけどそこまでは手につかなくて小屋の入り口近くに腰を下ろし、誰かが来ないか庭へ意識を向けていた。


けれど、視線はどうしてもリシェへ戻ってしまう。

リシェを見ているだけで、胸の奥にまた熱が溜まっていく。


ようやく想いが通じ、リシェも俺と同じ方へ歩き始めた。だからこそ、「幼馴染」という枠を崩さないよう、距離を細かく調整しなくちゃならない。


……もっとも、今までが近すぎただけでもある。


遠征先の国境詰所で、リシェに足を癒してもらった同僚兵士が、苦笑交じりに言ってきた言葉を思い出した。


「お前と聖女さんが並んでるところ、初めて見たけど、確かに近すぎるよな。噂になったのも、まあ仕方ない気がする。今後は気をつけろよ」


言いたいことはよく分かる。


あの距離は、確かに男女のものに見えたのだろう。

リシェに近づく者を牽制するため、意識的に親密さを演出した瞬間だってあった。


あれが噂の燃料になったことは、否定できない。


だから今日、ここでもう一度、俺たちにとってどこまでが普通なのか、互いの認識をきちんと合わせておきたかった。


庭の隅々へ意識を巡らせる。外から見ている視線や執務室から探るような狐野郎の気配もない。庭の端で資材の在庫を数えるジェスが見える。あれは手伝うようなことでもない。


「リーシェ。まだ終わらないのか?」


何でもないふうに声をかけながら立ち上がる。別に急かしたいわけではない。ただ、中へ入る理由が欲しかった。


「んー。もうちょっと」


入る前に、ジェスと目が合う。

眉を下げて、呆れるような、苦笑いのようななんとも言えない顔。それでも何かを言うことはなく、察してくれたように俺に背を向けた。


悪いな、ジェス。

胸の中でだけ詫びて、小屋の中へ足を踏み入れた。


そっと戸を閉める。

蝶番が小さく軋み、庭を渡っていた風が戸板の向こうへ遠ざかる。

 

「暇なら今日は帰ってもいいよ。ジェスもまだいるから人手は足りてるし」


リシェは気に留めた様子もない。振り向きもせず答える。


「馬鹿だな。聖女様の護衛を切らしてどうすんだ」


壁の高い位置に開いた格子窓から、細い夕陽が差し込んでいた。舞い上がった土埃が、その光の中をゆっくり漂っている。

外からは風に揺れる葉擦れと、帰っていく鳥の声がかすかに届いていた。


庭はいつもと同じように穏やかなのに、戸一枚を隔てたここだけが、妙に狭く、熱を逃がせない場所になったように感じた。


「なあ、リシェ。貴族はあんまりしないかもしれないけどさ。こういうのは、別に普通だよな」


そう言いながら、肩を抱いてみせる。


兵士同士が健闘を讃えて肩を組む。それくらいの軽い感覚のつもりだった。


けれど、指先に触れたリシェの二の腕は柔らかくて、ただそれだけで得をしたような気分になってしまう。


リシェは小首を傾げ、肩を抱く俺の手をちらりと見てから答えた。


「うん?」


ほんの少し考えた後の、素直な返事。

そうだよな。こんなの、違和感を覚えるような触れ合いじゃない。


「手をつないだり、抱き合ったりするのも、まあ、ちょっと親しければおかしくないだろ」


言いながら腕を滑らせ、後ろから抱き寄せる。リシェの右手を取り、俺の左手の指を絡める。


背中越しに感じる華奢さ。

頬に触れる髪の細い感触が、危ういほど心を甘くする。


「うん。そうだね」


柔らかく、受け入れてくれる声。

絡んだ手のひらから、体温が混じりあうの感覚に胸が緩む。


そう、平民なら、これくらい日常だ。再会を喜んで抱き合うことも、親しい相手と手をつないで歩くことも、特別なことではない。


……なら、これも自然な流れだろう。


「あとは……口づけか。手や頬なら、それこそ貴族だって挨拶でするもんな」


握った手の甲へ、そっと唇を寄せた。


その瞬間、リシェの顔が近くなる。

近すぎて、心臓がどきりと跳ねた。


……欲しくなる。


今日はリシェからも、してほしい。

自分の頬を指さす。


「……リシェ。してみて」


「ん」


きょとんとしながらも、リシェは素直に応じてくれた。左右の頬へ、触れない貴族式の挨拶の口づけ。


小さく、唇を鳴らす音がした。


そして、おまけを添えるみたいに、俺の唇へ軽く触れる口づけがあった。


その一瞬で、胸が爆発しそうになる。


……嬉しい。


「挨拶で、唇にはあまりしないみたいだけど……家族とか、恋人とか、すごく親しい人とならそれも普通でしょ? セランは特別だから」


頬へ手を添えてくれる優しさ。その微笑みこそが、俺を特別にする。


家族とか、恋人とか。


恋人という言葉が入っているだけで、浮かれてしまう。リシェは、俺が特別扱いを好むと分かっていて、先回りして、おまけのような優しさをくれた。


嬉しい。……嬉しい。


「うん。これは俺とリシェの仲だからな。……特別だ」


顔が勝手に緩む。


いや、もう恋人のはずだ。何も間違ってはいない。

何も言わなくても、こんなに受け入れあってるんだ。


それでも、すぐに表情を引き締めた。


「外ではするなよ」


ここは城内だ。

表向きは、幼馴染の線を越えないようにしなければならない。


「うん? しないよ。サフィアに怒られちゃう」


リシェは肩をすくめて、のんびりと作業へ戻っていく。

その仕草まで、また可愛い。


挨拶程度の口づけや抱擁はともかく、顔を舐めたり、添い寝したりすることまでは、さすがに大っぴらにはできない。


平民だって、そんな触れ合いをするのは家族か兄弟、それも幼い頃くらいだろう。俺たちが野晒しで生きていた頃のことを知るアスティたちは、事情を察しているけれど。


リシェが失った家族の空白を埋めるような親密さは、残しておきたかった。だから俺も今まで、指摘してやめさせることもしなかった。


これからも、俺たちの普通であってほしい。


今のところは二人きりの時だけの特権でも、そのうち、表向きにも番いであることを当然のように示せる日が来る。


……来る。必ず。


その確信が、喉の奥で熱く脈を打った。誇らしくて、全世界へ知らせたくなる。


けれど今は、密室だ。

残念だが誰にも見られない。

……残念じゃない。幸い誰にも見られない。


さっきの軽い口づけだけでは、物足りない。


「リシェ。おかわり」


顎へ触れ、腰を抱き寄せた。


「ええ? ちょっと……もう……」


たしなめる声。

けれど、伏せられた睫毛が揺れ、頬に差した紅が美しい。


……可愛い。


それだけで胸が満たされる。

いや、満たされない。

もう一度だけ、絶対にしたい。


「なあ。外ではしないから……いいだろ」


言い訳にも似た呟きの後、唇を重ねた。


軽く押し合う輪郭。

少し冷たい、滑らかな唇。


触れ合いながら、どうしても笑みが込み上げて止められない。


「んん!」


胸を軽く叩かれ、リシェの身体が腕の外へ逃れようとする。


本当に嫌なら、もっと強く拒む。

リシェなら、ちゃんと言う。


耳まで真っ赤なのだから、ただ照れているだけだ。

そう決めつけて、腕へ少し力を込めた。


離したら、たぶんまた寂しさが押し寄せる。

だから、あと五秒だけ。

いや、十秒は欲しい。


あと少しだけと自分へ言い訳しながら、リシェの唇へもう一度重ねた。


このまま時が止まればいいのに、同時に、誰にも憚らず触れられる未来まで早く進んでほしいと思う。


トントン、と肩を軽く叩かれる振動で我に帰った。

瞬間、俺の頭を占めていた感触が失われていく。


リシェを息切れさせてしまっていた。


「悪い」


唇を離し、親指の背で自分の唇を拭う。

俺も呼吸は楽になったのに、胸はざわざわする。


「はっ……ふ……苦し……」


リシェは呼吸を整えるように胸元へ手を置き、俺から少し距離を取った。

それでも俺には、恥ずかしそうに視線を逸らしたようにしか見えなかった。


外では葉が擦れ、鳥が一声鳴いている。庭を歩く誰かの足音も、遠くの回廊を閉じる扉の音も聞こえない。


世界から切り離されたように静かだった。


その静けさの中では、触れ合った息と、胸の奥で暴れる鼓動の余韻だけが、ひどく大きく感じられた。


吐息が甘い。


その息がまだ俺の皮膚へ触れているような錯覚があって、もうすぐに恋しくなる。


……もう一回。


したい。


喉の奥で、理性の薄い声が生まれた。


手が伸びかける。ほんの数ミリ、指が動く。


……どうしてなんだ。


こないだから、渇くのが早い。


どんどん、早くなってきている。


前は、触れるどころか顔も合わさない日々なんて当たり前だったのに。


リシェは、どうなんだろう。

救いを求めるように顔を見ると、青い瞳が余韻に濡れて揺れていた。


宝石のような光。揺れて、潤んでいる。

喜んでいるのだと思えて、胸が跳ねた。


……なら、いいよな。


もっとしても。


ふと、彷徨っていた俺の視線と、リシェの視線がぴたりとぶつかった。


その瞬間、瞳孔がすうっと開く。


「!」


俺が見惚れていたことに気づいたらしい。

頬が、ぱっと朱に染まった。


「……リシェ」


言葉の先にあった「もう一回」が、喉の奥で勝手に生まれる。


「え!?」


吸い寄せられるように一歩踏み出したところで、リシェがはっと身を引いた。


さらに顔を寄せようとすると、指先が俺の唇へそっと置かれ、進路を塞いだ。


「も、もう駄目。今日は終わりにして」


「なんで。……別に、いいだろ」


遮られた口で言うから、声がこもる。それでも止まれなかった。


「そんなに何度もするものじゃないでしょう? それに……最近、毎日べたべたするじゃない。作業が進まないよ……」


呆れた声。

それなのに頬は柔らかく赤く、照れているのが丸分かりで、余計に火がつく。


「二か月ぶりだから、全然足りない」


掌を舐めて黙らせてやろうとしたら、リシェがびくりとして手を引っ込めた。


その勢いのまま、するりと俺の腕から逃げてしまう。


「セランが勝手に行ってたのに……」


分かっている。俺が勝手に遠征へ出た。


それでも、リシェが迎えに来てくれたから、俺はここへ帰ってきた。だから、そんなに照れずに、もう少しべたべたさせてくれよ。


「なあ。あと一回だけ。そしたら終わるって」


けれど、少しの間があった。

リシェは考え込むように視線を揺らし、小さく息をついた。


播種用の種を選る笊を示して、淡々と宣告する。


「駄目。……日が落ちる前に、これをやらなきゃ駄目なの。暗くなったら見えなくなるし、明日は雨だからできないの。邪魔するなら出ていって。……出ていってくれなきゃ、ジェスに手伝いに来てもらうよ」


ジェス。


……駄目だ。ジェスの前では、まだ明け透けに触れられる段階じゃない。


「……わかったよ」


リシェは真面目で、いつだって目の前のことを疎かにしない。その強さが愛おしくて、悔しい。

俺の甘えは、あっけなく、綺麗に、ど真ん中で撃退された。

さっきまで燃えていた熱が、一気に行き場を失い、喉の奥へ重く沈んでいく。


リシェには「二か月ぶりだから足りない」なんて言ったけれど、本当はそんなものじゃない。


比べものにならない。


十数年分だ。


リシェに出会って、背丈が今の半分もなかった頃から、形を変えながら積もり続けてきた想いだ。


触れられるようになった今、その全部が渇きに変わっている。


本当は、もっと、もっと――。


言えるわけがないけれど。


それでも、せめて近くにいたかった。

姿を見ていたくて、小屋の入り口へ戻る。


番犬みたいに、そこへ座り込んだ。


はあ……。せめて、さっきあの指を舐めておけばよかった。


……分かっている。


これ以上踏み込めば、口づけだけでは済まない。


リシェも分かってるから……だから止めるんだ。嫌がっているわけじゃない。

ただ――照れ方が可愛いから、余計に厄介だ。


くそ。


真っ赤になるリシェを、泣きそうになるまでからかって、不貞腐れたらすぐに抱き締めて、頬擦りして、機嫌が直るまで甘やかしてやりたい。


前は、もっと冷静でいられたのに。

どう攻略してやろうか、なんて考える余裕もあったのに。

今では、近くにいるだけで耐え難いほど心臓が鳴る。


いざという時に動じないように、俺に構う女相手に、反応を読み、距離を詰め、関わり方を覚えた。


それなのに。


全っ然、比較にならない。

いざリシェを俺のものにする時に、平静でいられる自信が一欠片もない。


なんでだよ。

恋が叶ったんじゃなかったのか。

叶ったはずなのに、前より苦しいほど恋焦がれている。


……もしかして。これこそが、恋ってやつなのか。


リシェは俯き、笊を細かく揺すっている。

虫食いや欠けのない種と、傷んだものとを根気強く選り分けていた。

わずかに揺れる銀髪が、夕焼けの光を受けて金色に輝く。


ああ。


俺の女。


やっぱり可愛い。


ずっと目で追っていると、ふとリシェが顔を上げた。


「まーた、見てる」


咎めるような言い方なのに、声は柔らかい。


「ああ。俺は聖女の番犬だからな」


真顔で返すと、リシェがくすりと笑った。


「もう。見張るなら、せめて外を見張っていてよ」


軽く叱りながらも笑い、許すように微笑んでくれる。それだけで、胸が甘くなる。


次の休みなら。


俺とリシェの二人きりなら、誰にも咎められる理由はない。


きっと、この焦りにも似た欲望も、この耐え難い渇きも、隙間なく抱き締め、口づけて、添い寝をして、その温もりでしっかり満たせば癒えるはずだ。


そうすれば、また城で距離を置かなければならない日々にも耐えられる。


休みだ。次の休みに。

リシェと寄り添えば、この渇きもなんとかなる。


……きっと、なんとかなる。

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