渇く沼
久しぶりに、庭でリシェを見た。
王都へ戻ってから、初めて顔を合わせる。
本当は、戻ってきてすぐにでも会いたくて、ずっとそわそわしていた。
今朝だって、いないことは分かっていたけれど、頭のどこかでは、あの銀色のひらめきが少しでも目に入らないかと期待していた。
今も、庭へ続く回廊へ入った時には、もうリシェの匂いを拾っていた。
まるで、向こうから俺を呼んでいるみたいだった。
胸の奥が、どっと熱くなった。息が詰まり、一瞬、呼吸の仕方を忘れるほどだった。
……たまらなかった。
ほんの少し前に会って、唇を重ね、息を混ぜたばかりなのに。
国境で得たものだけで胸は満ちていて、今朝カイルに何を言われても、不思議なくらい腹が立たなかった。
それなのに今は、会う前よりも抑えが利かないほど、胸が苦しい。
遠征から王都へ戻る間、果てのない乾いた土地を歩く夢を何度も見た。どれだけ進んでも彼女の気配は遠く、喉の奥が焼けつくように渇いていた。
ようやく辿り着いた、水源。
それを目にした途端、自分がどれほど渇いていたのかを思い出したーーそんな気がした。
だけど、この庭は夢じゃない。
湿った土も、花の香りも、彼女のきらめく銀髪も、白い肌も、全部が現実だった。
リシェが今、目の前にいる。生きている。
息をして、俺の名前を呼ぶ。
俺のリシェが、ここにいる。
「セラン。おかえり」
リシェは小さく手を広げ、待っていたとでもいうように微笑んだ。
顔を見られるだけで嬉しい。どうしようもなく好きだ。
そして、俺のことを好きでいてくれるリシェが、ここにいる。
そう思うだけで、心臓が壊れそうだった。
あの開かれた腕の中へ飛び込み、そのままきつく抱き締めたい衝動に駆られた。
俺が本当に犬なら、尻尾を振り回して飛びついている。
ウルみたいに。
……いや。
別に、犬じゃなくてもできる。
足が勝手に一歩を踏み出した。理性よりも先に、身体が動いていた。
「ごめん。……ジェス、悪いけど」
言外に頼んだ。
見張りをしていてくれ。
少しだけ、時間をくれ。
そんな意味を込めたつもりだった。
顔は取り繕えているだろうか。理性が溶けかけているのを自覚しながら、それでも笑ってみせた。
「……あ、はい。どうぞ」
ジェスが言い終えるかどうかのうちに、俺はリシェの袖を取った。
ジェスの目がある。ここで堂々と手をつなぐわけにはいかない。
そのまま、引くようにして小屋へ向かう。
早く。
会うまでは、ちゃんと落ち着こうと思っていた。どれだけ焦がれていても、次に二人で休める日までは耐えて、城内では節度を保たなきゃならないとも思っていた。
でも、それは明日からでいい。
大丈夫だ。作業小屋は死角になっている。空気を通すための格子窓があるくらいで、よほどのことがなければ見つからない。
見られたとしても、幼馴染同士がそこで、ただ優しく再会の抱擁をしているだけだ。
ああして腕を広げたのだから、リシェだって抱き締めてほしいと思っているはずだ。
寂しがらせた詫びに、たまには甘やかしてやらないといけない。
やっぱり、少しだけ補給もしておこう。
あの朝ほど深くなくていい。ほんの少し、触れるだけの口づけでいい。
人目を忍ばずに寄り添える日まで耐えるために。
だって、久しぶりに帰ってきたんだ。
触れて、ここにいることを確かめないと。
心の奥が焼けている。
早く触れたい。
抱き寄せたい。
「え? あ、ちょっと、セラン。待って」
リシェも、引かれるまま数歩ついてくる。
――悪い。待てない。お前も同じだろ。
けれど、うっかり歩幅を大きくしすぎて、リシェにわずかにたたらを踏ませてしまった。
こういう時に支えるのは、問題ないはずだ。
そう、ただのエスコート。
腰へ手を回して支えると、リシェが小さく声を上げた。
「え」
声まで可愛い。
それだけで、胸の奥がまた熱くなる。
「……行こう」
「ねえ。どうしたの、セラン」
何か答えることさえ、もどかしかった。
俺たちには、もう言葉なんていらないはずだ。
軽く背を押してリシェを先に入れ、戸を後ろ手に閉める。
蝶番が小さく軋み、庭を渡っていた風が戸板の向こうへ遠ざかった。
小屋の中は、二人で向かい合えばそれだけで狭く感じる程度の広さしかない。壁際には鍬や鋤、枝切り鋏が掛けられ、麻紐や布袋、植え替えを待つ素焼きの鉢が棚へ押し込まれている。作業台の上には土を払う刷毛と、選別途中らしい種の入った浅い笊が置かれたままだった。
乾いた木と土、薬草、それから陽に温められた麻袋の匂い。
その全部に混じって、リシェの香りが近くにある。
壁の高い位置に開いた格子窓から、細い夕陽が差し込んでいた。舞い上がった土埃が、その光の中でゆっくりと浮かんでいる。
外からは、風に揺れる葉擦れと、帰っていく鳥の声がかすかに届いていた。
庭はいつもと同じように穏やかなのに、戸一枚を隔てたここだけが、妙に狭く、熱を逃がせない場所になったように感じた。
すぐに抱き締めた。
腕の中へ戻ってくる細い身体の感触に、心臓が弾けるように跳ねる。
言葉なんていらないと思ったけれど。
それでも、これだけは言わなければならない。
「……ただいま」
俺は、リシェのところへ帰ってきた。
「……!」
頬を両手で包み、その目を覗き込む。青い瞳が驚きで丸くなり、近い距離で揺れている。
ああ、可愛い。
食べてしまいたいほど、愛おしい。
「おかえり」
まだ戸惑いが残る顔のまま、それでもリシェは柔らかく笑ってくれた。
胸の奥で、何かが弾けた。
「悪かったな。急に引っ張って」
そう言いながらも、腕を解く気にはなれなかった。
「よし。『ただいま』の口づけする」
ためらいもなく、言葉が口をついた。
唇を近づける。
「え……」
リシェの視線が揺れ、頬に薄く赤みが差した。
「だ、だめだよ。ここじゃ……」
そうだよな。
ここで、あの朝みたいなことをするつもりだと思ったのか。
リシェも思い出している。
なら、あの口づけはもう俺たち二人のものになっている。
その考えだけで、どうしようもなく嬉しくなった。
頬へ軽く口づけ、犬みたいに鼻先を擦り寄せる。
「なーに想像してんだ。普通のに決まってんだろ。ほら、お前も」
笑いながら、自分の頬を向けた。
まるで、リシェの方が深い口づけを想像した早合点したことにして、からかうようにつついた。
「あ、そうだよね。ふふ、びっくりした。……おかえりなさい」
安心したように、リシェが顔を寄せてくる。頬へ触れるはずだった唇が近づいた。
ほんの少しだけ、欲が勝った。
顔をずらし、その唇を自分の唇で受け止める。
「んむっ」
驚いた息が、触れ合った隙間からこぼれた。
唇が重なるだけの、軽い口づけ。
――なのに、甘い。
たまらない。
触れるだけでは足りない。
もっと深く、長く重ねたくなる。
だめだ。
我慢しろ、俺。
今日はここまで。焦るな。焦るな。
理性を保て。
我慢してこそ、美味しいんだから。
そう思うのに、顔が勝手に緩んでしまう。
リシェが可愛くて仕方がない。好きで、好きで、息が苦しい。
王都に来てから、リシェとの時間がこんなに甘く、幸せだと思ったことは初めてだった。
唇を重ねたまま、どうしても笑みがこぼれてしまう。
「むう!」
腕の中で、リシェが口を塞がれたまま抗議の声を上げた。両手を俺の胸に突き、少し距離を作ろうとしている。
長すぎたか。
それとも、頬だと思わせて唇を奪ったことに怒っているのか。
ただ照れているだけかもしれない。
今の俺には、都合のいい方しか見えなかった。
でも、いいじゃないか。少しくらい。
宥めるようにリシェの頭を撫でてから、もう一度後頭部を引き寄せた。
……明日からは我慢する。
また仕事をして、距離を保って、次に会える日まで耐える。
だから今だけは――もう少しだけ、味わわせてくれ。
そう自分に言い聞かせながら、離れかけた唇を追った。
今度こそ、短く終えるつもりだった。
次も、その次も、同じことを思った。




