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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
20章 天秤の傾倒
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渇く沼

久しぶりに、庭でリシェを見た。

王都へ戻ってから、初めて顔を合わせる。


本当は、戻ってきてすぐにでも会いたくて、ずっとそわそわしていた。

今朝だって、いないことは分かっていたけれど、頭のどこかでは、あの銀色のひらめきが少しでも目に入らないかと期待していた。


今も、庭へ続く回廊へ入った時には、もうリシェの匂いを拾っていた。

まるで、向こうから俺を呼んでいるみたいだった。


胸の奥が、どっと熱くなった。息が詰まり、一瞬、呼吸の仕方を忘れるほどだった。


……たまらなかった。


ほんの少し前に会って、唇を重ね、息を混ぜたばかりなのに。

国境で得たものだけで胸は満ちていて、今朝カイルに何を言われても、不思議なくらい腹が立たなかった。


それなのに今は、会う前よりも抑えが利かないほど、胸が苦しい。


遠征から王都へ戻る間、果てのない乾いた土地を歩く夢を何度も見た。どれだけ進んでも彼女の気配は遠く、喉の奥が焼けつくように渇いていた。


ようやく辿り着いた、水源。

それを目にした途端、自分がどれほど渇いていたのかを思い出したーーそんな気がした。


だけど、この庭は夢じゃない。

湿った土も、花の香りも、彼女のきらめく銀髪も、白い肌も、全部が現実だった。

リシェが今、目の前にいる。生きている。

息をして、俺の名前を呼ぶ。


俺のリシェが、ここにいる。


「セラン。おかえり」


リシェは小さく手を広げ、待っていたとでもいうように微笑んだ。


顔を見られるだけで嬉しい。どうしようもなく好きだ。

そして、俺のことを好きでいてくれるリシェが、ここにいる。


そう思うだけで、心臓が壊れそうだった。


あの開かれた腕の中へ飛び込み、そのままきつく抱き締めたい衝動に駆られた。


俺が本当に犬なら、尻尾を振り回して飛びついている。

ウルみたいに。


……いや。


別に、犬じゃなくてもできる。


足が勝手に一歩を踏み出した。理性よりも先に、身体が動いていた。


「ごめん。……ジェス、悪いけど」


言外に頼んだ。


見張りをしていてくれ。

少しだけ、時間をくれ。


そんな意味を込めたつもりだった。


顔は取り繕えているだろうか。理性が溶けかけているのを自覚しながら、それでも笑ってみせた。


「……あ、はい。どうぞ」


ジェスが言い終えるかどうかのうちに、俺はリシェの袖を取った。

ジェスの目がある。ここで堂々と手をつなぐわけにはいかない。


そのまま、引くようにして小屋へ向かう。


早く。


会うまでは、ちゃんと落ち着こうと思っていた。どれだけ焦がれていても、次に二人で休める日までは耐えて、城内では節度を保たなきゃならないとも思っていた。


でも、それは明日からでいい。


大丈夫だ。作業小屋は死角になっている。空気を通すための格子窓があるくらいで、よほどのことがなければ見つからない。


見られたとしても、幼馴染同士がそこで、ただ優しく再会の抱擁をしているだけだ。


ああして腕を広げたのだから、リシェだって抱き締めてほしいと思っているはずだ。


寂しがらせた詫びに、たまには甘やかしてやらないといけない。


やっぱり、少しだけ補給もしておこう。

あの朝ほど深くなくていい。ほんの少し、触れるだけの口づけでいい。


人目を忍ばずに寄り添える日まで耐えるために。


だって、久しぶりに帰ってきたんだ。

触れて、ここにいることを確かめないと。


心の奥が焼けている。


早く触れたい。

抱き寄せたい。


「え? あ、ちょっと、セラン。待って」


リシェも、引かれるまま数歩ついてくる。


――悪い。待てない。お前も同じだろ。


けれど、うっかり歩幅を大きくしすぎて、リシェにわずかにたたらを踏ませてしまった。


こういう時に支えるのは、問題ないはずだ。


そう、ただのエスコート。


腰へ手を回して支えると、リシェが小さく声を上げた。


「え」


声まで可愛い。

それだけで、胸の奥がまた熱くなる。


「……行こう」


「ねえ。どうしたの、セラン」


何か答えることさえ、もどかしかった。

俺たちには、もう言葉なんていらないはずだ。


軽く背を押してリシェを先に入れ、戸を後ろ手に閉める。


蝶番が小さく軋み、庭を渡っていた風が戸板の向こうへ遠ざかった。


小屋の中は、二人で向かい合えばそれだけで狭く感じる程度の広さしかない。壁際には鍬や鋤、枝切り鋏が掛けられ、麻紐や布袋、植え替えを待つ素焼きの鉢が棚へ押し込まれている。作業台の上には土を払う刷毛と、選別途中らしい種の入った浅い笊が置かれたままだった。


乾いた木と土、薬草、それから陽に温められた麻袋の匂い。


その全部に混じって、リシェの香りが近くにある。


壁の高い位置に開いた格子窓から、細い夕陽が差し込んでいた。舞い上がった土埃が、その光の中でゆっくりと浮かんでいる。


外からは、風に揺れる葉擦れと、帰っていく鳥の声がかすかに届いていた。


庭はいつもと同じように穏やかなのに、戸一枚を隔てたここだけが、妙に狭く、熱を逃がせない場所になったように感じた。


すぐに抱き締めた。


腕の中へ戻ってくる細い身体の感触に、心臓が弾けるように跳ねる。


言葉なんていらないと思ったけれど。


それでも、これだけは言わなければならない。


「……ただいま」


俺は、リシェのところへ帰ってきた。


「……!」


頬を両手で包み、その目を覗き込む。青い瞳が驚きで丸くなり、近い距離で揺れている。


ああ、可愛い。


食べてしまいたいほど、愛おしい。


「おかえり」


まだ戸惑いが残る顔のまま、それでもリシェは柔らかく笑ってくれた。


胸の奥で、何かが弾けた。


「悪かったな。急に引っ張って」


そう言いながらも、腕を解く気にはなれなかった。


「よし。『ただいま』の口づけする」


ためらいもなく、言葉が口をついた。

唇を近づける。


「え……」


リシェの視線が揺れ、頬に薄く赤みが差した。


「だ、だめだよ。ここじゃ……」


そうだよな。

ここで、あの朝みたいなことをするつもりだと思ったのか。


リシェも思い出している。


なら、あの口づけはもう俺たち二人のものになっている。 

その考えだけで、どうしようもなく嬉しくなった。


頬へ軽く口づけ、犬みたいに鼻先を擦り寄せる。


「なーに想像してんだ。普通のに決まってんだろ。ほら、お前も」


笑いながら、自分の頬を向けた。

まるで、リシェの方が深い口づけを想像した早合点したことにして、からかうようにつついた。


「あ、そうだよね。ふふ、びっくりした。……おかえりなさい」


安心したように、リシェが顔を寄せてくる。頬へ触れるはずだった唇が近づいた。


ほんの少しだけ、欲が勝った。

顔をずらし、その唇を自分の唇で受け止める。


「んむっ」


驚いた息が、触れ合った隙間からこぼれた。

唇が重なるだけの、軽い口づけ。


――なのに、甘い。


たまらない。


触れるだけでは足りない。

もっと深く、長く重ねたくなる。


だめだ。


我慢しろ、俺。

今日はここまで。焦るな。焦るな。

理性を保て。


我慢してこそ、美味しいんだから。


そう思うのに、顔が勝手に緩んでしまう。

リシェが可愛くて仕方がない。好きで、好きで、息が苦しい。

王都に来てから、リシェとの時間がこんなに甘く、幸せだと思ったことは初めてだった。


唇を重ねたまま、どうしても笑みがこぼれてしまう。


「むう!」


腕の中で、リシェが口を塞がれたまま抗議の声を上げた。両手を俺の胸に突き、少し距離を作ろうとしている。


長すぎたか。

それとも、頬だと思わせて唇を奪ったことに怒っているのか。

ただ照れているだけかもしれない。


今の俺には、都合のいい方しか見えなかった。


でも、いいじゃないか。少しくらい。


宥めるようにリシェの頭を撫でてから、もう一度後頭部を引き寄せた。


……明日からは我慢する。

また仕事をして、距離を保って、次に会える日まで耐える。


だから今だけは――もう少しだけ、味わわせてくれ。


そう自分に言い聞かせながら、離れかけた唇を追った。

今度こそ、短く終えるつもりだった。


次も、その次も、同じことを思った。

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