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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
20章 天秤の傾倒
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齟齬する再会

夕刻の光が、庭の葉を透かして金色に染めていた。

庭へ着いた時、まだ誰の姿もなかった。どうやら今日は、僕が一番乗りらしい。


門をくぐり、作業道具の置かれた小屋へ向かおうとしたところで、庭に隣接する聖女執務室の窓辺に人影が見えた。


柔らかな銀の髪が、傾きかけた陽の光を受けて淡く輝いている。


あ、リシェリアさんだ。


向こうも僕に気づいたらしく、窓越しに目が合った。

リシェリアさんの手が緩く振られて、僕は慌てて頭を下げた。

机の上には片づけかけの書類が重ねられ、彼女はちょうど席を立ったところのように見える。今から庭へ降りてくるつもりだったのだろう。


風は柔らかく、鳥の帰る声が遠くに聞こえていた。そんな穏やかな時間の中で、僕はなるべく何でもないことのように声をかけた。


もしかすると、ご存じではないかもしれない。

ずっと待っていた人が、もうこの庭へ戻ってきたことを。


そんなことを考えているうちに、執務室の庭扉が開いた。

リシェリアさんが階段をゆっくり降りてくる。


「リシェリアさん。今朝、セランさんが庭に戻ってきていました。よかったですね」


「ジェス、ご機嫌よう。……そうみたいだね。嬉しい」


リシェリアさんは庭を見渡した。


積み直された麻袋や、土を返された一角。朝にはなかったはずの小さな変化を順に眺める目に、驚いた様子はない。


セランさんが庭へ戻っていたことには、もう気づいていたらしい。

声の調子も、微笑みも、以前と比べて静かに整っている。


……いや、普通すぎる。


長い遠征だった。

城の中では、いろいろな噂が飛び交っていた。


宿舎や食堂では、「セランは左遷されたらしい」とか、「現地で女を作った」とか、「公爵に聖女との関係を咎められた」とか。果てには、「失恋の痛手を乾いた国で乾かしている」なんて話まで、兵たちが笑いながら広めていた。官僚の一部も、事情を知っているような顔で囁いていた。


けれど僕は知っている。


セランさんは、そんなやわな人じゃない。


……清廉潔白な人でもないけど。


すぐ怒るし、口は悪いし、手も早い。細かい作業は苦手で、狡いところもある。目も鼻も利くから、逃げるのもサボるのも上手い。


知名度もあって、市街地で女の子にまとわりつかれることも多いと聞く。……現地にも、勝手に恋人のつもりになっている人くらいはいるかもしれない。


それでも、リシェリアさんへの愛だけは疑いようがない。


先に戻った兵たちの話を聞く限り、帰ってこなかったのも、現地で必要とされていたからだろう。


ただ――リシェリアさんが寂しそうに庭に立つ姿を、僕は何度も見ていた。何度か手紙を出しても返事がないと、静かに肩を落としていたことも知っている。僕も、知っている限りのことを伝えて、不安を晴らそうとしていた。

その横で、カイルさんが励ましたり、気を逸らそうと話しかけたりしていたことも覚えている。


少しだけ、不安だった。

カイルさんは、グラント様との婚約発表で一度消えかけていた情熱を、いつの間にか取り戻していた。


セランさんの不在で空いた場所へ入り込むように、以前より頻繁に庭へ顔を出し、そこにいる時にはずっと自然に笑うようになっていた。


リシェリアさんも、力を抜いた態度で返すようになっていた。


以前は、少し作業をしただけでへばって座り込んでいたカイルさんが、今ではそれぞれの苗の特性も知り、必要な世話を言われなくてもしてくれる。リシェリアさんがいない時でも庭の話をして、次に来られそうな日を教えてくれた。


いつの間にか、客ではなくなっていた。


何かを得たような安定と信頼が、二人の間にあって――。


僕は思った。


寂しさのあまり、リシェリアさんはカイルさんの方へ傾いたのかもしれない、と。でも、今朝のセランさんを見て、その考えは全部崩れた。


あの顔。


遠征帰りで疲れているどころか、体中に熱がこもっているみたいだった。

全身に、過剰なほど明るい活力が満ちていた。

まるで恋をしたばかりの人間みたいに。


いや――恋を隠すのをやめた人間みたいに。


二か月も会っていなかったとは思えない。

リシェリアさんが、あんなに何の音信もないと寂しげにしていたのに。


何があったんだ、向こうで。


「……セランさん、朝からご機嫌な様子でしたよ。あ、もう会いましたか?」


「ううん。帰ってきてからは、まだ会ってないんだ。……あ、来たね」


リシェリアさんの目が、庭の入り口へ向いた。

次の瞬間、足音が聞こえた。


「リシェ。……リシェ、ただいま。帰ってきた」


その声には、隠す気のない想いが詰まっていた。


今朝は、何かを手に入れた人の顔だった。

満ち足りて、余裕があって、カイルさんに何を言われても笑って流せるほどだった。


なのに、リシェリアさんを見た今の顔には、その余裕はなかった。

満たされていたはずなのに、ずっと前から飢え続けていたみたいな目をしていた。目の前のリシェリアさんへ手を伸ばさずにはいられないような、隠しようのない必死さがあった。


「セラン。おかえり」


リシェリアさんは、短く返した。

小さく手を広げ、歓迎するように微笑んだ。声も淡く、優しかった。

帰還を喜ぶ挨拶だ。


けれど、変だ。あれほど待っていた人が戻ったのなら、もっと顔を輝かせてもいいはずだった。

いつもなら、リシェリアさんの方が無邪気に駆け寄って抱きつこうとし、セランさんは人目を気にしてその手前で制する。間に合わず抱き合ってしまえば、僕が慌てて死角を作る――そういう流れになるはずだったのに。


アスティ様から聞いて、もっと前から帰還を知っていたとか?


……いやいや。知っていたとしたら、逆にもっと期待していても変じゃない。


何かが合わない。

二人の間にある温度が、どうにも噛み合っていない。そうとしか言えない違和感が残った。


なのに――空気が一瞬で変わった。

セランさんの視線が、リシェリアさんを見つけた途端に釘付けになった。


いつものセランさんなら、庭へ入った瞬間に周囲をひと通り見る。誰がいるか、道具がどこにあるか、門が閉まっているか。本人が意識しているかは知らないが、それが癖になっていた。


けれど今は、僕の姿も、開いたままの門も、足元に置かれた道具も見えていないようだった。


……リシェリアさんしか見ていない。


見えない空気が圧縮されたみたいに、二人の距離だけが不自然に縮まっていく。

セランさんは僕の方など見もせず、まっすぐ一歩を踏み出した。


「ごめん。……ジェス、悪いけど」


「……あ、はい。どうぞ」


僕が言い終える前に、彼はリシェリアさんの袖を引き、小屋の方へ歩き出した。


「え? あ、ちょっと、セラン。待って」


リシェリアさんも、引かれるまま数歩ついていく。


けれど、セランさんの歩幅についていけず、わずかにたたらを踏んだ。その腰へ、支えるように手が添えられる。


「え」


リシェリアさんは、腰に添えられた手とセランさんを交互に見て、頬を真っ赤にした。


「……行こう」


「ねえ。どうしたの、セラン」


戸惑いの混じった声が、小屋の中へ消える。

戸が閉まった。


あ。


止めた方がよかったのだろうか。

そう思った時には、もう遅かった。

二人の間に流れていたものがあまりに濃くて、僕が踏み込んでいい距離ではないように見えたのだ。


……ひえ。


庭の空気が一変したように感じた。さっきまで静かだったのに、どこか熱気を帯びている。


あの小屋で、きっと――。

いやいやいや、考えない。それはやめておこう。

二か月ぶりなんだぞ、ジェス。少しくらいは、そっとしておいてあげよう。


そうして僕は、小屋を見張れる位置まで、一歩……いや、十歩ほど後ろへ下がった。


このくらいなら大丈夫だ。変な物音や、助けを求める声、言い争いくらいなら十分聞こえる距離だ。

それ以外は何も聞きたくなかったのが本音だった。

聞こえてしまったら、余計な想像までしてしまう。


この位置からは、話し声も、道具の動く音も聞こえなかった。


何も聞こえないことの方が、かえって中にある熱を想像させる。

そう気づいた時には、もう耳を澄ませてしまっていたけれど、今更近寄るわけにもいかない。


それにしたって……久しぶりの再会、という言葉では収まらない。


あの表情。抑えていた何かが弾けたみたいじゃないか。


カイルさんの、静かに底で灯る熱とはまるで反対だ。


ひとりは深いところで安定しているように見え、もうひとりは、隠しようもなく炎を上げて燃えている。


なんで。

どこで、どうして、こんなに変わった?

僕の見ていないところで――いったい何があったんだよ?


背中に汗が滲んだ。夕暮れの風が、その湿り気を冷たく撫でていく。


僕は閉じた戸と、誰もいない庭の入り口を交互に見た。

今は僕しかいない。もし誰かが来たら、止めるのか、隠すのか。そんなことすら決められないまま、僕は小屋を見張れる位置に立ち尽くしていた。


何かが、止められない速さで動き始めている。


そんな気がした。

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