齟齬する再会
夕刻の光が、庭の葉を透かして金色に染めていた。
庭へ着いた時、まだ誰の姿もなかった。どうやら今日は、僕が一番乗りらしい。
門をくぐり、作業道具の置かれた小屋へ向かおうとしたところで、庭に隣接する聖女執務室の窓辺に人影が見えた。
柔らかな銀の髪が、傾きかけた陽の光を受けて淡く輝いている。
あ、リシェリアさんだ。
向こうも僕に気づいたらしく、窓越しに目が合った。
リシェリアさんの手が緩く振られて、僕は慌てて頭を下げた。
机の上には片づけかけの書類が重ねられ、彼女はちょうど席を立ったところのように見える。今から庭へ降りてくるつもりだったのだろう。
風は柔らかく、鳥の帰る声が遠くに聞こえていた。そんな穏やかな時間の中で、僕はなるべく何でもないことのように声をかけた。
もしかすると、ご存じではないかもしれない。
ずっと待っていた人が、もうこの庭へ戻ってきたことを。
そんなことを考えているうちに、執務室の庭扉が開いた。
リシェリアさんが階段をゆっくり降りてくる。
「リシェリアさん。今朝、セランさんが庭に戻ってきていました。よかったですね」
「ジェス、ご機嫌よう。……そうみたいだね。嬉しい」
リシェリアさんは庭を見渡した。
積み直された麻袋や、土を返された一角。朝にはなかったはずの小さな変化を順に眺める目に、驚いた様子はない。
セランさんが庭へ戻っていたことには、もう気づいていたらしい。
声の調子も、微笑みも、以前と比べて静かに整っている。
……いや、普通すぎる。
長い遠征だった。
城の中では、いろいろな噂が飛び交っていた。
宿舎や食堂では、「セランは左遷されたらしい」とか、「現地で女を作った」とか、「公爵に聖女との関係を咎められた」とか。果てには、「失恋の痛手を乾いた国で乾かしている」なんて話まで、兵たちが笑いながら広めていた。官僚の一部も、事情を知っているような顔で囁いていた。
けれど僕は知っている。
セランさんは、そんなやわな人じゃない。
……清廉潔白な人でもないけど。
すぐ怒るし、口は悪いし、手も早い。細かい作業は苦手で、狡いところもある。目も鼻も利くから、逃げるのもサボるのも上手い。
知名度もあって、市街地で女の子にまとわりつかれることも多いと聞く。……現地にも、勝手に恋人のつもりになっている人くらいはいるかもしれない。
それでも、リシェリアさんへの愛だけは疑いようがない。
先に戻った兵たちの話を聞く限り、帰ってこなかったのも、現地で必要とされていたからだろう。
ただ――リシェリアさんが寂しそうに庭に立つ姿を、僕は何度も見ていた。何度か手紙を出しても返事がないと、静かに肩を落としていたことも知っている。僕も、知っている限りのことを伝えて、不安を晴らそうとしていた。
その横で、カイルさんが励ましたり、気を逸らそうと話しかけたりしていたことも覚えている。
少しだけ、不安だった。
カイルさんは、グラント様との婚約発表で一度消えかけていた情熱を、いつの間にか取り戻していた。
セランさんの不在で空いた場所へ入り込むように、以前より頻繁に庭へ顔を出し、そこにいる時にはずっと自然に笑うようになっていた。
リシェリアさんも、力を抜いた態度で返すようになっていた。
以前は、少し作業をしただけでへばって座り込んでいたカイルさんが、今ではそれぞれの苗の特性も知り、必要な世話を言われなくてもしてくれる。リシェリアさんがいない時でも庭の話をして、次に来られそうな日を教えてくれた。
いつの間にか、客ではなくなっていた。
何かを得たような安定と信頼が、二人の間にあって――。
僕は思った。
寂しさのあまり、リシェリアさんはカイルさんの方へ傾いたのかもしれない、と。でも、今朝のセランさんを見て、その考えは全部崩れた。
あの顔。
遠征帰りで疲れているどころか、体中に熱がこもっているみたいだった。
全身に、過剰なほど明るい活力が満ちていた。
まるで恋をしたばかりの人間みたいに。
いや――恋を隠すのをやめた人間みたいに。
二か月も会っていなかったとは思えない。
リシェリアさんが、あんなに何の音信もないと寂しげにしていたのに。
何があったんだ、向こうで。
「……セランさん、朝からご機嫌な様子でしたよ。あ、もう会いましたか?」
「ううん。帰ってきてからは、まだ会ってないんだ。……あ、来たね」
リシェリアさんの目が、庭の入り口へ向いた。
次の瞬間、足音が聞こえた。
「リシェ。……リシェ、ただいま。帰ってきた」
その声には、隠す気のない想いが詰まっていた。
今朝は、何かを手に入れた人の顔だった。
満ち足りて、余裕があって、カイルさんに何を言われても笑って流せるほどだった。
なのに、リシェリアさんを見た今の顔には、その余裕はなかった。
満たされていたはずなのに、ずっと前から飢え続けていたみたいな目をしていた。目の前のリシェリアさんへ手を伸ばさずにはいられないような、隠しようのない必死さがあった。
「セラン。おかえり」
リシェリアさんは、短く返した。
小さく手を広げ、歓迎するように微笑んだ。声も淡く、優しかった。
帰還を喜ぶ挨拶だ。
けれど、変だ。あれほど待っていた人が戻ったのなら、もっと顔を輝かせてもいいはずだった。
いつもなら、リシェリアさんの方が無邪気に駆け寄って抱きつこうとし、セランさんは人目を気にしてその手前で制する。間に合わず抱き合ってしまえば、僕が慌てて死角を作る――そういう流れになるはずだったのに。
アスティ様から聞いて、もっと前から帰還を知っていたとか?
……いやいや。知っていたとしたら、逆にもっと期待していても変じゃない。
何かが合わない。
二人の間にある温度が、どうにも噛み合っていない。そうとしか言えない違和感が残った。
なのに――空気が一瞬で変わった。
セランさんの視線が、リシェリアさんを見つけた途端に釘付けになった。
いつものセランさんなら、庭へ入った瞬間に周囲をひと通り見る。誰がいるか、道具がどこにあるか、門が閉まっているか。本人が意識しているかは知らないが、それが癖になっていた。
けれど今は、僕の姿も、開いたままの門も、足元に置かれた道具も見えていないようだった。
……リシェリアさんしか見ていない。
見えない空気が圧縮されたみたいに、二人の距離だけが不自然に縮まっていく。
セランさんは僕の方など見もせず、まっすぐ一歩を踏み出した。
「ごめん。……ジェス、悪いけど」
「……あ、はい。どうぞ」
僕が言い終える前に、彼はリシェリアさんの袖を引き、小屋の方へ歩き出した。
「え? あ、ちょっと、セラン。待って」
リシェリアさんも、引かれるまま数歩ついていく。
けれど、セランさんの歩幅についていけず、わずかにたたらを踏んだ。その腰へ、支えるように手が添えられる。
「え」
リシェリアさんは、腰に添えられた手とセランさんを交互に見て、頬を真っ赤にした。
「……行こう」
「ねえ。どうしたの、セラン」
戸惑いの混じった声が、小屋の中へ消える。
戸が閉まった。
あ。
止めた方がよかったのだろうか。
そう思った時には、もう遅かった。
二人の間に流れていたものがあまりに濃くて、僕が踏み込んでいい距離ではないように見えたのだ。
……ひえ。
庭の空気が一変したように感じた。さっきまで静かだったのに、どこか熱気を帯びている。
あの小屋で、きっと――。
いやいやいや、考えない。それはやめておこう。
二か月ぶりなんだぞ、ジェス。少しくらいは、そっとしておいてあげよう。
そうして僕は、小屋を見張れる位置まで、一歩……いや、十歩ほど後ろへ下がった。
このくらいなら大丈夫だ。変な物音や、助けを求める声、言い争いくらいなら十分聞こえる距離だ。
それ以外は何も聞きたくなかったのが本音だった。
聞こえてしまったら、余計な想像までしてしまう。
この位置からは、話し声も、道具の動く音も聞こえなかった。
何も聞こえないことの方が、かえって中にある熱を想像させる。
そう気づいた時には、もう耳を澄ませてしまっていたけれど、今更近寄るわけにもいかない。
それにしたって……久しぶりの再会、という言葉では収まらない。
あの表情。抑えていた何かが弾けたみたいじゃないか。
カイルさんの、静かに底で灯る熱とはまるで反対だ。
ひとりは深いところで安定しているように見え、もうひとりは、隠しようもなく炎を上げて燃えている。
なんで。
どこで、どうして、こんなに変わった?
僕の見ていないところで――いったい何があったんだよ?
背中に汗が滲んだ。夕暮れの風が、その湿り気を冷たく撫でていく。
僕は閉じた戸と、誰もいない庭の入り口を交互に見た。
今は僕しかいない。もし誰かが来たら、止めるのか、隠すのか。そんなことすら決められないまま、僕は小屋を見張れる位置に立ち尽くしていた。
何かが、止められない速さで動き始めている。
そんな気がした。




