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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
20章 天秤の傾倒
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狼の帰巣

国境から王都へ戻ったのは、昨日の昼過ぎだった。


長く乾いた土地の匂いが、まだ体の奥に残っている気がした。荷を解いて、報告を済ませて、兵舎の寝台に倒れ込んでも、耳の奥には遠征先の風の音がまだ残っていた。二か月ぶりの王都は妙に湿っていて、人も建物も近く、懐かしいはずなのに少しだけ息苦しかった。


それでも朝になれば、足は自然と裏庭へ向かっていた。


久しぶりの聖女の裏庭。久しぶりの土と草と、馴染んだ道具の匂い。遠征先では、乾いた土を掘っても水の気配は薄く、風ばかりが皮膚を削っていった。だから余計に、この庭の湿り気が恋しかった。


庭の管理に戻るのは、ほとんど二か月ぶりだ。


俺がいない間も、ここは誰かの手で生きていたはずだ。そう分かっていても、どこか落ち着かない。リシェの庭だ。俺が見て、俺が整えて、俺が守ってきた場所。その土の具合も、葉の傾きも、花の咲き方も、全部この目で確かめたかった。


朝露の残る小道を進むと、見慣れた背中がこちらを向いた。


ジェスの声が、朝の庭にあたたかく響いた。


「セランさん! おかえりなさい、任務お疲れ様でした」


「おう、ジェス。戻った。留守ありがとな」


遠征の名残を振り払うように、もう一度深く息を吸い込む。


――ああ、やっぱりこの庭の空気はいい。


朝露を吸った芝、湿った土、花々のかすかな呼吸。この場所だけは、どれだけ離れても我が家みたいに俺を迎えてくれる。


「ジェス。現状を軽く説明してくれ」


「はい。特に異常はありません。医務課の方が来られたのは一度だけで、庭木も……」


話を聞きながら、いつものように手を動かす。

鍬を握る感覚が手に馴染むのが嬉しい。


俺の置き方とは少し違う位置に麻袋が積まれ、剪定された枝の切り口も、俺の癖とは違っていた。

俺の植えた薬草は、根ごと医務課に納品されたらしく、跡には見覚えのない苗が植えられていた。

ジェスが真面目にやってくれていたのだろうし、文句を言う筋合いはない。けれど、俺のいない間にもこの庭がきちんと息をしていたことが、ありがたいようで、少しだけ面白くなかった。


リシェの庭に残した俺の痕跡は、すっかり消えている。


だが、気力は満ちている。

長期遠征帰りだから、しばらくは城内配備に回されるらしい。なら、腰を据えてこの庭に戻れる。

俺の縄張りを、また一から取り戻そう。


そして――早く、リシェに会いたい。


リシェは今日、夕刻に庭へ来る予定だった。


来たら庭に立って、俺がいない間の庭のことを、リシェの言葉で教えてもらう。


次は一緒に同じ木を植えて、笑いながら花を愛でる。


時間があれば人目を忍んで、少しだけ寄り添って。顎を撫で、髪を撫でて……唇を寄せる。


休みで、次に二人きりになれたら、今度はもっとゆっくり寄り添いながら一日過ごしたい。


肩を抱いて、未来の話をして、午後の陽だまりに添い寝する。


いつもと同じこと、今までと同じことを思い浮かべただけなのに、なぜか胸の奥が違う熱を持つ。


ああ、幸せだ。幸せがすぎる。


そんな浮かれ気分のまま整地をしていたとき――。

後ろの窓が開く音がした。


「野良犬か。久しぶりに見たな。のたれ死んでいたらよかったのに」


……嫌な声だ。

人の庭に居座って、いちいち癇に障ることを言う煩わしいあいつ。

人の獲物を狙う意地汚い灰狐。

相変わらずうろついてんのか。


けれども、もう慣れた。


「……カイルさん。おはようございます」


俺が返す前に、ジェスが礼儀正しく挨拶した。


「ちょっと、さすがに言葉選びが酷いですよ。リシェリアさんに告げ口しておきます」


「やめてくれ! ちょっとした軽口じゃないか」


カイルは焦って弁解している。ジェスには随分と親しい口ぶりだ。


ジェスの声には呆れと、慣れと、少しばかりの遠慮のなさが混じっている。俺が知っているジェスなら、貴族相手――しかも主人の知人同然のカイルに、こんな調子で踏み込むことはなかったはずだ。


カイルの方も、咎められたくせに本気で機嫌を損ねた顔ではない。窓枠に肘をついたまま、文句を言われることに慣れている顔をしていた。


……なんか、腹立つな。


カイルはわざとらしく咳払いをして、何事もなかったように俺へ視線を戻した。


「遠征地で、似合いの女を見つけたらしいじゃないか」


機嫌が良さそうに言う。

どこで聞いたのか知らないが、また妙な噂を拾ってきたらしい。


レンカの話が、そこまで回ってるのかよ。

それとも、遠征先の同僚と食事したとか、町の女連中と話したとか、そのあたりを勝手に膨らませたのか。

どうでもいいそれらを、勝手に『現地でできた恋人』みたいに吹き込まれるのはたまらない。


「……ジェス?」


だとしても、兵士が持ち帰った話くらいしか出どころがないはずだ。

アスティやグラント様が、そんなくだらないことを話の種にするわけもない。

兵舎の内輪話がカイルにまで知れているのは妙だった。

だとしたら、……カイルと会話する機会がある兵士は、ジェスしかいない。


ぐるりと首を回すと、ぎくりとした目のジェスが慌てて否定する。


「ぼ、僕じゃないですよ!」


「人が羨む功績を立て、女性の歓心まで奪えば、恨まれることも考えておくんだな。先に戻った兵が、食堂で何やら吹聴していたぞ」


普通に盗み聞きしてんじゃねえか。


「チッ……あんた、暇だよな」


独り言みたいにこぼれる。

わざわざ俺に話しかけてくるのは、これが一度や二度じゃない。

友人、いないのか? いないんだろうな。


いや、いても。リシェリアの話を分かち合う相手なんて、そうそういないんだろう。

……だからといって俺に振るな。


「リシェリアを前にして、他の女性に目が行くとはな。まあいい。婚礼の司祭くらいなら紹介できる」


……まだ続けるか。

自分だって、他の女と馬車で消えたくせに。


言い返すのも馬鹿らしくて、俺は無言で鍬を振り下ろした。

ジェスが間を取り繕うように相槌を打つ。


カイルの話題は延々と続く。

「リシェリアとどこへ出かけた」とか、「視察のついでに星を見た」とか。

リシェの名を出す時だけ声が柔らかくなる。


……うるさい。


俺は黙々と土を返し続けた。

鍬の音が、カイルの声を遮る。

それでも彼は懲りずに喋り続け、ジェスが「へえ」「そうなんですか。良かったですね」と適当に合わせている。


やっと一区切り。

土を整え、道具を置く音で彼の弁舌を断ち切った。


「本当に、身の程をわきまえたんだな」


つまらなそうに頬杖をつき、俺を見下ろしてくる。

無感情に見返す。睨みつけてもよかったが――やめた。


「……リシェリアを任せてくれるなら、こちらも君を無碍には扱うつもりはない。グラントに縁談も頼んでやるから安心していいぞ」


勝ち誇るでもなく、どこか拍子抜けしたような言い方だった。

そうか、任せると思ってるのか。


「どうなんでしょうね。……ではこれにて、失礼いたします」


笑顔を作って頭を下げた。

敵意を返すより、無関心の方が効くだろう。


「あ、僕も。訓練時間ですので失礼します」


ジェスが後に続く。


歩き出すと、ジェスが俺の横顔をうかがうようにして、小声で尋ねた。


「セランさん……大丈夫ですか?」


「んー? ああ。全然」


本当に、気にならなかった。


今までなら、胸ぐら掴んであの澄ました顔を引きずり下ろしたくなっていたはずだ。けれど今日は、腹の底に火がつかなかった。代わりに、あの乾いた国の風やリシェの唇の柔らかさだけが、胸の奥で妙に鮮やかに残っている。


――つい最近、リシェをこの腕で抱きしめた。

朝焼けの下で口づけを交わし、体温を確かめた。その記憶だけで胸の穴は満たされている。


彼女が無理を押して、国境までわざわざ会いに来てくれた。

密かにグラント様に頼み込んで、祭祀庁への説明まで整えさせて、国境まで来た。俺に会いたかったと言った。あの朝、拒まなかった。


その事実をカイルは知らない。

知らないままでいい。

知らせたら、リシェの願いを無碍にしてしまう。


言ってやれば、あの澄ました顔を崩せるのかもしれない。

けれど、口に出した瞬間、あの朝までこいつの餌にされる気がした。


リシェ自身は、まだそれを恋だと分かっていないのかもしれない。

けれど、分からないまま俺に会いに来た。分からないまま、俺を拒まなかった。なら、それで十分だ。

芽が出たなら、あとは俺の方へ伸ばせばいい。


どうあがいても、リシェの心は俺に向いている。


俺の狩りは成功して、リシェとの未来はもう同じ方へ向いている。


匂わせる必要もない。

そう思うと、自然と口の端が上がった。


……気分が、いい。


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