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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
20章 天秤の傾倒
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狼のいない庭

リシェリアが王都へ戻ってきたのは、昨日の夕刻だった。


旅先では慣れない暑さに体調を崩し、アルハンドアとの会談にも出ず、宿で休養していた。祭祀庁へ届けられた報告には、そう聞いている。


実際に今朝、執務室へ入ってきた彼女は少し疲れているように見えたが、出立前にあった、どこか遠くへ沈んでいくような翳りは薄れていた。扉の外の足音を気にして顔を上げることもなく、静かな青い瞳は、曇りなく俺に向けられている。


「茶葉を新しい配合にしてみました。好みに近づいたと思うんですが……いかがですか?」


リシェリアは研究の成果を確かめるような眼差しで、真剣に俺の反応を捉えようとしていた。


差し出された茶器からは、穏やかな香りが立っている。花のように甘すぎず、薬草のように尖りすぎてもいない。湯気の向こうで白い睫毛が揺れ、その視線が俺の反応を待っていることに気づくと、胸の奥が妙に満たされた。


この茶の原型を初めて淹れてくれたのは、彼女が国境へ発つ少し前だった。

セランが遠征へ出て、狼の姿が庭から消えていた頃。


あの時も、彼女は今と同じように、俺の反応を見逃すまいとしていた。


「うん……香りは控えめだけど、余韻がすごくいいね」


「よかった。甘味が引き立つ方がいいかなって、いろいろ考えたんです」


俺が甘味を好むことは、すっかり知られている。

けれど、茶を甘くする、あるいは甘いものを添えるだけではなく、好みに近づけようと茶葉の配合まで模索してくれるようになった。その事実が、単純な歓待以上のものに思えてしまう。


俺のために考えた時間が、彼女の一日のどこかにあった。

そう思うだけで、喉を通る茶が少し甘くなる。


「うん。すごくいい」


茶器に残る香りを聞く。日向と林檎のような匂いが、ゆっくりと心を落ち着かせていく。甘味を邪魔せず、舌に残る余韻を柔らかく伸ばしてくれる。彼女らしい、控えめで、けれどよく考えられた味だった。


「そうだ。医務課の方から、先日融通してもらった薬草が助かったと礼状が来ていたよ」


医務課が契約している薬草園で小火があり、一部の在庫が不足したため、聖女の裏庭で育てていた、近い薬効を持つ薬草を融通していた。


「とんでもないです。代わりになる薬草があってよかったです。こちらの庭でも、もうしばらく同じものを育てておきましょうか」


リシェリアは当然のことのように言った。


この人は、自分の力が誰かの傷や痛みに届くことを、とても自然に喜ぶ。異能を振りかざすのではなく、種を蒔き、土を見て、芽を育て、その結果として誰かの役に立つことを。


そういう在り方は、奇跡よりずっと人間らしい。

そして、人間らしい彼女を見るたびに、俺はどうしようもなく嬉しい。


「薬効がよかったらしい。これを機に園で育てる種類を変更するか検討したいそうだ。……俺は単純に、君の力が関与しているだけじゃないかと疑ってしまうけど」


「そんなことないですよ。お庭は、異能でお世話しているわけではないですし」


「無意識ということもある。しばらく薬草園と君の庭で、同じ種類を並行して育ててもらおう。なるべく条件を揃えて……」


言いながら、頭の中ではもう比較方法を組み立てていた。


土壌、日照、水量、採取条件。彼女の異能の影響を疑うなら、庭全体の霊質濃度も測る必要がある。条件を揃えて比較すれば、薬効差が環境由来か彼女由来か、ある程度は絞れるはずだ。


「ふふ、楽しそうなお顔になっています。本当に考えることがお好きですよね」


リシェリアが、俺を観察して気づいたことを嬉しそうに教えてくれる。


恥ずべきことではないはずなのに、なぜか居心地が悪くなり、茶器へ目を落とした。


そうか。こういう時、俺は楽しそうな顔をしているのか。


自分では知らなかった。


「いや……そうだね。うん。性分なんだ」


「分かりました。じゃあ、あとでどの辺りに植えたらいいか相談してもいいですか?」


「ああ。終業後に寄るよ」


そう答えてから、ほんの少し遅れて気づいた。


庭のことにも、俺を自然と輪の中へ入れてくれるようになった。


密会ではない。恋人でもない。それでも、茶の香りや薬草の相談、庭の土といった何でもない日常の中に、今は当たり前のように俺の席がある。


特別礼拝室で腕の中に閉じ込めていた時よりも、ずっと穏やかで、ずっと危うくない。それなのに、胸に残る満足は不思議と濃かった。


「少し新鮮な空気を入れましょうか」


リシェリアが立って、窓の近くへ行った。


細い手が窓枠にかかり、差し込んだ光の中で白い髪が揺れた。窓が開くと、外の緑の匂いを含んだ風が流れ込み、机の上の紙をわずかに浮かせる。


その拍子に、筆軸がころりと転がった。


「おっと」


手を伸ばしかけたが、筆は重ねられた書類の下端に当たって止まった。その一番下から覗いた表紙の文字が目に入る。


『聖女付補佐官等接触・服務細則』


気分が一瞬で濁った。


アスティに言い渡された、俺を狙い撃ちにした細則だけは忌々しい。


あの日、本当に項目をまとめた帳面が俺の部屋へ届けられた。既存の風紀規則や服務規程から関係項目を抜粋し、そこへ俺個人を想定したとしか思えない追加項目を並べた専用品だった。


俺たちは、これを禁止目録と呼んでいる。


……時期も内容も、セランが口を出して作らせたものだと確信している。


手を握ること。抱擁。腰や背へ腕を回す行為。髪や頬へ必要以上に触れること。密室で長時間二人きりになること。その他、節度を欠く接触。


普通の規則に、こんな偏執的な粒度は必要ない。


あの野良犬め。


リシェリアの周囲に鼻を利かせ、俺の行動の可能性を先回りして潰したのだろう。思い出すだけで、腹の奥に冷たい苛立ちが溜まる。


とはいえ、リシェリア本人に愛を伝えたことで、肩の力が少し抜けた。


嫌われてはいなかったし、関係も破綻しなかった。いやすでに好かれている。俺の感情を隠さなくて済むようになったことで、以前より話しやすくなった部分もある。


この禁止目録ですら、リシェリア本人に相談できる。これは思いのほか好都合だった。


聖女本人の疑問に基づき、教育、治癒、異能修練上の必要が認められた接触については、立会人または監督者の事前承認を受け、目的、時間、内容を記録したうえで、事後にアスティへ報告すること。


そう定められている。


つまり、彼女が疑問を持ち、正式な手順を踏めば、俺は堂々と検証を提案できる。明確に禁じられた行為とは違う。その境界は重要だった。


「エスコートしてくださる時にも手を使うのに、どうして手をつなぐのはよくないんでしょうね」


リシェリアが、本当に不思議そうに首を傾げた時。


「それなら、違いを実演して確かめよう。事前に申告して、終わった後に、何が違ったか教えて」


そう言える。


表面上は学習だ。もっとも、すべてを逐一申告しているわけではない。


「手をつなぐくらいは、報告までしなくてもいいですよ。私からしたことなら、大丈夫です。ほら」


そう言って、リシェリアの方から俺の手を握ってくれたりする。望んでいた展開のはずなのに、触れた指先から熱が広がり、心臓の音が速くなった。


「なるほど。脈が速くなりました。不思議……」


本人は純粋に観察している。

俺は、その青い目に自分の動揺がどこまで見えているのか考えながら、平静を装うしかなかった。


他人の目がなければ、結局はリシェリアが申告するかどうかにかかっている。彼女の方から手を取った程度まで、逐一記録する必要はないと、こちらで勝手に判断することもあった。


あくまで対話と交渉の結果だ。

何と合理的で、何と甘美な抜け道だろう。


だが、抜け道を片端から試すほど愚かではない。一度の欲で、明日から彼女と会う権利まで失いたくはなかった。明確に禁じられた行為は避け、人目のあるところでは触れない。


この規則さえなければ。そう思わない日はない。


だが、二か月近く、セランは遠征で不在だった。

それだけは、実に清々しかった。


窓の外の緑に、目の覚めるような赤が映らない。朝や夕に、リシェリアとあいつの会話が漏れ聞こえず、殺気じみた視線も飛んでこない。


庭の空気が澄んでいた。リシェリアが笑ってくれた時、その笑みを横から奪われるような感覚もない。


これほど心が平穏になるとは思わなかった。


どうやら所定の任期を越えて従事しているようだった。現地であいつの技能が評価され、別の任務にも重用されているらしい。


いっそ、あちらに腰を据えてほしい。


そう思った矢先に、辺境伯から仕官を勧められているだとか、縁談を持ち込まれているだとかいう話まで耳にした。


ぜひ。どうぞどうぞ。


いや、どうか。


……頼む。そうしてくれ。


居場所が変わっても待遇は悪くならず、王都の政治や噂に巻き込まれることも減る。彼にとっても悪い話ではないはずだ。


リシェリアだけが人生ではない。そろそろ自分の世界を持つべきだ。


……そうすれば、俺も非常に助かる。


けれど、思い出したくもないあいつを、俺が繰り返し思い出すのは、リシェリアの視線が時折遠くへ向かうからだった。


執務作業の合間に、窓の向こうへ赤い色を探している。回廊では訓練帰りの兵の集団へ目をやり、庭門が鳴れば顔を上げる。違う人物だと分かると、何でもなかったように視線を戻した。


そのたびに、俺の胸も冷えた。


これは、俺の知っている喪失だ。


俺と話している時、彼女は笑ってくれる。

それでも、庭の門が鳴れば、最初に探すのは俺ではない。

不在の男は、何もしなくても彼女の心に居座っている。

卑怯だと思う。

いないくせに、俺より近い。


……帰ってこなければいいのに。


だが、何も言わず、何も言えずに別れる苦しさは、俺が一番知っている。


あの災害の夜、父や母、姉が馬車で家を出た時。

俺は、見送ることすらできなかった。

その記憶には、普段は蓋をしている。


けれど、リシェリアが遠い目をするたびに、その隙間から冷たいものが滲む。最後に別れの言葉をかけられなかったこと。何も知らないまま、すべてを失ったこと。


彼女に同じものを与えたくない。


俺は、グラントへ一筆送った。


当初予定を越えて任務に従事しているセランについて、任務状況と帰還予定を確認してほしい。強制帰還までは求めないが、本人の意思と今後の見通しくらいは明らかにするべきだ。


リシェリアが寂しがっている、とは書かなかった。

書かずとも俺の言いたいことなど、グラントならわかるはずだ。

 

この程度グラントを動かす餌なら、いくつか持っている。

彼が以前見限った商取引の中に、今になって持ち直しているものがある。利幅のよい作物の情報も添えた。


さらに、賄賂も思いつく。……アスティだ。


彼女は俺にとって部署も違うし、力関係も複雑だ。古馴染みと言える知人ではあるが、高貴な準王族。上官ではないが、リシェリアの後見人で連携が多い。実力で逆らうには面倒すぎる相手だ。


そして“禁止目録”の発行者。

 

そこで最近、祭祀庁からの急用として身柄を確保し、グラント邸へ送り届けるという報復をすることにした。


失礼、報復ではない。


リシェリアと考えた、グラントとアスティの婚姻補助作戦だ。


リシェリアは、グラントの恋が進めば喜ぶ。二人の関係が進展すれば、偽装婚約の終了にも近づく。グラントと会う予定などないアスティを、俺が馬車へ乗せてイェルス邸に送り届ける。


全員に利益がある。


グラントからは今のところ、特に咎められていない。つまり、贈答品として問題なく受領されているのだろう。


アスティから俺への険悪さだけが、少し増した。


理不尽だ。

俺はリシェリアと考えた婚姻補助作戦を、誠実に実行しているだけなのに。


数日後、グラントから返書が届いていた。


近くアルハンドアとの会談のため、国境方面へ赴く。

道中、辺境伯と現地指揮官へ、セランの任務状況を確認しておく。


聖女を外交随行者として伴うため、祭祀庁側の不在処理を整えろ。日程を前倒しする以上、アルハンドアが以前から望んでいる聖女との面会も、交渉材料の一つとして用いる。こちらは政治的判断であり、一兵士への私的面会を認めるものではない。


簡潔な文面だった。


本当にそうかと疑う余地はあった。セランの駐留先は通過予定地に近く、会わせようと思えば会わせられる。


一方で、アルハンドアは以前から聖女との面会を望んでいる。カルナーンとの約定が決まった今、生命と和平の象徴である聖女を交渉材料にする理屈も通る。


必ず会わせるとは書かれていない。その程度の曖昧さは、グラントが現地で処理するのだろう。


いずれにせよ、俺の書簡が日程を動かす最後の一押しになったのは間違いないと思えた。


少なくとも、リシェリアが城の中でセランの影を探し続けるよりはよい。


土地を離れ、違う景色を見るだけでも、気分は変わる。グラントがセランの状況を確かめれば、帰還予定も明らかになる。

それで十分だと思った。


リシェリアは出立前、俺に笑って言った。


「少し遠くへ行ってきます。留守の間、祭祀のことをお願いしてもいいですか?」


「ああ。気分転換になるといいね」


それ以上は聞かなかった。


セランに会う予定は書かれていない。そう記されていたし、邪推する意味はなかった。


たとえ会っていたとしても、今ここにリシェリアは戻っている。

もし一目会うことで、あの喪失を埋められたのなら、俺は喜ぶべきだ。

いや、喜べる。


その記憶から意識を戻すと、リシェリアは今も茶器を手に、俺の返事を待っていた。


出立前、庭門の方へ流れていた視線は、今日は静かに俺へ向けられている。頬には薄く色が戻り、呼吸も穏やかだった。


枯れる前に水を得た若木のように見えた。


旅先で休めたことがよかったのか、グラントからセランの無事を聞いたのか。それなら、この変化にも説明がつく。


俺の働きかけも、少しくらいは役に立ったはずだ。


「カイル?」


呼ばれて、顔を上げた。


「どうしました?」


「いや。何でもないよ」


茶器を傾ける。

日向と林檎に似た香りは、以前より少しだけ柔らかくなっていた。


「本当に、いい茶だ」


そう言うと、リシェリアは安心したように笑った。


これでいい

彼女の顔に生気が戻ったなら、多少の不本意には目をつぶれる。


その日の午後、グラントから俺宛に通知が届いた。


セランの現地任務は終了。

明日の昼過ぎ、王都へ帰着予定。


書面を読み終え、しばらく無言で眺めた。


……戻ってこさせなくても、よかったんだけどな。


辺境でそのまま暮らす道も、本人にとって悪いものではなかったはずだ。


だが、帰還日をリシェリアへ伝えた時、青い瞳の奥に明確な光が戻った。


「……そう。帰ってくるんですね。教えてくれて、ありがとうございます」


リシェリアの声は静かだった。

けれど、柔らかな頬へ浮かんだ色は、旅の前にはなかったものだった。


なら、いい。


リシェリアが笑うなら、あの野良犬が王都へ戻ってくる程度の不快は、しばらく我慢してやってもいい。


どうせあいつは、何も知らずに帰ってくる。


辺境で得た功績や、新しい友人の話でも得意げに並べるのだろう。

狼のいない庭で、俺とリシェリアが積み重ねた穏やかな時間を、あいつは知らない。


そう思えば、帰還を知らせる紙の文字も、少しだけ許せるものに見えた。

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