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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
19章 望郷
238/240

曲解

城へ戻った時には、王都の空気がやけに湿って感じられた。

国境の乾いた風に慣れた身体には、石畳の匂いも、廊下にこもる紙と香油の気配も、少しだけ遠いもののように思えた。けれど、出迎えてくれたサフィアの顔を見た瞬間、ここが自分の日常なのだと、胸の奥がゆっくり思い出していった。


「旅先では体調を崩されて休養されていたと伺いました。大丈夫でしたか」


表向きの事情しか知らないサフィアには、慣れない環境で悪夢にうなされていたと思わせてしまったのかもしれない。その瞳には、心配そうに揺らいでいた。


「ううん、全然平気。すこし暑くて、体が驚いちゃったみたい。よく眠ったし、一日休んだから、すっかりよくなってる。安心してね」


そう答えると、サフィアは少しだけ安堵したように目元を緩めた。


「それなら、よろしゅうございました」


「むしろ、祭祀庁の皆さんやグラント様にはお仕事させておいて、私だけ休暇に行ったみたいになってしまって……悪いことをしちゃった気がする」


「まあ。ふふふ。リシェリア様も普段お忙しくされていますし、大丈夫でしょう。息抜きが出来たのであれば何よりです。……それと、お留守の間に一つだけ。テラリウムの蓋が、少し傾いて開いておりました」


「え?」


「意図的なものかと思い、触れておりません。中の状態に大きな変化はないように見えましたが、ご確認いただければと」


言われて、私は部屋の片隅へ目を向けた。


透明な器の中には、小さな土と緑の世界がそのまま収まっている。けれど確かに、蓋はほんのわずかにずれていて、閉じた内側へ外の空気が入り込む隙間ができていた。


出立前にも見ていたから、その時に私が少しずらしてしまったのかもしれない。


でも、問題ない、と思った。

ほんの少しだし、マティアスも言っていた。新しい風や種が入り込めば、そこには変化が訪れるかもしれないと。

私は、指先でそっと蓋を持ち上げ、元の位置へ戻した。


だけど今は、まだ。持ち帰ったこの気持ちみたいに、中が落ち着くまでは、もう一度閉じておこうと思った。


かすかな音を立てて、蓋が器の縁に収まる。

その時、ふと土の端に目が留まった。


「あ」


見覚えのない双葉が、ひとつあった。

出立前まではなかったはずの小さな緑が、湿った土を押し上げるようにして芽吹いていた。


エリーが植えてくれた種か、外から紛れ込んだ種なのかも、わからない。

けれど、もう芽は出ている。

蓋を戻しても、なかったことにはならない。


私はしばらく、その小さな双葉を見つめながら、胸の奥に残る国境の朝を、そっと隠すように息を吸った。



その翌日、久しぶりにカイルと二人きりで執務をこなした。


同じ机に向かうのも、息を合わせて資料を整えるのも、どこか懐かしい。

静かに鐘が鳴り、終業の時を告げる音が広がった。

いつもの日課の時間――それは日常の合図であり、安心の儀式でもあった。


扉を閉めた瞬間、カイルが小さく息を吐いた。

その表情はどこか挑むようで、けれど少し照れている。


「今日の終業挨拶、口づけしてもらえたり……。どう、かな」


あの夜――星見の時に、私が彼の唇に触れたことを、まだ覚えているのだろう。あの挨拶を、彼は気に入ってしまったらしい。


日課の一環として、頬や唇に軽く触れる程度のもの。特別に親しい人へ返す、ささやかな親愛。

それくらいなら。


……いつもの私なら、許したかもしれない。


けれど。


「え……! その……今日は……ダメです」


思わず声が上ずる。カイルの目を直視できなくなって、視線を逸らした。

狼狽を隠しきれない。


脳裏には、ほんの数日前の記憶がよみがえっていた。


セランに深く重ねられた口づけの感触。

息ができなくなるほど長く、強く。あの瞬間の熱と、乱れた呼吸と、腕の力。


それらが胸の奥に蘇って、体の奥が熱くなる。

あれは、嫌いなことじゃない。感触だけで言えば――ううん。でも、まだ整理できていない。


同じではない。カイルが求めているのは、あんなふうに息の仕方までわからなくなるようなものではない。

わかっているのに、口づけという言葉を聞いただけで、身体の方がうまく区別してくれなかった。


「そうか、残念だな。……それじゃ解散にしようか」


カイルが惜しそうにしながら、一歩近寄った。多分、部屋までエスコートして送ってくれようとしたのだと思う。腕を差し出そうとしていた。


もう頭の中にあの口づけを思い浮かべてしまっていた私は、カイルが近づくその動作だけで、心臓が跳ね上がる。


私は思わず後ずさった。たぶんその仕草に、カイルは何かを感じ取ったのだろう。彼の頬も、すっと赤く染まっていった。


「もしかして……今ごろになって、恥ずかしくなったのかい?」


「!?」


カイルも……知ってるの?

セランがした、あの……口づけのこと?


ううん、そんなはずない。

けれど、言葉の端に何か含みがあるように聞こえてしまう。


もしかして。カイルも、あれがしたいの?

でも、同じように返していいものなのか、わからない。


それに――こんな開けた場所で同じことはできない。

多分、さすがに挨拶感覚でしていいことじゃないことだけはわかっているから。


ううん、カイルにしてあげることは嫌じゃないの。

ただ、まだ私は初心者だから。

そう、もう少し練習しないと。

だから、とにかく、今は……ダメ。


頭の中が熱くなって、何も言えなくなった。


「ふ……。わかった。じゃあ、今日は記録だけにしておこう。……顔が赤いね。動揺している。動悸は激しい?」


淡々とした観察の声。

本当に医務官のような冷静さで言うから、余計に恥ずかしい。

断ったことで、カイルを少し傷つけたのではないかと思った。

けれどカイルは、観察という形に変えて、私が逃げられるだけの距離を作ってくれた。


「あ……。はい……。真面目に観察されるのは、とても恥ずかしいものなんですね……」


いつもは、私が観察する側なのに、この立場になると、なんて居心地が悪いんだろう。


……でも、これで少しわかった。人の心を観察するというのは、こんなに繊細で、時には怖いことなのだと。


「はは、わかってくれてよかった」


カイルはふっと笑って、目元が柔らかくなった。

少し前までの刺々しい空気が嘘のように、穏やかな表情。


――きっと、彼も何かを感じ取っている。


私の中で変わったもの。

変えられないもの。


その微笑みを見ながら、私は静かに息を整えた。




セランに会ってきた私と、日常に戻った私。

そのあいだに横たわる距離を、ようやく実感していた。


セランに教えてもらった、セランの恋。

それは、言葉や理屈ではなくて、行動そのものだった。


……セランは、いつだってそう。


自分の気持ちを飾らず、ただまっすぐに行動で示す。

私が何かを問わなくても、体で答えをくれる。

口づけもそうだった。

あのときの熱と、重なる影と、呼吸が混じる気配。

思い出すだけで、胸の奥がきゅっと締めつけられるけれど、セランが何を伝えようとしているのか、少しだけ触れられた気がした。


どうしてか頬が熱くなって、手を胸に当てた。

……これが、体で恋を知るということなのかもしれない。


胸の奥に火を灯されたように、触れられた場所の記憶だけが、いつまでも消えない。


セランの恋は、言葉ではなく「触れること」。

もっと、もっと近くにくっついて。

言葉を交わすんじゃなくて、体温と鼓動で確かめること。


『俺は犬じゃない』――そんなことを言いそうたけど、やっぱりセランは少し犬……獣に近い。


純粋で、衝動的で、正直だ。


好きなら求める。近づく。

その想いは、怖いほど真っ直ぐで。

それでいて、どこか優しい。


セランはきっと、心音も、体温も、全部含めて、私そのものを近くに欲しいと思ってくれているのだと思う。


だから。

これまで私を愛してくれた分。私が受け取ってばかりいた分。

……セランが望むなら、触れさせてあげたい。

抱きしめて、安心させてあげたい。

私がここにいると、ちゃんと伝えたい。


セランが私にすることに、嫌なことはない。

何をするとしも、それはセランからの愛だと思える。

だけど、セランがそのために自分や誰かを傷つけたりするのは、怖い。

セランは壊れてほしくはない。これ以上、少しも損なわれないで欲しい。

セランには、満たされてほしい。


これが私のセランへの愛。



――そして、カイル。


カイルの恋は、セランとはまるで違う。

心と理解、理性と探求。

彼の恋は、静かに人の内側へと入り込む。

あの石室で言われた言葉を、私はまだ覚えている。


『小さな迷いも、記憶も、後悔も。捨てないことで、いつか違う未来が芽吹くかもしれない』


その瞬間、胸の奥の氷が少しだけ溶けた気がした。


愚かでもいい。

弱くてもいい。

そう思えたら、息が楽になった。


彼の前なら、隠していた過去の傷も、罪も、少しずつ話してみたいと思える。それがどんなに怖くても。


カイルの望みは、“心が寄り添うこと”。

……とはいえ、彼だって人間で、生き物で。本能的には触れることも求めている。

その目は、ときどき獣とは違う意味で危うい。

観察するように、試すように、私を見つめる。


それは学者の眼差しで――愛の一部であり、研究でもある。

カイルにとって触れることは、心に触れるための手段。


体を通して、心を確かめる。

そうやって人の仕組みを理解しようとしているように見える。


……私も、そんなカイルの探求に惹かれている。


何かを求められると、全部差し出したくなってしまう。

もし、彼が私の心をもっと知りたいと思うなら――構わない。

過去も、罪も、歪みも、全部見せて、明らかにしてもらいたい。


一片の曇りもなく、彼の理解の中に置かれたい。

それが、彼に教えてもらった愛へのお返しのような気がしてしまう。


これが、私からカイルへ返したい愛。



……私は、二人とも愛してる。

けれど、それが恋になっているかなんて、確かなことがわからない。


二人はそれぞれ、違う色で私の中に息づいている。

セランは、赤い。鮮やかで豊かで、光り輝く生命のような昼の色。

カイルは、黒い。静かで深く、あらゆるものを内包する夜の色。

どちらも美しくて、欠けてほしくない。


失われてほしくない。

損なわれてほしくない。

飢えてほしくない。

渇いてほしくない。

そして――傷ついてほしくない。


そのどれか一つを想像するだけで、胸が痛む。


すべてを許して、すべてを与えてしまいたい。

自分の中が空っぽになっても、彼らが満たされてほしい。


……こんな私は、もう恋できただろうか。


恋をすると、どちらかを選ぶと、選ばれなかった誰かが傷つく。

失われるものがある。


そう考えると、怖い。

誰かが痛むなら、選びたくない。

誰かが泣くなら、願いたくない。


だったら――恋なんて、しなくていい。

愛しているんだから、恋なんてなくてもいいんじゃないのかな。


……そう思ってしまうことを止められない。

次回、新章に入ります。

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