誤謬
セランともう二度と会えないかもしれない――そう思っていたから、私は誰にも相談できなかった。
カイルにも、アスティにも、サフィアにも、ジェスにも。
言えばきっと慰められて、そんなことないと否定してくれる。でもそれだけじゃ不安がぬぐえない。
セランは、そういう事を相談する人じゃない。彼は……そうと決めたら、なんでも一人で進めてしまう。
……私の言葉さえ、届かないことがある。
だから、一人で抱えて考えた。それで、一番セランの現実を動かせるグラント様だけにお願いをして、たどり着いた。
出立までの間、何度も引き返すべきかもしれないと思った。けれど、そのたびに、もしこのまま会えない時間だけが、何も言えないまま伸びていったらという考えが胸を塞いだ。息を吸っても足りなくて、馬車の揺れだけが、私を前へ運んでくれていた。
そしてセランに、会えた。
あの赤い髪の毛を見た時、ここは異国との国境で、見たこともない街並みなのに、なぜか帰ってきた気がした。
言葉にするよりずっと、心の底からそう思っていた。やっぱりセランは、私の帰る場所なんだってわかった。
どんなに遠く離れても、思いだせば安心できる人。セランが笑っていることは、私にとって希望で、願いだった。
――祠堂で、二人とも行き止まりにいたあの頃。
異能もうまく扱えなくて、霊質を溜めては私は体調を崩していた。セランはそれを解消するために、わざと怪我をして私に異能の使い道をねん出していた。
そんなことしたくなかった。するしかなかった。
だから、私はセランを人の世界に解き放ちたかった。彼が私の影の中でだけ生きるのではなく、陽の当たる場所で笑ってほしいと。
もし私のもとを離れて幸せになってくれるなら、それでもいいと思っていた。今でも、セランが望んで去るなら、私は受け入れようと思っている。
だって、セランだけが味方でいてくれたから、私も必ずセランの味方でいると決めている。
だから最後に――セランを送り出す新しい世界を見ておきたかった。
彼の目に映る景色を、自分の目で確かめたかった。
今まで私は、お世話になった人にも、意地悪だった人にも、ちゃんと別れを告げられないまま逃げてきた。私には、お別れを言えることなんて、とても贅沢なことで、それは私の小さな自己満足だとは思う。
それでもセランだけは、きちんとお別れをして、見送りたかった。
そんなことを思い込んでいたのは……今考えれば、不安に駆られていたんだと思う。
この国境に来るまでずっと、私は誤解していた。
いつの間にか、セランはもう私から離れると決めたのだと思いこんでしまっていた。
……違っていたけれど。
私に見えたセランは、ただ働いていただけだった。
黙々と、まっすぐに。少し、恥ずかしかった。
私は勝手に置いて行かれた気になって、ひとりで泣いていたのに。
けれど、ここまで来たことはとても良かった。
あの森の中で孤高な獣のようだったセランが、今では町の人たちと、仲間と笑い合っている姿を見たとき――まるでトルニカのころに戻ったようで、胸が熱くなった。
兵士さんたちは遠慮なく彼をからかい、町の人は当たり前のように名前を呼んでいたし、店の人は気さくに用事を頼んでいた。セランは少し面倒くさそうにしながらも、力を抜いて対応していた。
私の知っている森の外に、彼の居場所がちゃんとできていた。
彼が人の中に戻って、笑っている。
そのことが、こんなにも嬉しいとは思わなかった。
会いたいだけで胸が苦しくなって、泣きそうになる感情を、私は知らなかった。
これが『恋しい』という気持ちなんだと、それもセランが教えてくれた。
『恋しい』が恋なら。私はきっとセランに恋をしている。
でも――それならどうして、こんなに苦しいの。
物語の中では、恋は甘くて夢のようだと書かれている。人の噂でも、恋をすれば世界が輝くと聞くのに、私の胸の中で渦巻くのは、いつも喜びよりも痛みに似た感情。
カイルだって、恋を語るとき、幸せよりいつも苦しそうな顔をしている。
時たま「死んでしまう」なんて言うから、怖くなる。
どうして、そんなに皆、恋を求めるんだろう。
その気持ちはまだ、わからない。
セランの恋は、今までほとんど知る機会がなかった。
だから、どうしても知りたくなって、色々聞きたくて――気づけば質問攻めにしていた。
「いつから?」
「どうして?」
「どこが?」
そのたびに、セランは苦笑いして答えを濁した。
何度目かの質問の途中で――セランの手が伸びて、口を塞がれた。
最初の口づけは、ほんの短く触れるだけだった。
いつものような、安心をくれる優しい接触に近いもの。
けれど、二度目は違った。
ささやかでも、ただ柔らかいだけでもない。
息の仕方がわからなくなるほど長く、深く、私の中から何かを探すみたいに慎重だった。
セランは狩りに臨む獣みたいだった。
真剣で、まっすぐで、強い意志。朝焼けを映した金色の瞳が――とても綺麗だと思った。
けれど私と目が合うたびに、困ったような、怒ったような、少しだけ恥ずかしそうな表情が混じった。
なるべくきちんと理解したくて、観察していた。
あまり言葉で説明しないセランが、何を想っているのか知りたかった。
でも、私の目から逃げるみたいに――セランが目を閉じて、全神経をそこへ集中させたように見えたから。
いつの間にか、私の呼吸も意識も、セランの触れ方に引っぱられていた。
息をするのを忘れるほど、鮮やかで、温かくて、心地いい。
……何も考えられなくなった。
「……っ」
川から上がったときみたいに、息を継いだ。
肺の奥が熱くて、空気がこんなに甘いものだと初めて知った。
何を考えていたのか。何を聞きたかったのか。
全部、思い出せなくなっていた。
ただ、頭の中が真っ白で、世界がぼやけていた。
こんなの――知らなかった。
驚いたけれど、怖いとも逃げたいとも、思わなかった。
ただ、知っているはずのセランが、知らない熱を持って私の前にいることが不思議で、今の私はただ、セランと何かを共有したことだけがわかった。
それでも、セランに会えなかった期間の寂しさや不安は、一瞬で消え去った。悪夢なんてそれこそ、すごく遠い世界になった気がしてしまった。
目を開けた後のセランは、今までに見たことがないほど静かで、けれど嬉しそうだった。
何かを必死に抑えているようにも見えたのに、その奥は満ち足りた色をしている。
安心してよく眠れた時。
ウルが初めてセランをちゃんと主と認めた時。
ダレンに初めての狩を褒められていた時。
そして、サリーナで再会できた時。
その時の顔と、よく似ていた。
前に『番いたい』『抱きたい』と言っていたのに、セランはそれ以上、進めようとはしなかった。きっと今は、セランなりの大切な段階の途中なんだ。
ただ、セランが嬉しそうだったことだけが、胸の中に残った。
そっか。
きっと、これがセランの求めていたもの。
嬉しいもの。
セランが欲しかった愛。
セランが私に足りないと言っていた、何か。
今まで当然のことだと思っていたけれど、私だってセランと会えば嬉しい。会えなかった時間は寂しい。
制限されるようになって、触れ合う時間も減っていたから、きっとセランも寂しさを抱えていた。
だから、触れ合う時間が減ったぶん、きっと強く、もっと深く伝わる行動が欲しくなった。
これが、セランの恋。
少なくとも、私はそういう形に受け取った。
たしかに。
アスティの言う通り、お役目の最中に子供を産んで育てることは大変だし、この国では、結婚の約束した人以外でそういう事は公にはよくない事になっている。それにセランが『番う』……そういうことは未来のこととして置いていて、今すぐそこへ進むつもりではないことも、わかった。
だったら、セランからの無私の愛に今、私が返せるものも、これなんだ。
グラント様の婚約者のままでも、このくらいなら、してあげてもいいよね。
よく言われる成人した男女である決まり以前に、セランは私の家族で、一番近い人で、誰より長くそばにいて、そして私が返しきれていないものを一番多く持っている人なんだから。
きちんと人目を避ければ、ちょっとくらいは大丈夫。
だって。特別礼拝室でのカイルとの密着に比べたら、まだ挨拶の延長みたいに思えた。
答えをまずひとつ、見つけられた。
大きな謎をひとつ解いたような安堵を抱えて、私は明るい気持ちで帰路についた。
馬車の中、窓から流れる光を見ながら、そんな私を見てグラント様は微笑んだ。
「私にも、あいつと会って何をしてきたのかは、内密にしておいてくれ。知らないままでいたい。自然にわかる日まではな」
そう言って片目を閉じた仕草は、あまりに自然で、お芝居のように優雅で――格好よかった。
お礼を申し上げると、彼は何も言わずに頷き、視線を外の光に戻した。
馬車の中には静かな風が流れて、私はその沈黙のやさしさを感じた。
侍女も、随行の兵も、皆イェルス家の配下。
口は固く、私の願いを汲んでくれた。
セランとの再会が私の私的な願いから生まれたものだということも、どんな言葉や触れ合いを交わしたのかも、私が話さない限り、王都では誰にも知られない。
あの朝の光と風の記憶は、私の胸の奥にだけ残っている。
――私はまた日常に戻る。




