心の補完
リシェが俺の身体を確かめ終えると、俺は振り返り、立ち会っていた兵士たちへ視線を移した。
「リシェ、こいつらもついでに診てやってくれ。髪を結んでる方は、昨日の訓練で足を挫いててさ。もう一人は肩凝りがひどいんだ。ほかにも古傷があるなら、本人に聞いてやってくれ」
「まあ。もちろん、お二人がよければ。癒やしましょうか?」
声をかけられた奴らは顔を見合わせたあと、喜んで頷いた。俺が挙げた箇所以外にも擦り傷や治りかけの裂傷が見つかり、リシェの指が触れるたびに淡い光が滲む。光が消える頃には、傷跡まで綺麗になっていた。
「よーし。お前らのも治させたんだから、余計なことは絶対に漏らすなよ」
治療の恩まで着せて、これで口封じも完璧だ。
にやけ顔で頷く奴らを廊下へ追い出し、ようやく静かになった。扉は半分まで閉じるだけで、閉め切らない。これなら、二人きりだったとは言われないだろう。
深く息をつく。
上着の紐を結び直し、乱れた袖を整える。少し汗ばんだ掌を服で拭おうとした、その瞬間――背中に柔らかなものが触れた。
「元気で、楽しく過ごしていたみたいでよかった」
リシェだった。
「会いたかった」
背後から回された腕をほどかないまま振り返り、半ば反射的に扉の陰へ引き寄せる。リシェは抵抗せず、そのまま俺の腕の中へ収まり、顔を胸に押しつけた。
ああ。
「……俺も」
気づけば、声が勝手に出ていた。
理屈も、言い訳も、何もいらなかった。心臓が痛いほど鳴っている。
こんな感覚、どれくらいぶりだろう。息を吸うと、彼女の髪の香りがした。
今度はそっと、丁寧に、柔らかく抱き締め返す。
森の雨を思わせる、懐かしい匂い。遠くにいたはずの彼女が、今は腕の中にいる。
「ただ……前振りがなげえよ。最初に、そう言ってくれたらよかったのに」
どうにか余裕ぶって笑ったが、声は掠れていた。震える息を誤魔化すように言葉を続ける。
勿体ぶられたおかげで、俺は焦ったり、不安になったり、大変だったんだからな。
「まずは、セランがここでどんなふうに暮らしているのか知りたかったの。それに、怪我をしたり、危ない目に遭ったりしていないか心配だったから」
相変わらず心配性だ。だけど、そんなところも可愛い。
思わず口元が緩んだ。
「はは。元気だよ。見たとおり、問題なさそうだったろ」
「うん……うん。やっぱり来てよかった。セランとお別れするにしても、変なところじゃ嫌だもの。せめて、ここがいいところなのか、この目でちゃんと確かめられたから」
その声音に、笑いが止まった。胸の奥が、一瞬で冷えた。
「え」
別れる?
「寂しくなるけど……元気でいてね。手紙、書いてもいい? 困るなら我慢するけど」
想定外の言葉に、思考が飛んだ。
「待て待て待て待て!」
「ここで、ずっと暮らすんでしょう?」
「いや、暮らさない! なんでだよ! どうしてそうなったんだよ!」
焦りで声が裏返った。
ああ、そうか。
俺が連絡もせず、仕事を延ばし続けたせいだ。庭ですれ違っていた頃みたいに、少しくらい俺を恋しがればいいとは思っていた。
けれど、まさか本気で置いていかれたと思わせるなんて。
「セランは、ここでレンカさんという人と結婚して暮らすんだって……。さっきの酒場のおじさんたちの一人が、別れ際にこっそり教えてくれたよ」
「あいつら! 絶対に許さねえ!」
あいつらの戯言が、リシェの中にあった不安へ最後の重しを載せたらしい。
頭の中で、酔っ払いどもを五十通りの方法で締め上げる。
「んなのは、酔っ払いの戯言だ! 全部嘘だからな! レンカはただの飲み友達だ。手なんて出してねえ!」
レンカは、辺境伯の旦那の親族の娘だ。最初は確かに、俺にあてがおうとしてきた相手だった。
無理やり会わされてみれば意外と気の合う奴で、本人にも俺とどうにかなろうという気はなかったから、普通に友人にはなったが――それだけだ。
くそ。あの狸親父。
まさか、もう縁談がまとまったみたいに吹聴したんじゃねえだろうな。
確かに、レンカとつるんでいるところを見られたことは何度かある。けれど、本当に何もない。本当にないんだ。
せっかく繁華街の他に、歓楽街のほうもちゃんと避けていたのに、なんで別の方角から刺されなきゃならないんだ。
どうしてこうなる。
「そうなの? そっか……早とちりしちゃった」
予想していたことと事実が違うと、ようやく飲み込めたらしい。
リシェは目を瞬かせたあと、ほうっと大きく息を吐いた。それから、不安がほどけたように、満面の笑みを浮かべた。
「あんまり戻ってこないから、きっともう帰らないのかなって思って……そう思ったら、寂しくて。せめて一度は、別れる前に会いたかった。だから……グラント様にお願いして、連れてきてもらったの」
その瞬間、思考が止まった。
俺一人に会うために、総長の公務を動かした?
私的な願いで、外交の日程まで?
……聖女の本気は、やっぱり国をも動かす。
そんな無茶をしてでも、俺に会いに来てくれた。
「会えなくて、寂しかった。また会えて嬉しい」
まっすぐ胸の奥へ届いた。
それは、今度こそ疑いようもなく、俺へ向けられた言葉だった。
喉が焼けるように熱くなる。嬉しい。
言葉では足りない。
泣きそうなほどの笑顔で、彼女がそこにいた。
「馬鹿だな。俺はリシェを置いていったりしない」
ああ――純度が高すぎて、眩しい。
恋情なんて言葉だけでは片づけられない。
それでも、その想いの全部を受け取ってしまった。
俺は彼女を、力いっぱい抱き締めた。
隙間が一つも残らないように。
腕の中で、リシェの肩がほんのわずかに強張った。それでも、しがみつくように抱き返してくる。
「うん」
「それが、恋しいってやつだ。……わかってよかったな」
背中へ回した手で、ゆっくりと撫でながら囁く。
胸の奥で、何かが溶けていく。
聖女になって少しずつ遠ざかっていたリシェを、ようやく俺の側へ取り戻した気がした。
やがて息が整い、胸の中の嵐も少しずつ静まった。ようやく、リシェがここにいるという現実を、そのまま受け入れられるようになってくる。
だから今度は、俺の番だとばかりに、この土地のことや任務の話をした。
乾いた風。補修した堤。獣害の処理。
どんな現場で、どんな人間たちと働いているのか。
彼女が少しでも安心できるように、順を追って話していく。
リシェは静かに頷きながら、俺の言葉を一つも逃さないように聞いていた。
その瞳に懐かしい色が宿っているだけで、胸の奥が温かくなった。
「あ、宿には何時までに戻せばいい? 飯も宿で出るのか?」
気づけば外は薄暗くなっていて、慌てて尋ねた。
この町にも、いくつか食える店は知っている。旅人向けの料理屋もあるし、地元の肉を焼く小さな食堂も悪くない。
「飯が宿で用意されてないなら、旨い店をいくつか知ってるぞ」
そう言いながら、内心では警戒すべき場所を浮かべ始める。
まず、さっきの酔っ払いの店には絶対近寄らせない。
この町には荒くれ者も多い。下手な店に連れていけば、余計な絡まれ方をされかねない。変な客に目をつけられるのも冗談じゃない。
……でも、浮かれていたのかもしれない。
夜市で、昼と違う顔を見せるのもいいな。町の灯りが綺麗に見わたせる裏の丘に連れて行ってやってもいいかもな。
護衛のための案内を考えているはずなのに、いつの間にか、誰にも邪魔されず二人で過ごせる場所を選んでいた。
だがリシェはそんな俺の考えの更に上を行く。
「ううん。まだ話し足りないし、宿に帰りたくない。このままセランと一緒にいたい」
時が止まった。いや、脳が止まった。
「このまま、ここに泊まっていくのは、駄目?」
「…………。」
冗談じゃない。
その一言で、せっかく整えた理性が木っ端微塵に吹き飛んだ。
リシェは真面目な顔で言っている。笑ってもいない。たぶん、本気だ。
……そういう意味の寝るではないことくらい、わかっている。
放浪していた頃のように、外套へ包まって長椅子か床で眠ればいいとでも思っているのだろう。
こいつにとって俺は、抱き枕か、眠るためのお守りみたいなものだった。少なくとも、放浪していた頃までは。
けれど、問題はそこじゃない。
そもそも、公爵の婚約者で、国の要人でもある聖女が、無断で外泊するなんて許されるはずがない。
よしんば許可されたとしても――俺の理性は、そんな都合よく線を引けない。
ここまで会えなかった時間を積み重ねたあとで、同じ部屋にいて、ただ眠れと言われても。
無理に決まってる。
「ばっ……馬鹿か、お前は! 総長の外聞を考えろ!」
声が裏返った。怒鳴ったのは、照れ隠しと恐怖の両方だ。
こいつは、自分の立場を何だと思ってるんだ。いや、俺の純情をなんだと思っているんだ。
……それなのに。
リシェは少し驚いたように目を見開き、それから静かに俺の袖をつまんだ。力は入っていない。
ただ、小さな手が、離れたくないと訴えるように布を握っている。
伏せられた瞳の奥に、かすかな寂しさが見えた。
……断りたくない。
断るしかないとわかっていながら、胸の中で何度も自分を叱りつけた。
「はあ……頭痛いよ、俺は。どれだけごねても、無理なもんは無理だ。宿まで送る。今日は帰って……また明日会えばいいだろ。俺は逃げないから」
妥協のつもりで言うと、リシェは小さく笑った。
「やった。それならいいよ」
こいつ。こいつ。もしかして最初から、明日の約束を取りつけるために吹っかけたのか。
たぶん俺は、一生勝てない。
こうやって何度でも折れてしまうんだろう。
結局、その日は食堂で簡単に腹を満たしてから、リシェを宿へ送り届けた。
別れ際、翌朝は一緒に朝焼けを見に行く約束をした。
「明朝は俺も任務がない。早起きして、朝焼けを見に行こう。王都と違って、地平線が綺麗なんだ」
宿の侍女にも迎えの時刻を伝える。
グラント様は外交後の酒宴からまだ戻っておらず、側仕えへも伝言を残そうとした。
だが、こちらの動きを見越していたかのように、俺宛ての言葉がすでに預けられていた。
『明日の出立時刻まで、聖女殿の行動はお前に預ける。必ず傷一つなく戻せ』
隣で聞いていたリシェが、悪戯っぽく俺を振り返った。
「泊まってもよかったんじゃない?」
「判断を任せるって意味だ。いいわけない。グラント様が許したとしても、俺は許さねえよ」
「ふふふ。じゃあ、また明日。楽しみにしてるね」
その笑みを見ただけで、明日が来るのが待ち遠しくて、同時にほんの少しだけ怖くなった。
湿度が高くなってきましたね




