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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
19章 望郷
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時の穴埋め

「お待たせしました」


扉の向こうから現れたリシェは、完全に装いを整え直していた。まるで、さっきの再会劇など何もなかったみたいに。


金糸を織り込んだ布をまとい、袖や刺繍にはこの地方特有の意匠が施されている。布地や耳元の金属飾りには、隣国アルハンドアの文化も入り混じっていた。


聖女として目にする白い公務服とはまるで違う。異国の風を、そのまま纏ったような装いだった。


柔らかな銀の髪は日除けの布の下へ綺麗にまとめられ、歩くたび、耳元の飾りがかすかな音を立てる。


……もう、言葉が出なかった。


ただ、こちらを見た時だけ、布の端を押さえる指先に少し力が入った。何もなかったような顔をしているだけで、さっきのことまで忘れたわけではないらしい。


「……うん。いや。では、行きましょうか。町の見どころをご案内いたします」


喉がからからで、変な声になっていた。

心臓の音が自分でもうるさい。まるで初めて綺麗なお姉さんを見たガキみたいに、挙動不審になっている。


いや、俺は大の男だ。それなりに町の娘と遊んだりもしたし、王宮では驚くほど豪華に着飾った貴婦人だって目に入る。


それなのに、こいつの前でだけ、何もかもが空回りする。


もう考えるのをやめて腕を差し出した。早く、この場から離れたい。イェルス家の使用人たちの前で、落ち着けるわけがないんだから。

人目の少ないところで、少しでもいいから話したい。何がどうなってリシェがここにいるのかを聞いて、この現実に追いつきたかった。


「ふふ、お願いします」


甘く、瑞々しい声。


ただの返事なのに、それがまっすぐ鼓膜に刺さり、胸の内側を焼いた。

嵐のように暴れる動揺を必死で抑えながら、宿を離れた。


宿から離れるにつれ、吸い慣れた砂っぽい空気が肺を満たし、少しずつ冷静さが戻ってきた。


俺の知っている町を案内する。

二か月も暮らした、大きくもない町だ。どの道が市場へ続き、どこを曲がれば川へ出るのか、もう地図を見なくてもわかる。

市場を抜けて、広場へ向かった。


そこにあるのは、小さな分霊樹。大樹から遠く離れた枝のような存在だ。

王都の分霊樹よりずっと小さく、立派な祠堂もない。簡素な柵に囲われ、普通の樹木より一回り大きい程度の幹が、乾いた風に枝を揺らしている。


ここの分霊樹の起こりは、いわゆる“野良”らしかった。

領主が領地を拝領する際、祭祀庁から正式に与えられる苗木ではない。人里から離れた場所で自然に生まれ、祭祀庁に把握されないまま育った子株だという。


野良の分霊樹は、一定以上まで育てば、大樹への敬意から伐ることもできない。かといって、祭祀庁の正式な管理下へ移されるわけでもなく、その土地に残される。


祭祀官が常駐して手を入れるわけでもないからか、幹はさほど太くない。強風に吹かれれば、折れてしまいそうにすら見えた。

それでも、そこに信仰の拠り所となる分霊樹があれば、シルヴィナスの人間は集い、守ろうとする。


柵を作り、水を運び、できる範囲で枝や土を整えながら、町の住民が持ち回りでここまで育ててきたのだと聞いた。


「そうなんだ。皆で頑張って、この町を育てたんだね」


リシェは分霊樹の前で足を止め、静かに目を閉じた。

祈るように掌を重ねる。

わずかに空気が震え、根元で淡い光がちらりと瞬いた。


「ご挨拶として、ちょっとだけね」


目を開けたリシェが笑った。


「癒したり、力を足したり、土地に勝手に何かを与えたんじゃないよ。皆が育てた根が、この先も素直に伸びていけるように、霊質の流れを少し整えただけ。応援みたいなもの」


地勢や周囲との均衡もあるから、無闇に力を注ぐのはよくないらしい。

それだけでも、この土地は昨日までより少し豊かになったように思えた。根元の土が柔らかくなり、吹き抜ける風までわずかに優しくなったような――そんな気がした。


ほんの一滴、リシェの祈りがここに残った。


それから、俺が普段歩いている順路を辿った。

よく行く食堂。バザール。工芸品の並ぶ細い通り。

店や建物を説明するたび、俺は横目でリシェの顔を盗み見た。

帰ったら話してやるつもりだった景色を、こうして本人と並んで歩いている。自分が面白いと思ったものを、あいつも面白がってくれるか確かめたかった。


繁華街や飲み屋は、さすがに避けた。

余計な噂は立てたくない。この町は広くはない。誰か一人に見られれば、翌日には全員が知る。


……なのに。


「おっ? あっ、セランが女連れてる!」


通りの角から声が上がった。


振り向けば、酒場の店主と、いつもの酔っ払いどもがいた。

ああもう、最悪だ。


「おい、レンカが見たら――もごっ」


俺は慌ててそいつの口を塞いだ。


「うるせえ! うるせえ、何も言うな!」


必死に押し黙らせる。

レンカは、辺境伯の旦那に引き合わされた女だ。だが、互いにそういう気はなく、今ではただの飲み友達だ。本当に。

変な誤解をされないように、説明しておきたかった。


……けれど、リシェは何も尋ねていない。聞かれてもいないのに、いきなり弁明するのも、かえって怪しい気がする。

結局、口を開けないまま、俺だけが勝手に落ち着かなくなった。


「騒がしいから……別のところに行かないか……」


顔が熱い。リシェの耳に、こんなくだらない話を入れたくない。見られたくもない。


本当に、よりによって今日に限って。


「え? 大丈夫だよ。お友達がたくさんできたんだね」


リシェは何か、確かめたように目を瞬かせて、穏やかに微笑んだ。


まるで、俺が一人で過ごしていなかったことを喜んでいるように見えた。

少なくとも、その時の俺にはそう見えた。その笑顔が、かえって痛かった。


……まだ、嫉妬はしてくれない、か。


酔っ払いどもを追い払って先へ進もうとしたところで、今度は隣の雑貨店の主人に呼び止められた。


駐屯地の補給係が注文していた資材が届いているだの、西の平野で獣が巣を作っているのを見たから、そのうち退治してほしいだの――急ぎではないが、無視もできない話を聞かされる。

俺がほんの少し店主と話しているあいだ、リシェは少し先で待っていた。


「わかった、わかったって。本部に伝えてあとで人を寄越すから」


ようやく話を切り上げて戻ると、さっきの酔っ払いの一人が、道の反対側へそそくさと離れていくところだった。また余計な軽口でも叩いたのかと思ったが、リシェはにこにこと手を振って見送っていた。俺も、その時は特に気に留めなかった。


「お待たせ。……何か変なこと、聞いてねえよな」


「ううん? 楽しい人たちだったよ。ここの砂鳩の酒蒸しが絶品だから夜食べに来なって」


「いやあ……。それはどうかな」


確かにうまいけど、入り浸っているあいつらと同席させてまで食べさせたくはない。口に入る味よりも耳に入る雑音の方が多くなるはずだ。


「そうなの? 残念」


ただ楽しそうにしているのが、なんだか悔しい。

ここまで来たんだから、俺に会いに来たのかと思ったのに。

リシェに会えて嬉しいのは俺だけで、リシェは新しい土地や文化の方に気を取られている気がした。俺ばかり浮かれているようで、情けない。


……もしかして、本当に名目のまんま、グラント様の連れとして来ただけなのか。


嫌な想像が頭の中をぐるぐる回る。

やめよう。今は、目の前のリシェにだけ集中しよう。


「こっち暑いし、結構歩いて疲れたろ。どっかで休憩するか。それか見たいものとかあるか」


「ん? ううん。まだ平気だよ」


リシェがさらりと口にした。


「ああ、あとはね。セランの部屋に行きたいの。ここでどんなふうに暮らしていたのか、見てみたいから」


……ああ、やめてくれ。


総長の婚約者を兵舎の自室へ連れ込むなんて、そんな馬鹿なことができるわけがない。俺の首が飛ぶどころか、駐屯所ごと燃やされる。


……それでも、駐屯兵舎の応接間までなら行けるか。そこなら同僚の目もある。問題にはならないはずだ。


「駄目だ。駐屯兵舎の応接間までな」


できるだけ平静を装って答えた。

駐屯地へ入り、兵舎の通路を歩いていると、あちこちから視線が集まった。


「おい、噂の幼なじみか!」


誰かが声を上げ、どよめきが広がる。


やめてくれ。本当にやめてくれ。

兵士たちのからかうような視線が痛い。


ラトリエ以来、地方の兵士にまで、俺が聖女の幼馴染だという話は知れ渡っていた。初めて会う奴には、決まってその話を聞かれる。

そうなれば酒の席でも夜番でも、リシェの話をしないわけにはいかなかった。俺自身の恋情は伏せて話しても、“聖女の赤”という先入観までは拭えない。自分ではそれほど喋ったつもりはないのに、こいつらにはとっくに筒抜けだった。


それでも、そこに敵意や嫉妬はない。どこか温かい空気だった。

皆、俺がどれだけリシェを大事にしているかを知っている。だからこそ、突然現れた本人を笑って迎えてくれているのだと思う。


駐屯兵舎の応接間へ通され、案内してきた下士官が茶の用意をすると言って退室した。扉は開いたままだが、室内には二人だけが残された。

ようやく静かになった――と思った瞬間だった。


「仕方ない……ここでもいっか。じゃあ、セラン。服、脱いで」


……は?


「怪我が増えていないか確認するの」


「またかよ! 今は怪我してねえから、いらねえって!」


思わず叫んだ。


わかっている。リシェは本気だ。

こいつはまた、俺の体を検めようとしている。傷がないか、古い痕が悪くなっていないか、そういう確認だ。

恋のことを考えている時には、あれだけ慎重に距離を測るくせに、俺の傷を探す時だけ、まるで当然かのように迷いがない。

男と女だという意識ごと抜け落ちた顔で、ためらいもなく手を伸ばしてくる。

上着の紐へ指を掛けられ、慌ててその手を止めた。


「待て待て! おい、誰か入ってこい! 立会人になってくれ!」


リシェの評判に傷をつけるわけにはいかない。

婚約者のいる聖女と二人きりで服を脱いでいたなんて噂だけは、絶対に立てさせられない。

呼ばれて入ってきた兵士たちは、事情を聞くなり露骨に口元を緩めた。


「じゃ、そろそろいいかな?」


くそ、もう勘弁してくれ。

リシェはまるで仕事の一環のように淡々と、改めて上着の紐へ手を伸ばした。


「やめろ! 自分で脱ぐ!」


横目で見ると、兵士どもがニヤニヤしている。


ああもう、絶対に笑うな。

頼むから何も言うな。


俺は、ただただ情けない。

こそばゆいし、同僚の前で裸にされるのは単純に恥ずかしい。

それでも、リシェの指先が肌に触れるたび、心臓が跳ねた。

俺はただ、じっと息を殺して、終わるのを待った。


やがて一通り確かめ終えたリシェが、安堵したように小さく息を吐いた。


「うん、変な怪我や傷は増えてないね。よかった」


その顔を見た瞬間、胸の奥で、まだ形になっていなかった期待が勝手に輪郭を持ち始めた。


俺がどんな場所で暮らしていたのかを知りたがり、無事か確かめるために、体の傷まで調べた。

王都から、こんな遠くまで来た。


まだ確信は持てない。

それでも、期待せずにはいられなかった。


リシェは、俺に会うためにここまで来たんじゃないのか。

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