辺境、近況
乾いた地。辺境。隣国アルハンドアとの国境の町。
この地方に来ること自体は二度目――いや、三度目だった。
早馬として、伝令のために馬を飛ばしたことがある。
害獣駆除のため、数日だけ配備されたこともある。
だけど、こんなに長く駐留するのは初めてだった。
隣の町、川向こうの交易地、古い砦跡。
地図で見れば王国の端の端。
大樹の加護は薄く、風は荒くて空は乾いている。
この地では、大樹様よりも井戸の水位の方がよほど切実だ。
治安維持、盗賊団の摘発、土砂崩れの補修、獣害対策、工事。
やることが多すぎる。
だが、誰かがやらなきゃならない仕事だ。
暑さも、食事も、半月で慣れた。
固いパンも干し肉も、いまでは旨いと思える。
この地に住めと言われても――正直、暮らせる気がする。
乾いた空気にも慣れたし、夜の静けさや星空の広さも悪くない。
ただ……リシェには向かないだろう。緑が少なすぎる。
まあ、あいつなら――ないならないで、生やすかもしれない。この砂地のど真ん中に花を咲かせるような、そんなことを。
だから帰ったら、この場所のこともたくさん話してやろう。
こっちで友達もできた。
バザールにある土産屋のミーシエ。大通り裏にひっそりある革卸店のサガン。最近つるんでる国境警備兵のトルガ、駐屯所の管理番の婆さん。
そういう縁のひとつひとつが、この土地での呼吸をしやすくしてくれた。
特に、辺境伯の旦那は、俺を気に入ってくれたらしく、やたらと引き留めようとする。
しばらく続いていた城塞への破壊工作の主犯が、隣国の間諜や賊ではなく、住処を追われた鳥獣――小さいが構造物を食い荒らす類の害獣――だと突き止めたからだ。
「この地で仕官しないか」
「辺境騎士団に入れ」
「親族の娘を紹介しよう」
「金は出す」
有難い話ではある。
だけど、どんなに条件を積まれても首を縦には振れない。俺には帰る女がいて、それだけは譲れない。
……そうは言っても、旦那は悪い人間じゃない。
仕事をしっかりこなせば、報酬に色をつけてくれる。
それが少しずつ積もって、帰るのが遅れた。
つい二か月近くもここに留まってしまった。
でも、金が少しでも貯まるのは悪くない。
リシェとの未来のため――そう思うと、つい欲が出た。
リシェの溜まり続ける力のためには、王都でそのまま祭祀関連の職について、力の使い道がある方がいいんだろう。
でも、もしそうするとして、聖女の任期が終わっても王都で暮らすなら、それなりの費用がかかる。
家を借りるにしても、日々の暮らしにも、金は要る。
祭祀庁に関わり続けるなら、身なりや付き合いだって完全には切れない。
城内に住み込み?
あんな窮屈な場所、まっぴらだ。
リシェが自由に風を感じられる場所を、王都の中か、その近くに用意してやりたい。
そんな先のことまで考え始めると、あと少し、もう少しと、帰る時期を延ばしてしまった。
そんなことを考えているうちに、月日が経った。
あっという間に二か月。さすがに、そろそろ限度だ。本当にこちらへ鞍替えするつもりがないなら、交代しなけりゃならない。
俺の居場所に戻る頃合いだ。
アスティからたまに届く手紙には、特に急を要する報せはなかった。
相変わらず短く、必要なことしか書いていない。
リシェのことも、『大過なし。帰城の時期が決まり次第知らせよ』とだけ。
多少は気がかりだった。
あいつのことだから、また夜中に泣きべそをかいているかもしれない。悪夢でも見て。
……そう思うと、胸の奥が痛んだ。
それでも、本当に何かあればアスティも呼びつけるだろうから心配まではしていなかった。
その時、駐屯地に王都からの指令があった。
「外交会談がある。警備の配置を相談したい」とのこと。部隊長として呼ばれた俺は、任務だと思って足を運んだ。
そして、そこで待っていたのは――グラント様だった。
「参上いたしました」
「会談の間の警備配置と計画だ。随行兵士と打ち合わせて配置してくれ」
「承知いたしました」
慣れた報告と指示のやり取り。
だが、その後に続いた言葉で、少し眉をひそめることになる。
「それと……すまんが、私的なことだが、長旅の慰めに麗しい婦人を連れてきている。だが、私の会談中、彼女は一人寂しく過ごさねばならない」
……おい!?おいおいおい。
一瞬、思考が止まった。
「……セラン、お前に護衛を命ずる。案内してやってくれ」
「……」
何を言ってるんだこの人。あの言い方、どう考えても愛人って意味だったよな。
まさかの言葉に、声が出ない。ついこないだアスティの脚がどうとか言ってたくせに。
……いや、愛人が何人居ようと、俺には関係ないし。いいけど。いいけども――アスティに言うぞ、このこと。
「どうした。外聞もある。お前に任せたい」
その声音にはいつもの威圧もなく、『おまえに秘密を任せる』――そんな、ただ親しみを含ませた信頼だけがあった。どこか面白がるように細められた目。
……冗談なのか、試しているのか、判断しづらい。
深呼吸して、頭を下げる。
「失礼しました。お任せください」
伏せた顔の奥で、呆れを堪えきれずに笑ってしまった。
各地に愛人がいるとか、何人も泣かせているとか……聞いてはいたけれど、噂通りの色男。
まさか総長が、アスティに近い俺の前でもそんなことをするとは――思わなかった。
「指定の場所に控えさせておく。明日朝、迎えに行ってくれ」
……まあ、男盛りだもんな。
アスティがあれだけ手強いと、別の息抜きも必要かもしれない。
「承知いたしました」
翌朝、指定された貴賓宿へ向かった。
通された先は、王族や高官が使う最高客室だった。
絨毯の模様も家具も、この辺境の中では異質なほど整っている。
扉の前で深く息を吐き、顔を伏せて膝をつく。たとえ平民でもグラント様が直々に預ける女なら、相応の礼を尽くさなければならない。
「お迎えに上がりました。町をご案内させていただきます」
侍女が扉を開いた瞬間――空気が変わった。
……香りで気づくべきだった。
砂塵の匂いに混じる、懐かしい清香。
でも、この土地の風は乾いていて、嗅覚が鈍っていた。
「今日は宜しくお願いします。お久しぶりです……セラン」
挨拶の第一声が耳に入るやいなや、俺は礼を忘れて顔を振り上げていた。
そこにいたのは、この土地特有の強い日を除ける頭布で銀の髪を隠した女。
俺に向かって、淡く微笑むその顔。
他人の目がある中で、取り繕った態度の中でも隠せていないその存在感。姿勢を正して立ち上がるその動作、視線、息の仕方――すべてが、あいつだと告げている。
リシェ。
声が出なかった。
脳が追いつくより先に、心臓が反応した。
遠い旅路を経て、乾いた世界に、春が差し込んだ気がした。
「は? え? ……なんでリシェ……リア様?」
呼び捨てしかけて、すんでのところで無理やり止めた。
見間違いかもしれない。
いや、見間違えるはずがない。
周りを固める人間は全て知らぬ者で、その中にいるはずがないのに。
……リシェ。
リシェ、リシェだ。
頭が真っ白になった。
目の前の光景を、脳が拒んでいる。
え、え、え――ちょっと待て。
ここにリシェがいる?
馬鹿な。そんなはず、あるわけがない。
……でも、いる。
その姿も、声も、匂いも、全部覚えている。
少しやせたか。
頬の線が少しだけ尖って見える。
でも、間違いない。
俺のリシェ。リシェリア。
何日かに一度は夢に見てた。
声も、体温も、全部夢の中で探していた。
それが今、手を伸ばせば届く距離にいる。
……待てよ。グラント様。
あの人、さっき愛人を連れてきたとか言ってたよな。
は?
まさかリシェのことか?
どの口でそんな――殺すぞ。
あれは冗談だ。そうだろ。
混乱のせいで、感情が滅茶苦茶に暴れ回っている。
「……夢。これは夢か」
気づけば、口に出していた。
心の方が追いつかない。
体はもう、リシェだと理解して動いているのに。
気がつけば、俺の腕の中に柔らかな重みがあった。
頭布が滑り落ち、銀の髪が光を弾く。
俺の両腕は、思っていた以上に力を込めていたらしい。
「セラン……苦しい……」
「はっ」
その声で、現実が一気に戻ってきた。
俺は――本気で、全力で、彼女を掻き抱いていた。
掴まなければ消えるとでも思ったように。
指先が震えて、どうにも止まらない。
鼻先が髪に触れる。
乾いた辺境の空気の中で、その匂いだけが、リシェはここにいると鮮烈に訴えてくる。
ああ、現実だ。夢じゃない。
息が詰まりそうなほど懐かしい香り。
「……悪い」
慌てて手を離した。
リシェの服がぐしゃぐしゃになっている。
裾も帯も乱れて、肩のあたりまでずれていた。
「ごめん、セラン。一度出てって……この服、直し方わからないから。着替えさせてもらう」
ああもう、最悪だ。
……再会して最初の言葉が、お互い詫びだなんて。
か細い声だったけれど、どこかいつもの冷静さが戻っていた。
彼女の後ろから、控えていたらしい見知らぬ侍女が現れた。イェルス家の紋をつけた女。
その侍女の目は、驚きよりも先に職務の色をしていた。すっと立ちはだかり、俺を外へ促す。
問答無用に扉の外に押し出され、音を立てて閉じられた。
呆然としたまま、俺は扉の前で突っ立っていた。
待たされている間に、別の使用人が近づき、リシェの名目上の来訪理由と、外での振る舞いについて淡々と説明していく。
聖女は表向き、外交への随行者としてこの地へ来たこと。ただし、慣れない気候と旅の疲労から体調を崩し、総長の判断で会談には出席せず、宿で休養していることになっているらしい。
今は快方へ向かったため、護衛を伴う短時間の外出を許された。町で姿を見られても構わないが、理由を尋ねられた時は、そのように答えろという。
「……承知しました」
どうにか返事はした。
必死に頭へ留めようとしたが、説明の半分はそのまま流れていきそうだった。
手の中に残る感触が、まだ消えない。
体温が、指の奥にまで焼きついている。
――リシェが、ここにいる。
その事実だけが、頭の中で何度も反芻されていた。
廊下の向こうで、警備兵がこちらを見ていた。
怪訝そうな、半分呆れたような目つき。
俺は何も言えず、ただその視線を受け止めながら、心臓の鼓動だけがやたらとうるさく響いていた。
※本話タイトル「辺境、近況」は、村上春樹氏の著書『辺境・近境』をもじったものです。内容上の関連は一切ありません。




