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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
19章 望郷
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望郷

私にとって、セランは――守りたい日常そのものだった。


彼がいる場所に、帰るという感覚があった。意識して探すものじゃなくて、気づけばそこにあるもの。振り返らなくても、ちゃんと後ろにあるとわかる温度だった。


いじわるな世界の中で、あたたかく閉じられた時間は長くはなかった。けれど、トルニカの村の、小さな家の中にだけは、それが確かに残っている。


薪のはぜる音。干し草の匂いに混ざる、煮込みの湯気。エナの手のひらのやわらかさ。ダレンの静かな声。ウルやレノの足音。その中で、セランの声だけが、はっきりと浮かぶ。


年が近いのに、いつも一歩前に出て、振り返る。その視線の中に、当たり前みたいに自分がいる。


冬の日に握られた手の感触。肩を貸してくれた重み。火を囲んで、横にあった気配。ひとつひとつが、ゆっくりと浮かび上がってくる。


町に移ってからも、完全に離れたことはなかった。距離はあっても、縁が切れることはなかった。……サリーナで、あのことがあったあとも。


全部を失ったあとも、彼の足音はそばにあった。呼吸も、影も、何もかもが自然にそこにあって、疑う必要なんてなかった。離れる、なんてことを考えたことがなかった。


だから今、この状態がうまくわからない。


風も、土も、同じなのに。そこにあるはずのものだけが、抜けている。触れようとしても、触れられない。


――もう、戻ってこないのかもしれない。


遠征先で、別の場所に根を下ろすことだってあるかもしれない。新しい仕事や、新しい居場所。そこで守らなければならないものが見つかったとか。それで、ここに戻る理由が、少しずつ薄れていく。


前なら、それを良かったと思えたはずだった。彼が軽くなるなら、それでいいと。今も、その気持ちは消えていない。


でも、何も言わないまま、ただ離れていくかもしれないことが、こんなに重いとは思わなかった。

見送ることも、区切りもなくて、ただ距離だけが伸びていく。そんな別れ方が訪れるなんて、知らなかった。


庭に立てば、土は変わっていない。触れれば、同じように指にまとわりつく。踏めば、同じ音がする。そこに、彼の痕跡がある。撒かれた種。整えられた土。並べられた石。どれも、まだ、彼の手の動きを残している。


だから、錯覚してしまう。

来る時間がすれ違っていて会えないだけで、まだ、ここにいるんじゃないかって。

けれど、呼んでも何も返ってこない。

あるのに、いない。


そのずれが、胸の奥をぎゅっと掴んだ。


……何も言わなくても、そばにいてくれた。


求める前に、差し出されていた。その当たり前が、どれだけ一方だったのか、少しずつわかってくる。

ずっと一緒に、隣に並んでいたつもりだったのに。

そんなことはなくて。


ただ、もらっていただけだった。


足元が揺れる。視界の端がにじむ。土の匂いが強くなって、息を吸うたびに胸の奥に落ちていく。食べ物を口にしても、味がしない。空気も、うまく通らない。


カイルが言っていたものに、少し似ている。


でも、少し違う。

嬉しい気持ちより先に、重くて苦い。それでも、奥に残るものが消えない。消そうとしても、そこにある。


――これが、そうなの?


わからない。でも、このままではいけないことだけはわかる。


今まで、いつもセランが手を引いてくれていた。進む場所も、歩き方も、全部。だから、自分で動くことを考えたことがなかった。

でも今、その手がない。同じ場所に立って待っていても、近づかない。


…………なら、自分から行かなきゃいけない。


誰もいない庭に零れた言葉は、私自身への命令みたいに響いた。


「……会いたい。会いに、行かなきゃ」


私は、グラント様に面会を申し込んだ。


誰かを通さず、自分の名前で。


今までの私は、誰かに願いを渡してきた。アスティに、カイルに、グラント様に、セランに。

でも今回だけは、誰かに整えてもらった言葉では駄目だと思った。

私が行きたいのだから、私の名前で願わなければならない。


断られることを覚悟していた。何度でも申請しようと思っていたのに――拍子抜けするほど、すんなりと許可が下りた。


指定されたのは王城ではなく、市内にあるイェルス家のタウンハウス。


初めて訪れる場所。荘厳というよりは、品のよい静けさに満ちていた。外観は重厚で、内部は温もりを帯びている。


王城で見るグラント様は、いつも国の重みを背負っていた。けれどこの館では、壁に掛けられた古い狩猟画も、磨かれた木の手すりも、静かに置かれた酒器も、彼がただ一人の人間として過ごす時間を知っているようだった。


どこか、彼そのもののようだと思った。


「ようこそ聖女殿。私の館へ」


応接室の扉をくぐると、いつもの軍装でも公務服でもない、やや柔らかい装いのグラント様が立っていた。肩の力を抜いた様子。それでも立っているだけで、空気が整う。


「お時間を取っていただきありがとうございます」


私は深く礼をした。


「お会いできると思っていなかったので……嬉しいです」


そう告げると、グラント様は小さく笑った。


「構わないさ。……婚約者なのだから、たまにはね」


「あ。そうですね。そうでしたね」


思わず素直に返してしまう。


「忘れていた? 悲しいな。たまには恋人らしくどこかへエスコートしようか」


「だって、今までそういうことをしたことがありませんでしたから」


「ま、そうだな。私はアストリットを、君は赤と黒の騎士がいる。誤解されたくない」


「ふふ。そんな話もありましたね」


口元に浮かぶ微笑は、ほんの少し切なかった。今では私も知っている。


ラトリエでのことが色々と装飾されて、『白い聖女の赤と黒』――そんな舞台劇が王都で上演されたことを。そしてその裏で“赤が勝つか、黒が勝つか”なんて、面白がってお金を賭けて楽しむような娯楽が流行ったらしいことも。


――それが高じて、演じた俳優の私生活にまで干渉しようとしたという話だと聞いている。


他人の他愛ない興味が膨らむと、どれだけ鋭く人を傷つけるかと驚いてしまった。


誰かに気にかけられるというのは、嬉しいことでもある。けれど、それがいつも優しい形で届くとは限らない。羨望も憎悪も、同じ重さで胸を刺す。


婚約は、その毒から身を守るための盾でもあったと思う。グラント様自身の縁談や政治的な情勢だけではなく、きっと私やセラン、カイルの恋をも消費されないように守るため。


「いや、それだけじゃない。私が動けば動くほど、カイルに休まれるからな。あまり業務を回されたくない」


「グラント様は祭祀長でもありますからね」


グラント様は祭祀庁にも名を置いているけれど、主たる務めは軍の総指揮だ。研究や机仕事で庁舎にいることが多い祭祀庁の業務とは、基本的に相容れにくい。


実質的なことは、大祭祀官様が担っているとはいえ、総合的な判断や政治が絡むと、どうしてもグラント様に委ねられるらしい。カイルは、グラント様が動かなければならないような決裁を、かなり圧縮してくれているらしいと、グラント様と公務をするようになってから聞いている。


彼は茶杯を手に取りながら、少し愉快そうに言った。


「さて、今日の議題は? アストリットの歓心を買うための必殺の一手か? それとも、赤か黒かをどちらかに決めた? ……あるいは、大樹が万全に癒えて、国から出ていくことにしたのか?」


軽く笑うその表情の奥に、私の本心を見抜こうとする静かな観察の光が閃く。


その言葉だけ、胸の奥に小さく引っかかった。大樹が癒えたら、私はこの国を出ていくのか。まだ考えたことのない問いだった。


けれど今は、その問いに留まっていられない。

私はその視線を受け止め、慎重に言葉を選んだ。


「そういうことではないのですが……」


息を整えて、少しだけ間を置く。


「セランに会いに行きたいんです」


「ほう?」


グラント様の眉が、かすかに上がった。


「聖女が、国の要人が。一介の兵士に会いに行く?」


その声音は、探るようでもあり試すように響く。


「それは……決定打なのか?」


「わかりません。でも――」


胸の中の衝動が、言葉よりも先にこぼれ落ちそうだった。


「知りたいです。確かめたいんです」


恋を決めたわけではない。

でも、決めるために必要なこと。会わなければ、何も前に進めない。


グラント様は腕を組み、しばし沈黙して低く言った。


「だとしても、呼び戻せと頼めばいいだろう? 兵士を動かすことは、私の指一本で事足りる」


「……私が行きたいんです」


はっきりと言葉にした。


グラント様は、驚いたというより、確かめていた答えがようやく口にされたのを聞いたような顔をした。


「許可をいただけますか」


「王都の外だ。君を移動させるには金が動く。……何をしてくれる?」


まるで交渉のような口ぶり。でも、それが彼の誠実さでもある。私は姿勢を正し、視線を合わせた。


私に出来ることは異能だけ。


ゆっくりと意識を巡らせて探る。

グラント様に不調はなさそう。知覚範囲にいる人まで伸ばすと、壁の向こうや廊下の控えに、幾つかの人の形がぼんやりと浮かんだ。


「たとえば、私に出来ること。お身体を治します。控えておられる方に、片足が悪い方がおひとり。……過去の何かが原因で今はその症状だけ残っているみたいですね、治せます。あとは、細かな傷を幾つか負っている方がお二人。これは護衛の方でしょうか、これも治せます」


けれど、どちらの傷みも、勝手に治しちゃいけないってもうわかってる。


「……」


グラント様が目を丸くした。

あまり見たことのない表情。


「ああ……そうか、そんなに見えるのか。……いや、とりあえず、今は大丈夫だ。あいつらもその不自由とは付き合いがあるからな……私の一存では決められん」


何か遠いものを思い出したように、その目がわずかに細められた。


「だが、とりあえず今はいい。脚の悪い者も、その不自由とは長く付き合っている。私の一存では決められん。ほかの二人についても、本人に聞いてからだ」


そう断りながらも、グラント様の口元には、なぜか消しきれない小さな笑みが残っていた。


「頼みたくなったら、また別でお願いする」


もしかしたら、セランと私のように、グラント様と側近の方たちのあいだにも、傷にまつわる思い出があるのかもしれない。


誰もが、外からは見えない痛みを抱えて生きている。


目の前のこの方が、急に近く思えた。


けれど、困った。治すことを断られてしまうと、ほかに何を差し出せばよいのかわからない。



「……では、どうしたら良いでしょうか。私にできることは、なんでもしたいと思います」


静かな間。

互いの視線が、まっすぐに交わる。

やがて、彼が短く息を吐いた。


「……わかった。愛らしい婚約者殿のおねだりに応えるのは男の甲斐性だな。今回は私が払っておこう」

 

ふっと目を細める。

 

「迷惑をかけないと言っていたのに、カイルの件で迷惑をかけたからな」


「あれは……アスティに負担があったからお願いしただけで、私はそんなには……」


あの時は、毎回時間外に働かされているアスティに申し訳なくて、グラント様に介入を依頼した。カイルはあの頃はずいぶん子供みたいに粘っていたから、私ではうまく対処はできなかった。


それも今は、カイルの中にある恋のせいだと理解はしている。グラント様のせいではない。……けれど言いかけて、やめた。


「そうですね。お言葉に甘えます」


小さく笑って続ける。


「何か、私がお返しすべきことを思いついたら、いつでもお申し付けくださいね」


グラント様は顎に手をやり、少しだけ愉快そうに口角を上げた。


グラント様は顎に手をやり、少しだけ愉快そうに口角を上げた。

 

「ああ、気にするな。あ、いや。……叶うなら、しばらく君の“姉妹”には会わせないでくれ」

 


「姉妹……?」


一瞬、意味がわからなかった。けれど、彼はそれ以上何も言わなかった。


「いや、なんでもない」


そう言って、面会はあっさりと締めくくられた。


それからまもなく、グラント様は決定を下した。


セランの向かった国境沿いの辺境で、隣国アルハンドアとの外交会談を行うという。

以前から調整されていた会談で、前倒しして組み直す形だった。そして、その随行に私を加える――。

外交の場だから、祭祀はない。私は異能の行使者としてではなく、和平を示す象徴として同行するだけで、祭祀庁からの随行もつかない。


表向きは緊張緩和。先日カルナーンと締結した約定との均衡を保つためのもの。

実際には、辺境伯が他国に阿っていないかを探る牽制を兼ねたものだという。


……けれど本当の理由は違う。


それは、私の私的な願い――セランに会いたいという願いを、叶えるため。


「気分転換になるといいね」


そう労わるようにだけカイルが微笑んだ。


カイルは王都に残る。私の留守の間、祭祀の穴を埋めるために。彼はその決定をただ受け取り、特に何かを表すこともなく、粛々と公務の予定を調整してくれていた。

私が最近は少し沈んでいたことは気づいていると思う。それでも、内心で何を感じているかまでは、わからない。


そうしてすべての役割が整い、私は――国境へ向かうことになった。


待っていれば、いつか向こうからくる。そう怠惰に過ごしていた場所から、私はようやく一歩を踏み出す。

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