色褪せる庭
潮の匂い。
白い砂浜。
鯨の影が、波間をゆらりと渡っていく。
その光景が、まるで古い絵画のように広がった。けれど次の瞬間、地面が揺れる。地下室の棚が震え、瓶が音を立てて割れ、赤い液体が飛び散る。
――ワインだ。
瓶の破片と共に、赤い雨のように舞って落ちる。床を濡らしながら、波紋のように広がっていく。
暗転。
次に来るはずの場面を待っていた。
静かで差し込む灯りもなかった地下の中。むせ返るようなお酒の香りに、朦朧としていた。意識を何度も手放して、いつ終わりが来るのが待っていた。
でもこの後は、どこか遠くに足音がして、土を掻き分ける音と興奮した犬の吠え声が私の耳に聞こえるんだ。馴染みのある気配。
しばらくして上の方に空いた穴から、光と共に赤い髪が見えるはずだった。
夢はいつも勝手に場面を変える。苦しい記憶も、知らない景色も、私の意思とは関係なく連れてくる。だから今度も、次の場面へ行けば、彼がいるのではないかと思ってしまった。
けれど、次の場面が来ない。
夢が切り替わらない。
闇の底で、ただ息だけが荒くなる。
「……まって! 終わらないで!」
自分の叫び声で目が覚めた。
体が弾かれるように起き上がる。
光が眩しい。
もう、空はすっかり明るい。
窓の向こうで鳥の声がして、遠くで鐘が鳴っていた。
起きる時間だった。
「リシェリア様!?」
私の声を聞いて、控えからラファが飛び込んでくる。心配そうに、ベッド脇に駆け寄った。
「あ……大丈夫。大丈夫。いつものじゃないの」
私は手を振って、笑ってみせた。声が乾いて少し掠れていた。
ラファはそれ以上何も言わず、傍机の水差しから水を注いで、私に差し出してくれた。私の微笑の方を信じきれないように、心配そうな顔で見守っている。
最近、悪夢を見る頻度は減ってきた。
あの、息が詰まるような夢。
力を暴走させた記憶、血と涙の景色――それらはもう、ほとんど現れない。
見たとしてもほんの一瞬。切り替わって、すぐに目が覚める。現実と夢の境界が曖昧だったあの頃とは違う。罪の場面に辿り着く前に、夢が終わっていた。
……どうにか過去と戦おうと思えば思うほど、夢の方が遠ざかっていく。
これが“乗り越えた”ということなのだろうか。
セランたちが瓦礫に飲まれる恐ろしい場面も、そのあとに広がる血の流れも、何も見ていない。心臓も速く打っていない。
恐怖はなかった。ただ、それよりも強く胸を占めているものがあった。
頬に一筋の雫が伝っていた。
……夢ですら、セランに会えない。
セランを含む遠征隊が国境の街に進んでから、もう一月半が過ぎようとしていた。干ばつ対策はもう終わったと聞いているのに、セランはまだ戻ってこない。
ジェスが伝えてくれる近況は、いつもどこか軽やかだ。
「駐留して、別の仕事をしているらしいです。国境城壁で起きた事件を、猟師の経験で解決したとかで。辺境警備の臨時指南役に取り立てられたそうですよ!」
そんなふうに、冗談めかして言う。
「お手柄ですよね! それで、辺境伯がセランさんのこと気に入って、あれもこれもって放してくれないらしいです」
彼の優しい気遣いが、遠さを際立たせた。
私が心配しすぎないように、明るい形に整えてから渡してくれる。……だからこそ、その言葉の奥にある距離が、余計にはっきりした。軽くしなければならないほど、遠いのだと思ってしまう。
軍務には報告や交代の伝令もあるはずなのに。
セランも交代の時期になれば、一度くらい戻ってきてもいいのに。
なのに――帰ってこない。
「……あ、そろそろこの苗は添え木をつけましょうか」
ジェスが示した苗に目をやる。それはセランが用意して、発芽させたものだった。指先で触れると、しなやかに揺れる。もう膝丈まで伸びて、夏を待っている。細い茎の青さが、彼のいない時間だけを吸い上げて、静かに伸びているようだった。
「ジェス。食堂から堆肥に回す分が来てるぞ」
入り口から声がして、カイルが姿を見せる。腕にかけた雑嚢を軽々と下ろし、庭の隅に置く。
「ありがとうございます」
ジェスが礼を言うと、カイルは軽く手を振って笑った。
最近は、たまにカイルも庭を手伝ってくれる。水やりの加減を尋ねたり、剪定の手順を確かめたり。静かな午前の光の中に、ふたりの影が並ぶ。
カイルの手つきは丁寧だった。わからないことはジェスに尋ね、勝手に決めず、私の大切な場所を荒らさないように気をつけてくれている。
それは嬉しい。ちゃんと、嬉しい。
それでも、足りない。
風に混じる土の匂い。花の間をすり抜ける光。そこに、もうセランの痕跡は少なくなっていた。彼が用意した堆肥は使い切って、もう残っていない。
乾かした花は、もう香りが薄い。珍しい種を入れていた小袋も空になった。小さな菓子の包み紙だけが、畳み直されて道具箱の隅に残っている。捨てればいいのに、捨てられなかった。
……そこに残っているのは、菓子ではなく、セランがどこかで私を思い出して選んだ時間だから。
短い伝言を頼んでも、返事はない。
セランが兵士になる前に、訓練所で三月離れてた時は手紙をくれてたのに。
あの時セランは覚えたての字で、汚くて。でも練習になるからって、たくさん文字を書いてくれた。
訓練の内容とか出来事の羅列は、ほとんど走り書きで大したことは書いてなかったけれど、その先の生活が見えたから不安はなかった。
遠征のあいまに駐屯地から会いに帰ってくることもない。
先日、そろそろセランとの休みも取れるんじゃないかと、サフィアからアスティに聞いてもらった。
「流石に、遠隔地にいるからね。戻り次第手配してあげるから我慢して」
決まり悪そうなアスティの答えが返ってきただけだった。
その顔を見ると、嫌な不安がこみ上げる。
「じゃあ。いつ帰ってくるの? ……怪我したり寝込んでいたりしないよね」
「大丈夫、そんな話は出てない。他の兵からの報告でも、あいつはピンピンしていたって」
帰ってきている人はいる。
アスティは、その労務が大きな計画で、一定期間ごとに物資や補給と共に人員も交代していることを説明してくれた。
「……勿論、所定の任期は過ぎてるし、戻っていい許可は出してるんだけど。……現地の責任者からは、別の任務に徴用した為まだ返せない。本人の意向もあると報告が来てるのよ」
”本人の意向”
その言葉が、耳の奥に残った。
戻れないのではなく、戻らない。
……本当かな。
嫌な記憶が這い上がる。
『セランは来れない』
『もう君に会いたくないと言ってる』
かつて、優しい顔と声で、そう言う人たちがいた。
セランと会えない状況に引き離されて、その裏で手紙を握りつぶされたり、セランがいじめられていたりした事もある。
その時は長くても数日くらいで、セランは必ず迎えにきてくれた。怪我したり、手を血で汚したりしていることもあった。
いつもこう言っていた。
『俺が黙って置いてったりするわけないだろ』
アスティが嘘を言うはずない。
でも、本当に。私が待っていることを、彼はもう必要としていなかったら。
……ラトリエの前の外遊直後。
セランが荒れていた事があった。庭の小屋の扉や椅子を壊して、落ち込んでいたあの日。
セランが言っていた言葉が胸を刺す。
『俺は、ここ出て行くって言ったらどうする』
『おまえは、ここに残るべきじゃねぇの』
セランは、シルヴィナスなら私を置いていっても大丈夫だと思っているのかもしれない。
…………。
庭は、変わらず息づいているのに。その中心にいたはずの“気配”だけが、少しずつ、薄れていく。
私は立ち尽くして、青く伸びた苗を見つめた。
心のどこかで、まだ彼がここにいると信じてしまう。
けれど、風が吹くたびに、残り香のようにその痕跡が遠のいていく気がした。




