聖女の迷い、少女の想い
国境近く。乾いた土地。
卓上には、地図だけでなく、細かな書き込みの入った薄紙が何枚も重ねられていた。赤い線は水路予定地、青い点は既存の井戸、緑の印は植樹候補地。分霊樹の位置を示す小さな印だけが、地図の端に孤立するように置かれている。その周囲に、兵士と人足の数、馬車の台数、運ぶべき道具の一覧が、几帳面な文字で並んでいた。
地図の上に描かれた国境線を見つめるだけで、砂を巻き上げる風が脳裏を過った。ひび割れた土、白く霞む地平線、焼けた空気。まだ見たこともない場所なのに、不思議とそんな光景が思い描けてしまう。
ラトリエで覚えているのは、肌に貼りつく湿り気と、雨に押し潰されるような空だった。けれど今、地図の上のその土地から立ち上がるのは、まるで逆の感触だった。水がないというだけで、こんなにも息の仕方がわからなくなるのかと、まだ行ってもいない場所に喉の奥を乾かされる。
遠い。――今までの中でも、特に遠くて、滞在期間も長い。三週ほどの労務に、現地までの往復時間。ほとんど一月をまたぐほどの不在になるらしい。
その任務の参加者名簿の中に、セランの名前が記されていた。
名簿の他の文字は、任務の情報として目に入った。所属、階級、人数、担当。けれどその名前だけは、情報ではなく、私の内側へ直接落ちてきた。指先が紙の端に触れたまま止まり、目を逸らしても、白い紙の上に残った黒い綴りだけが瞼の裏に残る。
その名前の綴りを見ただけで、不安が喉につかえた。
部屋には、紙と乾いた茶葉の匂いが満ちていた。壁際の書棚には分厚い資料が隙間なく並び、窓辺に置かれた小さな鉢植えだけが、固い部屋の中でわずかに柔らかい色をしている。カイルの茶器は白磁で、縁が薄く、彼が指を添えるたびに小さな音を立てた。その静けさの中で、私の声だけが少し浮いて聞こえた。
自分でも気づかないうちに、考えていたことがそのまま口から零れていく。
「あの、カイル」
「どうかした?」
「……ええと。私が、分霊樹に力を先に注ぎに行って、干ばつが起きる前に防いでしまうのは、どうでしょう」
言ってから、少しだけ後悔した。さっき、人の手で土地を支える手順を説明されたばかりなのに、私のやりたいことを押し通すのは我儘で、なんて子供っぽいのだろうと思う。だけど、今回は、私がしてしまいそうになったことの影響が大きくて、罪悪感もあって。聖女としてできることがあるならしたい。そう思っていた。
それは間違いなく本心だった。
けれど、それだけではないことも、自分ではわかっている。
セランが行くと聞いたから。
その事実が、私の考えを少しずつ歪めていた。
民のため。国のため。未来のため。そう言い換えれば正しい願いになる気がする。
けれど胸の奥にある一番小さくて、一番消せない感情は、ただ彼をそんな場所へ送りたくないというものだった。
カイルは茶器から視線を上げる。その視線が、一度だけ名簿の上を滑った。私がどの名前を見ているのか、たぶんそれだけでわかったのだと思う。けれど彼はそれを指摘しなかった。ただ茶器を置き、いつものように、私が逃げ込もうとした正しさの形だけを静かにほどいていく。
「うん? そうだね」
穏やかな声だった。責める響きはない。
「そういうのが簡単そうに思えるのか。でもそれは国を治めることと、ちょっと外れる」
やわらかな口調。けれど、その言葉には逃げ道がなかった。静かに現実を差し出してくる。
「大樹はシルヴィナスの国土だけど、国は大樹じゃない」
私は黙って耳を傾けた。
「大樹がなくとも生きられるように、人は生きなければならない。民が生活できるようにしなければならない」
その言葉は不思議だった。聖女になってから聞いてきた話とは少し違う。けれど間違っているとも思えない。
彼の言葉には、畑を耕す人や、水を運ぶ人や、家族を養う人たちの姿があった。
大樹ではなく、人を見ている。
「それに、根の定着前に過剰に力を注ぐと、土地側の自然な回復が育たない。新しい根が張ろうとしている時に、外から力で満たしすぎれば、根は自分で水を探さなくなる。土地も、人も、同じだよ」
私は息を呑んだ。
土地も、人も。同じ。
その考え方は、どこか異能の使い方にも似ている気がした。
「……でも、ラトリエの時は」
思わず言うと、カイルは頷いた。
「あれは違う。ラトリエは、君の癒しがなければもたなかった。人も土地も、すでに限界に近かった。だから応急処置が必要だったんだ」
あの時の光景が浮かぶ。
ラトリエの時、世界は水で満ちすぎていた。濡れた衣、泥に沈む靴、濁った水音、雨に削られていく声。人々は濡れながら、それでも渇いた目で助けを待っていた。あれは、もう手を伸ばさなければ崩れてしまう場所だった。
「だが今回は、まだ人の手で備えられる。水路を掘り、貯水を増やし、木を植え、根が定着するまで土地を支える時間がある」
カイルの声は穏やかだった。けれど甘さはない。
「奇跡は、最後の支えに近い。最初からそれを使えば、国は奇跡を待つようになる。水路を掘る前に祈り、備蓄を整える前に君を呼ぶ。そうなれば、人の側の備えが痩せる」
私は静かに目を伏せた。彼が見ているのは今ではない。
ずっと先だ。
目の前の苦しみを取り除くだけではなく、その先も人が歩いていけるように考えている。
それが、少し眩しかった。
……カイルは恋というたった一つの場所では隣にいるのに、それ以外では時々ずっと遠くにいる。
同じ机を挟んで向き合っているのに、見ている景色の高さが違う。
届かない。
けれど見上げてしまう。
「これは……王政や祭祀庁の考えとは違うから、ここだけの話だけど」
カイルが少しだけ声を落とした。
「大樹が枯れ落ちたとしても、国が成り立つようにしたいと思っている」
息が止まる。
すべては、大樹の恩寵のもとに。この国ではそれが当たり前だと思ってきた。
人々は大樹が失われるとは思っていないし、偉い人たちは、私がそれを救うものだと思っている。
だから、大樹が失われるという事は、彼らの世界が滅ぶほどの大事態に等しいのに。
私はシルヴィナスで育っていない。大樹を神様のようには信じてはいない。そして、カイルもそうだった。その考えは異端で、シルヴィナス王国の信仰に根ざしていない。
だけど、それでも。
私は、カイルも大樹を神のように崇めてはいなくても、“そこに在り続ける偉大な自然物”としては見ているのだと思っていた。そして、私がそれを癒すことにも期待しているのだと。
なのに彼は、その先を見ている。
大樹がなくなることも、私が救えない可能性も同じように考えていて、それでも人が生きていける国であるべきだと思っているんだ。
それは危うい思想のはずだった。
けれど不思議と、破壊ではなく祈りのように聞こえた。
呼吸を取り戻してふと気配を感じて見上げると、ヘンリクが銀盆を携え、新しい茶器を卓上へ置くところだった。
……聞いていたはず。そして、これはあんまり聞かれてはいけない考えのはず。
私は思わず彼を見上げた。
表情は変わらない。
視線も動かない。
何も聞いていない。
何も見ていない。
ヘンリクは、まるで平時と何も変わらない姿で、私の視線に動じることなく、優雅な所作で給仕を進めていく。
そんな私を見て、カイルが口元へ指を立てた。
秘密。
その仕草だけで伝わった。
またひとつ、カイルと私のあいだに、外へ出せない話が増えてしまった。胸の奥に小さな灯がともる。その温かさが少し怖かった。
「だから、この状態くらいなら、よほどでなければ君が行く必要はないかな」
カイルは話を戻し、茶をひと口飲んだ。静かな所作だった。
「そもそも歴代の聖女は、現地へ行って力を注ぎ、すぐに土地を治すなんてことは普通できないんだよ」
視線をカップへ落としたまま続ける。
「ずっと、人の力で治めてきたんだ」
人の力。
神でも奇跡でもなく、積み重ねられてきた営み。
私は胸に手を当てる。
彼の言葉がゆっくりと沈んでいく。
聖女である前に、人でいなければならない。
そんなふうに言われた気がした。
だから私は頷く。
行かない。
行って、すべてを私の力で覆い隠してしまわない。
そう決めることも、きっと聖女の仕事なのだと思う。
カイルの言葉は、ちゃんと理解できた。私の中の聖女は、それを正しいと思った。
民のため。
国のため。
未来のため。
そう並べても、卓上の地図に描かれた国境の街は、やはり遠くて。
私の中のもっと小さな場所では、まだセランの名前だけが残っていた。




