閑話 幕営の夜語り
俺自身の長期遠征が始まる少し前のことだった。
翌日の帰城を控えた、グラント様率いる大隊の幕営地へ、俺は伝令として走らされていた。
王城からそう遠くない中継地点。軍の幕営地は、どこか祭りの前夜みたいな熱気に包まれていた。風に乗って届くのは酒精の匂いと笑い声。焚火の煙が夜気に混じり、幾つもの天幕の間を漂っている。
「明日、解散したらそのまま飲みに行こうぜ。奢るからさ」
「代わりにそのまま泊めろって言うんだろ?」
あちこちでそんな声が飛び交う。こいつらは明日、久しぶりに王都へ戻る帰還兵だ。家族の顔が見られる。馴染みの酒場にも行ける。そういう高揚を隠そうともしていない。
……俺も遠征帰りはこんな顔をしてるんだろうな。
そんなことを考えながら、俺はグラント様の天幕を探して歩いていた。
グラント様は、隣国カルナーンの部族代表との会談を終えて帰還されるところだった。
カルナーンは、王国の南西に広がる草原地帯の連合国家だ。王はいるが、それだけでは話が終わらない。大きな決定には、有力部族の承認が必要になる。
今回来るのも王本人ではなく、部族長たちを束ねる代表団だと聞いている。
軍馬の取引だとか、交易路の話だとか、北の情勢だとか。詳しいことは知らない。ただ、総長自ら数日城を空けていたのだから、相応に大事な話だったのだろう。
その代表団が明日、王城を訪れる。
そのせいで、グラント様率いる部隊の帰城経路が変更になった。王城の正門は来賓の出迎えと儀礼警備で使われるため、大隊規模の帰還部隊を同時に通すわけにはいかないらしい。
その連絡を届けるために、俺は王城からここまで、ほとんど飛ぶように駆けてきた。
「あの話の続き、聞かせろよ!」
「……アイラとはどうなってんだ?」
「嫁の親父がさ、金が必要でよ……」
誰かが女の名を呼び、誰かが故郷の町を語る。賭場の話で盛り上がる奴もいる。みんな明日を楽しみにしている。その浮かれた空気は嫌いじゃない。
「あ? セランじゃねーか。お前配置されてたか?」
「違う違う、今来た」
「セラン、ついでにお前も来いよ! マリーが会いたがってんだよ。『連れて来い』って」
飲み屋で会った女か。誰かの連れだった気がする。顔も覚えていない。別に行ってもいいが、今は任務中だ。
「今、急いでんだよ。後でな!」
引き止められる前に歩調を速める。
まったく気が緩みすぎだろ。幹部天幕の近くなんだぞ。
呆れながら視線を巡らせると、目当てのイェルス家の紋章を掲げた一際大きな天幕が見えた。明かりに照らされたその紋は、夜の中でもよく目立つ。
俺は一度息を整えた。
「失礼致します。お時間よろしいでしょうか」
中から聞こえたのは、杯を置く音と衣擦れの気配。そして簡潔な返答。
「入れ」
もうここは公の場だ。姿勢を正して天幕へ入る。
中には地図や書類が並び、油灯の灯りが静かに揺れていた。無駄のない動きで前に進み、用件を伝える。帰城経路の変更。その理由。そして陛下からの労いと詫び。伝えるべきことを順に報告していく。
グラント様は話を聞きながら羊皮紙へ筆を走らせていた。迷いがない。進路変更に伴う指示を書き付けていくその手は実に滑らかだった。最後の文字を書き終えるまで、一度も止まらない。
「おい。これを各隊長に」
「はっ」
副官が命令書を受け取り、すぐさま天幕を飛び出していく。その背を見送ると、グラント様は手元の瓶から酒を注いだ。
「ふん……酔いの覚める話だ」
漂ってくる香りは高級な葡萄酒じゃない。俺たち兵士が飲むような安酒だ。
……こんなのも飲むんだな。
少し意外だった。
グラント様は帳簿や報告書へ最後の署名を終えると、ようやく肩の力を抜いた。外から聞こえる兵士たちの笑い声が、夜の空気と一緒に流れ込んでくる。遠征の終わり。それを実感させる音だった。
「お前は取って返すのか?」
「いえ。急なことでしたので、今からでは閉門に間に合いません。このままご一緒に帰城の隊に加わります」
「わかった。とは言え、この後は従事する任もなかろう。……せっかくだ、やっていけ」
グラント様は顎をしゃくって向かいの椅子を示した。
……断らない方がいいやつだな。
いや、ほぼ命令か。
強い相手の横では気楽に酔えない。だが仕方ない。黙って腰を下ろした。
こうして向かい合うのは、聖女婚約の件で呼び出された時以来だ。あの時は巨大な壁みたいな男に見えた。普段もそうだ。騎士団の頂点。筆頭公爵。祭祀庁と騎士団を束ねる男。
だがこうして向かい合うと、案外普通の人間にも見える。大きくて、分厚くて、威圧感はある。それでも今はどこか鷹揚で、酒を楽しむ余裕のある男の顔をしていた。
グラント様は自分の杯に酒を注ぎ、それから俺の杯も満たした。そして何気ない様子で観察してくる。
「お前でも女遊びを嗜むのだな」
……ああ。
やっぱり聞こえてたよな。
さっき外で話していた連中の会話。女の名前や酒場の話。浮かれた連中は本当に警戒心がない。とはいえ、こうして軽く茶化される程度で済むなら悪くない。
「聖女に操を立てているのかと」
グラント様が冗談めかして続ける。思わず吹き出した。
「“婚約者”を前に畏れ多い話です」
肩を竦める。もちろん本気で遠慮しているわけじゃない。グラント様もわかった上で言っている。だからこちらも正直に答える。
「腹が減れば食べて、喉が乾けば飲みますよ。普通に」
杯を揺らしながら言った。
実際、兵士連中と飲めば女が寄ってくることはある。俺も男だ。向こうから来るなら相手もする。だが特定の相手を作るつもりはない。必要ない。
……全部、繋ぎだ。
リシェと番う日までの。
リシェと繋がったなら、他の誰かで満たそうなんて思わない。それだけは確信できる。
「まあそうだな」
グラント様は頷いた。説教もない。妙に理解がある。
ああ、この人とは案外気が合うかもしれない。カイルみたいに理屈で人を切り分ける感じがない。肩の力を抜いて話せる。
俺は少しだけ椅子の背に身を預けた。
「それなりに場数をこなしていないと、狩り本番で弓を引けないと困りますからね」
独り言みたいに呟く。
リシェ……リシェリアは最高の獲物だ。大事に育てて、丁寧に導いて、美しく手に入れたい。だからこそ、自分の道具は常に磨いておきたい。
「ほう? すでに手中に収めていたのではなかったのか」
グラント様が面白そうに返してくる。その顔は女好きの男の顔だった。
少しだけ目を細める。
勝手に想像するのは構わない。だが見せる気はない。
「痩せてる獲物を焦って射落とそうとは思いませんね。だから……まるまる太らせている最中なんですよ」
俺がそれをはっきり自覚した時期、あの頃のリシェは……酷かった。悪夢や迫害に怯えて、痩せて、苦しんでいた。そんな時に自分勝手に欲望を向けることなんてできなかった。
リシェは俺の宝だ。愛している。だから大切に扱いたい。
「ふ、確かに。だがまあ、そろそろ食べられる頃合いになったんではないのか?」
……今、値踏みしたな。
胸の奥に少しだけ引っかかる。飲みの席の猥雑な馬鹿話ではあるけれど、他人の口からあれこれ品評されるのは、どうにも面白くない。
だからやり返すことにした。
「それを言ったら総長こそ」
口元に笑みを浮かべる。
「こと“じゃじゃ馬”に関しては、まだ手綱も掴んではないのでは?」
一瞬。
グラント様の手が止まった。ほんのわずかだが、動揺が見えた。だがすぐに平静へ戻る。
……痛かったんだな。
そう思うと少し面白い。今夜の酒は悪くない。
「リシェは余計なものを引き寄せすぎるんです」
そうして俺は話し始めた。
出会い。暮らし。別れ。再会。放浪。
語るたびに、森の匂いまで蘇ってくる気がした。薪の煙。濡れた土。犬の毛並みやあの頃の生活。
村では異端扱いされていたが、家の中だけは平和だった。だが外へ出れば違う。リシェの力は人を惹き寄せる。男も女も。老いも若きも。灯火へ群がる虫みたいに。
そんな中で俺は彼女を守ってきた。守ると決めていた。だが限界もある。だから王都へ来た。騎士団へ入った。全部その延長だ。
話が静かに途切れかけた時だった。
「しかし、聖女がその女司祭に迫られていた話はもっと聞きたいな」
グラント様が茶化した。
空気を重くしないための冗談だ。否定もしない。正直、この人は悪い人じゃない。
「同性だと、アイツもどうしても油断が出ますんでね……なかなかの絵でした」
思い返す。
……確かに大概だった。
「絵で記せ。そこに」
グラント様が少し前のめりになる。その目は妙に真剣だ。思わず笑いそうになる。
「いや、本当に見たいものだな。アスティに絡ませて画家を呼び……いや、すまない」
少ししてグラント様は自分でも可笑しくなったのか、小さく笑った。
「いやぁ。……見たいですね」
俺もつられて笑う。こんな軽口を交わせる相手は多くない。
やがて話題は自然とアスティへ移った。グラント様は彼女のことを語る時だけ、どこか違う顔になる。
「あやつは確かに、華やかさや可憐さといった、社交界に咲く花ではないが……正真正銘、貴き樹から生まれた枝だ。青く、瑞々しい若木のようにまっすぐで、気品と血統を備えている」
随分と詩的だ。さすが貴族だなと思う。言葉の選び方が上手い。
「かといって、花に劣るわけではない。とりわけ――脚が良い」
……俺は何を聞かされ始めた?
「他の女と違って、脚を隠さない。腿のラインは、鍛えられた美しさがある」
脚が好きだと……そうか。少し呆れる。
「気性は気まぐれで、気儘だ。だが難解ではない。まっすぐで、速い。……そこがいい」
そこは少し共感した。
リシェにも似たところがある。
「道端の麗しい花は、たまに愛でるには良い。だが、共に道を行くには、背を預け合える相棒の方が良い。……私のようなものにはな」
最後にそう締めくくる。
筋は通っていた。
全部同意するわけじゃない。だが嫌な気持ちにはならない。本当に恋なのかどうかも知らない。アスティが応えるかどうかも彼女次第だ。
ただ――グラントの良いところは、きちんと伝えてやるべきだろう。
それが、今夜この席に座った俺なりの礼のつもりだった。
次章からしばらくセランの主軸になります




