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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
18章 模索
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閑話 幕営の夜語り

俺自身の長期遠征が始まる少し前のことだった。


翌日の帰城を控えた、グラント様率いる大隊の幕営地へ、俺は伝令として走らされていた。


王城からそう遠くない中継地点。軍の幕営地は、どこか祭りの前夜みたいな熱気に包まれていた。風に乗って届くのは酒精の匂いと笑い声。焚火の煙が夜気に混じり、幾つもの天幕の間を漂っている。


「明日、解散したらそのまま飲みに行こうぜ。奢るからさ」


「代わりにそのまま泊めろって言うんだろ?」


あちこちでそんな声が飛び交う。こいつらは明日、久しぶりに王都へ戻る帰還兵だ。家族の顔が見られる。馴染みの酒場にも行ける。そういう高揚を隠そうともしていない。


……俺も遠征帰りはこんな顔をしてるんだろうな。


そんなことを考えながら、俺はグラント様の天幕を探して歩いていた。


グラント様は、隣国カルナーンの部族代表との会談を終えて帰還されるところだった。


カルナーンは、王国の南西に広がる草原地帯の連合国家だ。王はいるが、それだけでは話が終わらない。大きな決定には、有力部族の承認が必要になる。


今回来るのも王本人ではなく、部族長たちを束ねる代表団だと聞いている。


軍馬の取引だとか、交易路の話だとか、北の情勢だとか。詳しいことは知らない。ただ、総長自ら数日城を空けていたのだから、相応に大事な話だったのだろう。


その代表団が明日、王城を訪れる。


そのせいで、グラント様率いる部隊の帰城経路が変更になった。王城の正門は来賓の出迎えと儀礼警備で使われるため、大隊規模の帰還部隊を同時に通すわけにはいかないらしい。


その連絡を届けるために、俺は王城からここまで、ほとんど飛ぶように駆けてきた。


「あの話の続き、聞かせろよ!」


「……アイラとはどうなってんだ?」


「嫁の親父がさ、金が必要でよ……」


誰かが女の名を呼び、誰かが故郷の町を語る。賭場の話で盛り上がる奴もいる。みんな明日を楽しみにしている。その浮かれた空気は嫌いじゃない。


「あ? セランじゃねーか。お前配置されてたか?」


「違う違う、今来た」


「セラン、ついでにお前も来いよ! マリーが会いたがってんだよ。『連れて来い』って」


飲み屋で会った女か。誰かの連れだった気がする。顔も覚えていない。別に行ってもいいが、今は任務中だ。


「今、急いでんだよ。後でな!」


引き止められる前に歩調を速める。


まったく気が緩みすぎだろ。幹部天幕の近くなんだぞ。


呆れながら視線を巡らせると、目当てのイェルス家の紋章を掲げた一際大きな天幕が見えた。明かりに照らされたその紋は、夜の中でもよく目立つ。


俺は一度息を整えた。


「失礼致します。お時間よろしいでしょうか」


中から聞こえたのは、杯を置く音と衣擦れの気配。そして簡潔な返答。


「入れ」


もうここは公の場だ。姿勢を正して天幕へ入る。


中には地図や書類が並び、油灯の灯りが静かに揺れていた。無駄のない動きで前に進み、用件を伝える。帰城経路の変更。その理由。そして陛下からの労いと詫び。伝えるべきことを順に報告していく。


グラント様は話を聞きながら羊皮紙へ筆を走らせていた。迷いがない。進路変更に伴う指示を書き付けていくその手は実に滑らかだった。最後の文字を書き終えるまで、一度も止まらない。


「おい。これを各隊長に」


「はっ」


副官が命令書を受け取り、すぐさま天幕を飛び出していく。その背を見送ると、グラント様は手元の瓶から酒を注いだ。


「ふん……酔いの覚める話だ」


漂ってくる香りは高級な葡萄酒じゃない。俺たち兵士が飲むような安酒だ。


……こんなのも飲むんだな。


少し意外だった。


グラント様は帳簿や報告書へ最後の署名を終えると、ようやく肩の力を抜いた。外から聞こえる兵士たちの笑い声が、夜の空気と一緒に流れ込んでくる。遠征の終わり。それを実感させる音だった。


「お前は取って返すのか?」


「いえ。急なことでしたので、今からでは閉門に間に合いません。このままご一緒に帰城の隊に加わります」


「わかった。とは言え、この後は従事する任もなかろう。……せっかくだ、やっていけ」


グラント様は顎をしゃくって向かいの椅子を示した。


……断らない方がいいやつだな。


いや、ほぼ命令か。


強い相手の横では気楽に酔えない。だが仕方ない。黙って腰を下ろした。


こうして向かい合うのは、聖女婚約の件で呼び出された時以来だ。あの時は巨大な壁みたいな男に見えた。普段もそうだ。騎士団の頂点。筆頭公爵。祭祀庁と騎士団を束ねる男。


だがこうして向かい合うと、案外普通の人間にも見える。大きくて、分厚くて、威圧感はある。それでも今はどこか鷹揚で、酒を楽しむ余裕のある男の顔をしていた。


グラント様は自分の杯に酒を注ぎ、それから俺の杯も満たした。そして何気ない様子で観察してくる。


「お前でも女遊びを嗜むのだな」


……ああ。


やっぱり聞こえてたよな。


さっき外で話していた連中の会話。女の名前や酒場の話。浮かれた連中は本当に警戒心がない。とはいえ、こうして軽く茶化される程度で済むなら悪くない。


「聖女に操を立てているのかと」


グラント様が冗談めかして続ける。思わず吹き出した。


「“婚約者”を前に畏れ多い話です」


肩を竦める。もちろん本気で遠慮しているわけじゃない。グラント様もわかった上で言っている。だからこちらも正直に答える。


「腹が減れば食べて、喉が乾けば飲みますよ。普通に」


杯を揺らしながら言った。


実際、兵士連中と飲めば女が寄ってくることはある。俺も男だ。向こうから来るなら相手もする。だが特定の相手を作るつもりはない。必要ない。


……全部、繋ぎだ。


リシェと番う日までの。


リシェと繋がったなら、他の誰かで満たそうなんて思わない。それだけは確信できる。


「まあそうだな」


グラント様は頷いた。説教もない。妙に理解がある。


ああ、この人とは案外気が合うかもしれない。カイルみたいに理屈で人を切り分ける感じがない。肩の力を抜いて話せる。


俺は少しだけ椅子の背に身を預けた。


「それなりに場数をこなしていないと、狩り本番で弓を引けないと困りますからね」


独り言みたいに呟く。


リシェ……リシェリアは最高の獲物だ。大事に育てて、丁寧に導いて、美しく手に入れたい。だからこそ、自分の道具は常に磨いておきたい。


「ほう? すでに手中に収めていたのではなかったのか」


グラント様が面白そうに返してくる。その顔は女好きの男の顔だった。


少しだけ目を細める。


勝手に想像するのは構わない。だが見せる気はない。


「痩せてる獲物を焦って射落とそうとは思いませんね。だから……まるまる太らせている最中なんですよ」


俺がそれをはっきり自覚した時期、あの頃のリシェは……酷かった。悪夢や迫害に怯えて、痩せて、苦しんでいた。そんな時に自分勝手に欲望を向けることなんてできなかった。


リシェは俺の宝だ。愛している。だから大切に扱いたい。


「ふ、確かに。だがまあ、そろそろ食べられる頃合いになったんではないのか?」


……今、値踏みしたな。


胸の奥に少しだけ引っかかる。飲みの席の猥雑な馬鹿話ではあるけれど、他人の口からあれこれ品評されるのは、どうにも面白くない。


だからやり返すことにした。


「それを言ったら総長こそ」


口元に笑みを浮かべる。


「こと“じゃじゃ馬”に関しては、まだ手綱も掴んではないのでは?」


一瞬。


グラント様の手が止まった。ほんのわずかだが、動揺が見えた。だがすぐに平静へ戻る。


……痛かったんだな。


そう思うと少し面白い。今夜の酒は悪くない。


「リシェは余計なものを引き寄せすぎるんです」


そうして俺は話し始めた。


出会い。暮らし。別れ。再会。放浪。


語るたびに、森の匂いまで蘇ってくる気がした。薪の煙。濡れた土。犬の毛並みやあの頃の生活。


村では異端扱いされていたが、家の中だけは平和だった。だが外へ出れば違う。リシェの力は人を惹き寄せる。男も女も。老いも若きも。灯火へ群がる虫みたいに。


そんな中で俺は彼女を守ってきた。守ると決めていた。だが限界もある。だから王都へ来た。騎士団へ入った。全部その延長だ。


話が静かに途切れかけた時だった。


「しかし、聖女がその女司祭に迫られていた話はもっと聞きたいな」


グラント様が茶化した。


空気を重くしないための冗談だ。否定もしない。正直、この人は悪い人じゃない。


「同性だと、アイツもどうしても油断が出ますんでね……なかなかの絵でした」


思い返す。


……確かに大概だった。


「絵で記せ。そこに」


グラント様が少し前のめりになる。その目は妙に真剣だ。思わず笑いそうになる。


「いや、本当に見たいものだな。アスティに絡ませて画家を呼び……いや、すまない」


少ししてグラント様は自分でも可笑しくなったのか、小さく笑った。


「いやぁ。……見たいですね」


俺もつられて笑う。こんな軽口を交わせる相手は多くない。


やがて話題は自然とアスティへ移った。グラント様は彼女のことを語る時だけ、どこか違う顔になる。


「あやつは確かに、華やかさや可憐さといった、社交界に咲く花ではないが……正真正銘、貴き樹から生まれた枝だ。青く、瑞々しい若木のようにまっすぐで、気品と血統を備えている」


随分と詩的だ。さすが貴族だなと思う。言葉の選び方が上手い。


「かといって、花に劣るわけではない。とりわけ――脚が良い」


……俺は何を聞かされ始めた?


「他の女と違って、脚を隠さない。腿のラインは、鍛えられた美しさがある」


脚が好きだと……そうか。少し呆れる。


「気性は気まぐれで、気儘だ。だが難解ではない。まっすぐで、速い。……そこがいい」


そこは少し共感した。


リシェにも似たところがある。


「道端の麗しい花は、たまに愛でるには良い。だが、共に道を行くには、背を預け合える相棒の方が良い。……私のようなものにはな」


最後にそう締めくくる。


筋は通っていた。


全部同意するわけじゃない。だが嫌な気持ちにはならない。本当に恋なのかどうかも知らない。アスティが応えるかどうかも彼女次第だ。


ただ――グラントの良いところは、きちんと伝えてやるべきだろう。


それが、今夜この席に座った俺なりの礼のつもりだった。

次章からしばらくセランの主軸になります

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