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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
19章 望郷
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越境

翌朝、まだ暗い時分に宿の前まで迎えに行くと、不寝番の警護兵が待っていた。昨夜伝えた時刻とグラント様の命令を確認し、リシェを俺へ預ける。


人の少ない町の通りを抜け、目当ての丘へ向かった。町からも駐屯地からも、そう遠くない場所だ。


日が昇る直前。夜と朝のあいだに横たわる、静けさの境目。


まだ眠りの余韻を抱いた空気が、肺の奥までひんやりと沁みる。空は深い群青と墨のような灰の境を残し、地平線の向こうだけがわずかに白み始めていた。草には夜露が残り、踏むたびに靴底がしっとりと湿る。土と草の匂いが混ざり合い、どこか懐かしかった。


リシェと歩くこの時間が、たまらなく静かで、同時に息苦しい。


「よし。あっちから日が昇る。しばらく待とう」


「ん」


丘へ着き、腰掛けるのにちょうどいい平たい石へ敷布を広げて示した。


俺はその隣へ座り、暖を取れるよう小さな焚火を作ろうと、手荷物を広げかける。


その前に、リシェが何のためらいもなく俺のマントの内側へ滑り込んできた。まるで最初から、そこが自分の定位置だと知っているかのように。


「おい。火を起こすのに邪魔なんだけど」


「いらないよ。すぐ日が昇るし、風よけがいるから寒くない」


風よけって、俺のことかよ。


「そうじゃなくて」


そうじゃなくても、駄目だろ。


そんな制止の言葉が喉まで出かかったが、口にはできなかった。


町外れの丘には人影がない。それでも、リシェは他人の婚約者だ。そうでなくても、成人した男女がこんな距離で寄り添うのは、どう考えても間違っている。


なのに、こいつはわかっていてやっているんじゃないか。いや、わかっていないふりをして、俺に甘えているんじゃないか。


昔から、抜け道の作り方だけは天才的だった。


俺は諦めるように息を吐き、何も言わず、その身体をマントごと包み込んでいた。


「やっと、聞ける」


そう呟くと、リシェは俺の胸へ耳をつけ、目を閉じた。


ああ、そうか。


離れていたあいだ、心臓の音を聞かせてやれなかった。昨日再会してからも、落ち着いて聞かせる時間はなかった。


こいつが本当に求めていたのは、俺が生きているという確かな音だった。


肩越しに伝わる体温が、ゆっくりと胸の奥へ溶け込んでくる。二人のあいだにあった温度の境が薄れ、呼吸の律動まで重なっていくのがわかった。


だから俺も、いつもの言葉を返す。


「ああ。俺は生きてるよ」


そしてお前と一緒に生きている。

そんな実感が、恐ろしく愛しく感じられた。


朝の色は静かに移り変わっていく。


黒から青へ、青から金へ。


空の端が、筆の水を垂らしたようにじわりと滲み、やがて世界を塗り替える。その光の変化を、言葉もなく並んで見つめた。


午後にはリシェは帰ることになっていて、俺は昼前には当番で戻らなければならない。

もうすぐ別れる時間が来ると分かっているから、沈黙が愛おしい。


「……恋しいって、辛いね。寂しくて苦しかった」


ぽつりと漏れた声は、露のように湿っていた。

吐息が俺の胸に触れるたび、そこが少し熱くなる。


「ようやく少し追いついたな」


茶化すみたいに軽く褒めてやると、リシェは視線を落とした。


「ねえ。これが……恋なの? これは、恋なの?」


俺は答えなかった。


俺の恋と、リシェの中にあるものは、きっとまだ同じではない。

俺がそうであってほしいと願っても、リシェ自身がそうだと思っていなければ、それは違うものになってしまう。

だから、ただ静かに笑って、そうであればいいと願うことしかできなかった。


俺に会うためだけにここまで来た、リシェの衝動が恋であると信じることしか。


「これが恋なら、しない方がいいんじゃない?」

 

リシェは目を開けて俺を見上げた。

真剣な瞳が、俺を見ようとしている。

恋がどういうものか、確かめようとする、必死な目。

人の噂や物語で語られる“甘く溺れる”恋よりも、

今のこいつの目には、苦しさの方が大きく映っているのだろう。


「選べたら誰も苦労しない」

 

軽く返して、頭を撫でた。

その髪は少し乾いていて、辺境の風の匂いがした。

恋は理屈じゃない。落ちたら最後、楽な道なんて残ってない。たとえ恋を捨てることを決めても苦痛を伴う。

それを教えるには、まだ早い気がして黙った。


「セランは、いつから恋してるの?」

 

唐突な問いに、言葉が喉で止まった。

 

――多分。最初からだ。

 

初めて見た時から、ずっと好きだった。いつか一緒になるのは決まったことだと思っていた。弟に譲るつもりもさらさらなくて、今だって、俺の伴侶だと固く信じている。


でも、それを今ここで言ったら何かが壊れる気がした。

その想いが単なる性の衝動なのか、それとも運命みたいなものなのか、自分でもわからない。

 

だから、黙る。


けれど、黙ったままでも次の矢が飛んでくる。


「私の、……どこが好きなの?」


……全部だ。

頭の先からつま先まで。

声も、仕草も、怒った顔も、泣き顔も。

全部見てきたのに、まだ飽きることがなく眩しい。

それなのに俺の中の何もかもが、リシェから目を離すなとうるさくて――目をそらせない。


言葉を探す間もなく、次の問いが重なる。


「どうして好きなの?」


――そこにいるから。

生きて、息をして、俺の目の前にいるから。


理由なんてあるか。


好きになったのは運命で、出会ってしまったからだ。

でも、そんな単純な答えを口にする勇気はなかった。


「あのさ。どうして今日はそんなにおしゃべりなんだよ?」


「セランが何も言わないから、そう聞こえるんでしょ」


「答える隙がないんだよ」


誤魔化すように言葉を投げる。

自分でも、声が低くなっているのがわかった。


「じゃ、……時間あげる」


「……」


そう言われても。

本当は何を言ったらいいかわからない。

何を言ってもいいのかわからない。


俺だって、本当はもう限界だ。

恋しくて、恋しくて。会いたかったことに気がついた。そして今、会えてしまったから。


揺らされたら、これ以上は抑えられない。

逸る想いが溢れてしまう。

前はリシェに恋が足りないなんて言って誤魔化した。でも俺だって足りてない。まだ、早い。まだ……早いはずだ。もっと功績が。立場が。


でも、こんなにリシェが俺を求めてくれているのに?俺を、探して手を伸ばしてくれたのに?


堪える。

答えていいのか?

応えてくれるのか?

そうじゃなきゃ、耐えきれない。


「……」


「…………」


地平線から差した最初の光が、リシェの横顔を淡く縁取った。夜の中では曖昧だった表情が、逃げ場もないほど鮮明になる。


「んもう。どうし――」


リシェが懲りずに、また口を開く。

考えを止めた俺の体は勝手に動いた。

言葉を遮るように、唇を塞いだ。


「!」


一瞬、世界が音を失った。

風も、鳥の声も、何もかも遠くへ消えていく。


ほんの少しだけ触れて、髪一本くらいだけ離した。それで終われるつもりだった。それで終わるべきだった。


これくらいの不意打ちは、俺にはとっくに許されているんだ。

今までに二回、リシェから唇にしてきたし、あの時、俺からしてもいいって許してくれたんだから。


俺たちの会話に言葉は必要ない。音を覚える前には、頬を擦り寄せて、野を走って、丸まって一緒に寝てきたんだから。


今だってこの想いは伝わっているはずだ。

俺たちはそうやって通じ合ってきた――そうだよな?


「……」


俺はリシェの瞳の水面の向こうを覗き見つめる。


「……!」


リシェは見つめ返して――戸惑いがほどけるようにかすかに笑った。


――それは俺の全てを許してくれているように見えた。


もう、止まらなかった。すぐに再び境界を合わせる。

今度はもう少しだけ先に。


1、2、3……

リシェの体が小さく固まるが、逃げる感じはない。

それだけで喜びが、胸に広がる。

もう少しだけ、触れていたい。

夢中になり過ぎないように、数字を浮かべた。


4、5、6……

リシェは不思議そうに瞬きをして、俺を見つめている。

その目に警戒は見えなかった。緊張する時の特有の匂いもない。拒絶を示す気配なんて微塵もない。

ただ、何をしているのかを確かめようとする、まっすぐな色だけがあった。


少しくらい恥じらえよ。

苦笑が、喉の奥でかすかに滲んだ。


見ていられなくて、俺の方が目を閉じてしまった。


なあ。……いつもと全然、違うだろ。


もっと触れたい。もっと近づきたい。

このまま、リシェの心の中にある答えを見つけたい。

俺が何をどれほど欲しがっているのか。

この距離を、どこまで近づけたいのか教えたい。


息も、理性も、そろそろ限界だった。


だめだ。口づけだけ。これ以上はしない。

これならまだ、立ち止まれる。日常にちゃんと戻らなきゃいけない。


一歩、進めてしまった。


踏み越えた一線を、もうなかったことにはできない。

なかったことになんて絶対にしない。

それでも、これ以上先へ行くわけにはいかなかった。

 

ゆっくりと唇を離した。


「……っ」


離れた瞬間、現実の空気が一気に流れ込んでくる。


リシェはうまく呼吸ができなかったのか、頬を紅潮させていた。その顔を見ていると、また胸の奥へ火がつきそうになる。


リシェは唇へ指を触れようとして、途中でやめた。

何かを尋ねたそうに俺を見たが、結局、言葉にはしなかった。


俺は天を仰ぎ、深く息を吸い込んだ。


自分がずっとしてきた、兄のような顔へ戻るために。


そうでもしなければ、このまま、もう一度手を伸ばしてしまいそうだった。


……よかった、止められた。


ちゃんと、ここで離せた。

胸の奥に残る熱を持て余しながらも、その事実だけで、自分はまだ大丈夫なのだと思えた。

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