越境
翌朝、まだ暗い時分に宿の前まで迎えに行くと、不寝番の警護兵が待っていた。昨夜伝えた時刻とグラント様の命令を確認し、リシェを俺へ預ける。
人の少ない町の通りを抜け、目当ての丘へ向かった。町からも駐屯地からも、そう遠くない場所だ。
日が昇る直前。夜と朝のあいだに横たわる、静けさの境目。
まだ眠りの余韻を抱いた空気が、肺の奥までひんやりと沁みる。空は深い群青と墨のような灰の境を残し、地平線の向こうだけがわずかに白み始めていた。草には夜露が残り、踏むたびに靴底がしっとりと湿る。土と草の匂いが混ざり合い、どこか懐かしかった。
リシェと歩くこの時間が、たまらなく静かで、同時に息苦しい。
「よし。あっちから日が昇る。しばらく待とう」
「ん」
丘へ着き、腰掛けるのにちょうどいい平たい石へ敷布を広げて示した。
俺はその隣へ座り、暖を取れるよう小さな焚火を作ろうと、手荷物を広げかける。
その前に、リシェが何のためらいもなく俺のマントの内側へ滑り込んできた。まるで最初から、そこが自分の定位置だと知っているかのように。
「おい。火を起こすのに邪魔なんだけど」
「いらないよ。すぐ日が昇るし、風よけがいるから寒くない」
風よけって、俺のことかよ。
「そうじゃなくて」
そうじゃなくても、駄目だろ。
そんな制止の言葉が喉まで出かかったが、口にはできなかった。
町外れの丘には人影がない。それでも、リシェは他人の婚約者だ。そうでなくても、成人した男女がこんな距離で寄り添うのは、どう考えても間違っている。
なのに、こいつはわかっていてやっているんじゃないか。いや、わかっていないふりをして、俺に甘えているんじゃないか。
昔から、抜け道の作り方だけは天才的だった。
俺は諦めるように息を吐き、何も言わず、その身体をマントごと包み込んでいた。
「やっと、聞ける」
そう呟くと、リシェは俺の胸へ耳をつけ、目を閉じた。
ああ、そうか。
離れていたあいだ、心臓の音を聞かせてやれなかった。昨日再会してからも、落ち着いて聞かせる時間はなかった。
こいつが本当に求めていたのは、俺が生きているという確かな音だった。
肩越しに伝わる体温が、ゆっくりと胸の奥へ溶け込んでくる。二人のあいだにあった温度の境が薄れ、呼吸の律動まで重なっていくのがわかった。
だから俺も、いつもの言葉を返す。
「ああ。俺は生きてるよ」
そしてお前と一緒に生きている。
そんな実感が、恐ろしく愛しく感じられた。
朝の色は静かに移り変わっていく。
黒から青へ、青から金へ。
空の端が、筆の水を垂らしたようにじわりと滲み、やがて世界を塗り替える。その光の変化を、言葉もなく並んで見つめた。
午後にはリシェは帰ることになっていて、俺は昼前には当番で戻らなければならない。
もうすぐ別れる時間が来ると分かっているから、沈黙が愛おしい。
「……恋しいって、辛いね。寂しくて苦しかった」
ぽつりと漏れた声は、露のように湿っていた。
吐息が俺の胸に触れるたび、そこが少し熱くなる。
「ようやく少し追いついたな」
茶化すみたいに軽く褒めてやると、リシェは視線を落とした。
「ねえ。これが……恋なの? これは、恋なの?」
俺は答えなかった。
俺の恋と、リシェの中にあるものは、きっとまだ同じではない。
俺がそうであってほしいと願っても、リシェ自身がそうだと思っていなければ、それは違うものになってしまう。
だから、ただ静かに笑って、そうであればいいと願うことしかできなかった。
俺に会うためだけにここまで来た、リシェの衝動が恋であると信じることしか。
「これが恋なら、しない方がいいんじゃない?」
リシェは目を開けて俺を見上げた。
真剣な瞳が、俺を見ようとしている。
恋がどういうものか、確かめようとする、必死な目。
人の噂や物語で語られる“甘く溺れる”恋よりも、
今のこいつの目には、苦しさの方が大きく映っているのだろう。
「選べたら誰も苦労しない」
軽く返して、頭を撫でた。
その髪は少し乾いていて、辺境の風の匂いがした。
恋は理屈じゃない。落ちたら最後、楽な道なんて残ってない。たとえ恋を捨てることを決めても苦痛を伴う。
それを教えるには、まだ早い気がして黙った。
「セランは、いつから恋してるの?」
唐突な問いに、言葉が喉で止まった。
――多分。最初からだ。
初めて見た時から、ずっと好きだった。いつか一緒になるのは決まったことだと思っていた。弟に譲るつもりもさらさらなくて、今だって、俺の伴侶だと固く信じている。
でも、それを今ここで言ったら何かが壊れる気がした。
その想いが単なる性の衝動なのか、それとも運命みたいなものなのか、自分でもわからない。
だから、黙る。
けれど、黙ったままでも次の矢が飛んでくる。
「私の、……どこが好きなの?」
……全部だ。
頭の先からつま先まで。
声も、仕草も、怒った顔も、泣き顔も。
全部見てきたのに、まだ飽きることがなく眩しい。
それなのに俺の中の何もかもが、リシェから目を離すなとうるさくて――目をそらせない。
言葉を探す間もなく、次の問いが重なる。
「どうして好きなの?」
――そこにいるから。
生きて、息をして、俺の目の前にいるから。
理由なんてあるか。
好きになったのは運命で、出会ってしまったからだ。
でも、そんな単純な答えを口にする勇気はなかった。
「あのさ。どうして今日はそんなにおしゃべりなんだよ?」
「セランが何も言わないから、そう聞こえるんでしょ」
「答える隙がないんだよ」
誤魔化すように言葉を投げる。
自分でも、声が低くなっているのがわかった。
「じゃ、……時間あげる」
「……」
そう言われても。
本当は何を言ったらいいかわからない。
何を言ってもいいのかわからない。
俺だって、本当はもう限界だ。
恋しくて、恋しくて。会いたかったことに気がついた。そして今、会えてしまったから。
揺らされたら、これ以上は抑えられない。
逸る想いが溢れてしまう。
前はリシェに恋が足りないなんて言って誤魔化した。でも俺だって足りてない。まだ、早い。まだ……早いはずだ。もっと功績が。立場が。
でも、こんなにリシェが俺を求めてくれているのに?俺を、探して手を伸ばしてくれたのに?
堪える。
答えていいのか?
応えてくれるのか?
そうじゃなきゃ、耐えきれない。
「……」
「…………」
地平線から差した最初の光が、リシェの横顔を淡く縁取った。夜の中では曖昧だった表情が、逃げ場もないほど鮮明になる。
「んもう。どうし――」
リシェが懲りずに、また口を開く。
考えを止めた俺の体は勝手に動いた。
言葉を遮るように、唇を塞いだ。
「!」
一瞬、世界が音を失った。
風も、鳥の声も、何もかも遠くへ消えていく。
ほんの少しだけ触れて、髪一本くらいだけ離した。それで終われるつもりだった。それで終わるべきだった。
これくらいの不意打ちは、俺にはとっくに許されているんだ。
今までに二回、リシェから唇にしてきたし、あの時、俺からしてもいいって許してくれたんだから。
俺たちの会話に言葉は必要ない。音を覚える前には、頬を擦り寄せて、野を走って、丸まって一緒に寝てきたんだから。
今だってこの想いは伝わっているはずだ。
俺たちはそうやって通じ合ってきた――そうだよな?
「……」
俺はリシェの瞳の水面の向こうを覗き見つめる。
「……!」
リシェは見つめ返して――戸惑いがほどけるようにかすかに笑った。
――それは俺の全てを許してくれているように見えた。
もう、止まらなかった。すぐに再び境界を合わせる。
今度はもう少しだけ先に。
1、2、3……
リシェの体が小さく固まるが、逃げる感じはない。
それだけで喜びが、胸に広がる。
もう少しだけ、触れていたい。
夢中になり過ぎないように、数字を浮かべた。
4、5、6……
リシェは不思議そうに瞬きをして、俺を見つめている。
その目に警戒は見えなかった。緊張する時の特有の匂いもない。拒絶を示す気配なんて微塵もない。
ただ、何をしているのかを確かめようとする、まっすぐな色だけがあった。
少しくらい恥じらえよ。
苦笑が、喉の奥でかすかに滲んだ。
見ていられなくて、俺の方が目を閉じてしまった。
なあ。……いつもと全然、違うだろ。
もっと触れたい。もっと近づきたい。
このまま、リシェの心の中にある答えを見つけたい。
俺が何をどれほど欲しがっているのか。
この距離を、どこまで近づけたいのか教えたい。
息も、理性も、そろそろ限界だった。
だめだ。口づけだけ。これ以上はしない。
これならまだ、立ち止まれる。日常にちゃんと戻らなきゃいけない。
一歩、進めてしまった。
踏み越えた一線を、もうなかったことにはできない。
なかったことになんて絶対にしない。
それでも、これ以上先へ行くわけにはいかなかった。
ゆっくりと唇を離した。
「……っ」
離れた瞬間、現実の空気が一気に流れ込んでくる。
リシェはうまく呼吸ができなかったのか、頬を紅潮させていた。その顔を見ていると、また胸の奥へ火がつきそうになる。
リシェは唇へ指を触れようとして、途中でやめた。
何かを尋ねたそうに俺を見たが、結局、言葉にはしなかった。
俺は天を仰ぎ、深く息を吸い込んだ。
自分がずっとしてきた、兄のような顔へ戻るために。
そうでもしなければ、このまま、もう一度手を伸ばしてしまいそうだった。
……よかった、止められた。
ちゃんと、ここで離せた。
胸の奥に残る熱を持て余しながらも、その事実だけで、自分はまだ大丈夫なのだと思えた。




