公女の思惑
「少しは打ち解けた?」
――そんな軽口を、飄々とした調子で投げかけてきたのはアスティだった。わざわざ回廊を渡り、祭祀庁の奥まで足を運んできたのだ。
アスティは、年は大して離れていないのに、立場のせいか俺には頭が上がらない相手だった。それなのに、あまりに親しげで勝手に振る舞う。やけに小うるさい親戚の姉にでも絡まれているようで、正直鬱陶しく思うこともある。
けれど――それでも俺の中では、まともに評価できる数少ない女性でもあった。
特に今は、感謝している理由がある。
リシェリアの後見であり、友人である彼女がいたからこそ、俺が指導係を務められているのだ。
最初は偶然に思えた担当官への任命すらも、今となっては出来すぎている。王族であるアスティが裏で手を回したのではないか――そう考えるほどに。
俺は彼女の質問の意図を無視し、教育の進捗についてだけ答えた。恋に落ちてもいいと言った本人に、実際に恋してしまったなど知られるのは癪だった。
「日々の務め、学びも力の制御。どれも申し分ない」
「……あそ。ならよかったわ」
半目で責めるような視線を投げられるが、彼女はそれ以上追及はしない。
「他の官とか、周りの人に何か触りはない? 馴染めてないとか」
そう言って、遠くに見えるリシェリアへと視線を向けた。
ダリオのような不穏分子が、まだ潜んでいないか気にしているのだろう。祭祀庁は彼女の監視が届きにくいのかもしれない。
「リシェリア、浮世離れしているし、強すぎる力もそうだけど……あの見た目でしょ」
アスティは苦笑しつつも、声を低くした。
「聖女はそういう目的でなる子たちが多かったけど、今回の聖女は任務がある。たとえそれがこないだみたいな阿呆の横恋慕じゃなく、本人たちにとってただの純愛だろうと……立場としては政治の火種に利用されることもある」
言外に、大樹の病を治すという使命を強調し、リシェリアの身辺に気をつけておいてほしい、そんなニュアンスを含ませた言葉。
「心配いらない。自分が壁となる」
そう答えながらも、自覚はしていた。
俺は祭祀庁の中でも特に他人に厳しく、社交を嫌う。遊興に興じることもなく、浮名もない。
名誉に誓っていうが、見た目に問題があるわけでは断じてない。むしろ、母譲りの顔立ちと紫の瞳は、自慢じゃないが顔だけは評判がいい。この数少ない長所の外見だけで言い寄られることはある。
だが縁談が殺到する爵位も基盤もなく、かといって富豪でもない。僻地に小さな領地を抱える嫡男に過ぎず、付き合いをしても性格が合わないと過去の縁談相手は離れていった。
「……そうね、頼りになるわ」
アスティはそう言い、俺の肩に軽く手を置いた。
「だが、あの……リシェリアの縁者とかいう兵士。あれは聖女の従僕にそぐわないだろう。どういう由縁なんだ」
俺がセランを揶揄すると、アスティの目が一瞬細められた。
そして――彼女は気づいたのだろう。俺がリシェリアを“名”で呼んだことに。
「……彼は。言うなら、リシェリアの騎士かな。家族みたいに苦難を乗り越えて生きてきたみたいよ。聖女が五体満足でここにいるのは、彼の功績なんだから」
少し間を置き、低い声でさら続ける。
「田舎の方じゃね、神の恩寵を分け合うとして、ああいう力の強い子を文字通り髪を裂き、体を裂き、“分ける”ことすらあるっていうわよ」
背筋がぞわりと粟立つ。
野蛮な慣習に、思わず寒気が走った。
だがその中で、あれだけの力を隠して生き抜いてきたのなら――確かに褒めるべき部分もあるのかもしれない。
「彼を無碍にしないこと。それがリシェリアが聖女を引き受けてくれる唯一の約束だから。あんたも、変なことをしないでね」
釘を刺され、内心で少し身を竦める。
既に口論してしまったことを思い出し、知らなかったとはいえ気まずさを覚えた。
だがアスティは、知っているのか知らずか、さらに言葉を重ねる。
「彼は彼で、こっち――軍部でちゃんと教育してるから。外に出しても恥ずかしくない程度には仕上げるわ。兵士としては素質がある。リシェリアのためならやる気もあるし」
「……どうかな。所詮、野良犬だ。せいぜい番犬くらいにはなれるといいがな」
皮肉を含ませて返すと、言葉の奥で自分の苛立ちが静かに鳴っていた。
「そんなこと言って知らないわよ。彼は結構強い。少なくとも、一対一じゃ組み伏せられる者は少ないわ」
アスティの声音には、誇りと信頼が滲んでいた。彼女にしては珍しく、余計な飾り気のない言い方だった。
「あなたも……噛みちぎられないようにしてね」
冗談めかした響きに聞こえたが、その瞳は真剣さを失っていなかった。軽口の裏にある忠告の重みを、俺は聞き逃さない。
彼女は軽く顎を上げ、回廊越しの遠くを見やった。
「初期の頃ね――聖女について、下卑た邪推や邪な企てをした武官は、ダリオ以外に他にも何人かいたの」
唇の端にかすかな笑みを浮かべ、目を細める。
「もう何人もやり込めてる。模擬試合とか訓練とかで、実力を誇示してね。……そういうことがあるから、もうこっちの幕僚の中に直接的に揶揄する奴はもういない」
誇らしげに、そして少し自慢げに。
その口ぶりはまるで――聖女を守るために仕込んだ猛獣の力を、あえて周囲に見せつける飼い主のようだった。
その猛獣とはセランのことだろう。幼馴染という柔らかな顔の裏に、牙を隠した護衛。
俺は黙って聞き流しながら、心の奥では別の考えを巡らせていた。
……どうせアスティの仕込みか。あるいは、グラントの差し金だろう。
アスティの上官であり、軍と祭祀庁の二つを束ねる、総長レオグラント・イェルス。
公爵家の当主。あの男はさらに老獪で、盤上の先を読むことに長けた智慧者だ。
この二人なら、こうなることをあらかじめ計算していても不思議ではない。
セランを「縁者」という名目で監視役として配置し、同時に周囲の不届き者を力で押さえ込む抑止力として利用する。
駒を一つ置けば二手も三手も先を塞ぐ、そういう周到なやり口。
胸の奥に浮かんだ推測を、俺は口にせず、ただ心の暗がりに沈めた。
一旦、カイル視点の終了です。




