番犬との遭遇
それは。なんとなくの思いつきだった。
いつも窓から眺めるばかりだった聖女の裏庭を、実際に地に足を置いて確かめてみたくなったのは。
リシェリアが幾度となく足を運ぶ場所。やがて社交の場が本格化すれば、彼女と会話する機会ももっと増える。話題の糸口になるかもしれない――そんな理屈をつけながら、足が自然とその方へ向かっていた。
ふだんは素通りするだけの、建物を繋ぐ回廊の狭間。その奥にある裏庭への通路を折れる。
一歩踏み込んだ瞬間、ふわりと土の匂いが鼻を打った。陽に温められた薬草の芳香が淡く重なり、湿り気を帯びた空気が肌を撫でる。どこからか、水滴が桶に落ちる澄んだ音が響いていた。
小径の両側には、背丈も色合いもまちまちな植物が繁り、雑然としたようでいて不思議な調和をつくりだしている。日々の世話と息遣いが、景色の中に刻み込まれていた。
歩を緩め、一株ずつ目で追う。茎のしなり、葉の張り、支柱の置き方――どれも素人仕事ではない。無闇な刈り込みはなく、花も実もそれぞれの季節を心得たように生き生きと息づいていた。
素直に感心しながら顎を引き、視線を巡らせたその時――こちらを睨む人影が視界の端に映った。
向こうは、最初から気がついていたように作業しながら、目線だけこちらを見据えている。
………今はいないと思っていたのに。
赤い頭が外からは見えなかったから来たのだが、どうやら死角にしゃがんで作業をしていたようだった。
「……礼はどうした」
低く冷ややかな声が口をついて出た。
相手は腰を下ろした姿勢のまま、黙々と手を動かしている。好んで顔を合わせたい相手ではなかった。合わせるつもりもなかった。
それでも会えば、同じ城内に詰める人員としてお互いの身分と規律に則った振る舞いをしなければならない。この世界では誰が見ているかわからないのだから。
だというのに。
一兵卒である彼が、官吏である自分に向ける態度ではない。こちらを侮っているのかもしれない。
「ここは聖女の庭とはいえ、城内だ。わきまえてくれ」
だが彼は振り向きもせず、鼻先をわずかに動かして匂いを嗅ぎとり、独り言のように呟いた。
「インクと紙とリシェの匂い。黒い服。あんたが厳しい指導係ってやつだな」
納得したように言い、また枝を結わえる作業へ戻る。
「リシェは今いないぞ。俺は許されて世話してるだけだし、あと、ここではお前は上官でもない」
咎められても意に介さぬ調子で、死角になっていた左腕の腕章をひらりと見せつけた。
――リシェ。
ためらいなく愛称で呼ぶその口ぶりに、胸奥で微かな火花が弾けた。
最初からそれなりだった彼女と違い、なんて粗野な。
「お前が、聖女の犬という噂のやつか」
相手の無作法に倣って、こちらも添え物扱いのように揶揄してやる。
「まぁな」
だが相手は取り合う様子もなく、淡々と続けた。
「それよりさ、あんまり詰め込みすぎないでくれ。リシェの良さがなくなるだろ。あいつは、ありのままでいいんだから」
脳裏に、彼女の清澄な姿が浮かぶ。
手をかければかけるほど透き通っていく稀な資質――それを濁ったままでいいなどと、この男は何も理解していない。
「いや……磨き上げて、おまえのような野良犬が触れられない高みに据えるつもりだ」
その方が彼女のためになる。どんな縁か知らないが、こんな者を養うより、あの力を活かす未来があるはずだ。
「わかってねえのはお前だ」
怒気もなく、ただこちらの感覚を見下すように吐き捨てられた。
……やはりこういう粗野なのは相容れない。リシェリアが特別なのだろう。
静かな空気に、目に見えぬ火花がぱちりと落ちる。
淡く息を吐き、庭の奥へと目を向けた。リシェリアの姿がないことを念の為、確かめてから、低く言葉を落とす。
「彼女は……リシェリアはお前には、他に幸せを見つければいいと言っていた」
実際に口にしたわけではない。だが曲解して伝えれば、わずかでも心が揺らぐはず。卑怯でも構わない、これは策略だ。
ゆっくりと顔を戻し、口の端を歪める。
「良ければ、似合いの女性を見繕ってやる」
赤毛の手がついに止まった。
短い沈黙の後、鼻で笑い、挑むように返す。
「……リシェと話してて、お前の名前なんて一度も聞いたことがねえ」
金色の瞳が真っすぐにこちらを射抜き、言葉を突き刺す。
「あいつはさ、いい匂いだから蝿が死ぬほどたかるんだ。こないだも1匹、退治されたよな」
彼の発する言葉の音調はあくまでも軽く、明確な敵意があるというほどではない。
だが、ちょうど良く寄ってきていた虻、蝿ではないが――手元に近寄った瞬間。
俊敏に、握りつぶした。
「お前もあいつらと同じだよ」
二人の間の空気が、たとえようもなく重い。




