期を待つ狼
俺がやるべきことは、カイルへの攻撃ではない。リシェへの切り込みだ。
先に競合を噛みちぎりたい。そういう衝動は、あの対峙の瞬間だけで。すぐに捨てた。
あいつを睨んでいる間にも、リシェの歩みは進んでしまう。
彼女の傍に、俺が残すべきものは別の形だ。
もうすぐ、俺は長期遠征に出る予定が控えている。
国境付近の大規模な土木任務だ。太平なこの国では、戦が少ない分、兵士は保安や公共事業の肉体労働も任務に入る。こういうのは命の危険は少ない。体力を使うだけなら、俺にとっては大した仕事じゃない。手当も悪くない。……ただし長い。
少し後悔はした。アスティに城外勤務が増えると言われてた通り、最近は日中城内に入れない事も続くようになってきた。外から戻って兵舎で寝るだけ。わずかに自由時間があれば庭に顔を出すだけの生活が増えた。
かと言って避け続けることも出来ないし、だからこれも駆け引きの種にすることにした。
――俺の守るべき場所も、戦うべきところも、裏庭だ。
ここだけは王城の中で、俺の“縄張り”と胸を張って言える数少ない場所だ。
俺もここに刻もうと思った。
俺は庭を見ればリシェを思い出すんだから、リシェは、庭を見れば俺を思い出すべきだ。
形にならなくても、時間と手の痕跡を染み込ませておく。
そうすれば、たとえ俺が不在や遠征でも、リシェはこの庭のどこかで俺を思い出す。
思い出させるために、わざとすれ違って会わないことにした。リシェが駆けてくる音と匂いを感じればすぐさま死角に逃げる。顔も見ないようにしたのに、耳は声を勝手に拾う。
「セラン? あれ。来るってジェスが言ってたのに、……いない」
リシェは不思議そうに庭を見回した。花壇の向こう、道具置き場、枝を落としたばかりの木の根元。俺がいそうな場所を順に探している。
その視線が俺のさっきまで居た茂みの近くを掠めた時、してやったという気持ちが、胸の奥で低く笑った。
はは、惜しい。俺はとっくに庭の敷地外。
「……今日こそはカイルのと、反応を比べさせてもらおうと思ったのに」
……またなんか変なこと考えてるな。
庭から遠ざかるように回廊を歩きながら、何を比べるつもりなのか全くわからなくて笑った。
会わない時は黙々と土を返し、道具を整え、花壇の縁を固めていく。
仕事は単調で、泥の匂いと草の音しかしない。その単調さの中に、俺の「手癖」を残した。
土の返し方、枝の切り口、道具の置き癖。人の目にはただ整った庭に見えるだろうが、リシェなら気づく。ここに俺がいたこと。触れて、選んで、残していったこと。声より先に、匂いと手触りで届くものがあるはず。
最初の頃はただ指示をこなしていたけれど、今は違う。
芽吹きの時期や、陽の角度、雨の降り方で次に何をすべきか、体が覚えてしまった。
どこに肥を足せば根が伸びるか、どの枝を残せば美しく形づくるか。
もうリシェにいちいち聞かなくても、わかる。
だから、リシェやジェスが戻ってきた時には、やることがほとんど残っていないくらい、完璧にしておく。
……そのほうがいい。
そのほうが、リシェの頭に「余白」が生まれる。
考える時間があれば、きっとその中に俺のことが入り込む。
少しでも、彼女の心に俺の名が浮かぶように。
すれ違いの日々に必ず“置き土産”を残していく。
見慣れぬ薬草、乾かした花、ちょっと珍しい種。
あとは、行く先の名もない場所で見つけた小さな菓子や玩具を置いておく。
書置きなんてしない。文字を交わすより、手触りや匂いで伝えたい。
ジェスがどうせ俺の予定や様子を話すだろうから、それでいい。
リシェは、空いた時間にそれらを眺めながら、少しだけ俺のことを思えばいい。
そもそも、あいつは働きすぎだし。
俺の残した土産と、俺の作った暇を休憩のきっかけにすればいい。
……たまに、俺の分の菓子が残っている時がある。
包み紙の折り方が違っていたり、少し花の香がついていたり。
たまに、小さな紙切れや短い手紙。
喉の奥が熱くなるのを、誰にも見られたくなくて黙って飲み込む。
『赤いの美味しかった』
そうだろうな。赤い干し果物だけ減っていた。黄色いほうは酸っぱすぎたか。
『セランの世話した花が咲いてたね。ちゃんと見た?』
見た。リシェみたいな白い花だったよな。
だけど、べつに返事は書いたりない。
次に会った時、声で返す。
それでも、もし――リシェとの休みを取っていいと、グラント様やアスティの方から伝達が来たら。
その時はどんなに忙しくても手を止める。
どんな手段でもすぐに戻って、素知らぬふりで普通の休みを過ごす。
「……最近忙しいの? 全然庭にいないじゃない」
「忙しいのはお前だろ。俺だって毎日のように来て、庭の仕事ちゃんとしておいてあるだろ。 別に構わなくないか? こうやって休みなら会えんだし」
「そう、だけど。なんか……。いる日って聞いても会わないし。すれ違ってるっていうか……わざと?」
「んなことあっかよ、偶然だろ。ほら――それより、今日は何すんだ。行きたいところは?」
目論見が当たったと分かって、胸の奥がくすぐったく疼いた。
上がりそうになる口角を見られたくなくて、口に手を当てて、思案する振りをした。
本当は、もっと探りたい。
こないだみたいに、迂闊に「愛してるよ?」なんて言わせて心の渇きをいやしたい。
でも、今更家族の愛なんかに甘んじているだけでは、あの灰色狐に舐められてしまう。
それに。
まだ、名前は付けられていなくても、リシェが主体的に俺を思い始めている。
それだけで、今までとは違う段階に踏み込めている。
この嬉しさは、確実に捕まえたと思えるまではまだ、黙って飲み込んでおかないといけない。
逃げ足早い兎を、猟場に追い込む狩りの様でもある。
羊を家に帰すために、牧羊犬になったような気持ちでもある。
どちらもきっと正しい。どちらでもある。
会えないから、『会いたい』になれた。
次は、会いたいより、『欲しい』にしたい。
だから、まだ。今は吠えない。走らない。飛びださない。
奥に伏せたまま、リシェが俺を求める日を待とう。
「ほら、決まってないならとりあえず市街にでるぞ。門の近くでうろうろしてていいことねえ」
ここはまだ城壁の近くで、絶対に見られないという確証はない。
そんな人の気配は感じていなかったが、警戒するに越したことはない。
何がどこに潜んでいるかなんてわかったもんじゃないのだから。
潜伏した狼は、ただ待っているわけじゃない。
飛び掛かる時を、選んでいるだけだ。




