瞬く恋の観測
大樹に仕える我々の祭祀においては、星を読む業務――通称「星見」が欠かせない。
大樹は自然の化身であり、天と地に密接している存在だ。
王都郊外の王立観測塔には夜勤の監星官たちが詰め、定められた時刻ごとに天を記録する。彼らの報告を祭祀庁の官吏が解析し、そこから天暦が導かれる。吉兆や日時を定め、天気や季節を見つめる。まるで未来の兆しを見出すように。それが意義だった。
ここに、聖女が直に星を観測する必要は、本来はない。必要な情報は整えられて執務室の卓に届けられるからだ。
だが今宵、彼女は“視察”という名目で観測塔に赴いていた。
……本当は、休みに二人で連れて来てあげたい場所だった。
だが、観測塔は郊外にあり、星を見るには夜を待つしかない。郊外へ公務以外で連れ歩くことや、私的な外泊など、流石に許されない。
俺は仕方なく――いや、嬉々として公務に理由をつけて捩じ込んだ。
休みの名目にするなら次の機会を待たなければいけない。
逢うために、グラントとリシェリアが並ぶ公務を指折り数えて楽しみに待たなきゃいけないなんて本末転倒でもある。
――だから異例のことだ。
春も終わりに近いのに、夜間の石造りの塔は昼の熱をまるで持たず、夜半には凍りついたように冷えていた。
窓も壁も厚く、湿り気を帯びた空気が肌を刺す。
「春だというのに冷えるな。……聖女に膝掛けを」
そう言って、俺は随行の侍女に指示を飛ばした。
柔らかな毛布を受け取り、彼女の膝にかけてやる。
指が僅かに触れた。細い。冷たい。
思わず、自分の手の熱を移すように膝掛けを整える。
観測官たちは恐縮した様子で、手元の星図や望遠鏡の仕組みを解説してくれた。
リシェリアは目を輝かせて聞き入り、星座を指でなぞる。
「星を繋げて……こんな名前で区別するんですね」
その声は小鳥の囀りのように澄んで、静かな空気の中でよく響いた。
「神話や御伽噺になぞらえているが――要は覚えるためだね」
俺は即座に応えた。
星座神話などというのは、詩人が後付けした寓話に過ぎない。
理屈で覚えたほうが早い。そういう性質の人間だ、俺は。
だが彼女は神話の筋を覚えようとして、ひとつひとつの名に想像を添えていた。
指先で描く仕草が、星を撫でるように柔らかい。
……効率などよりも、その手が動くたびに目を奪われる。
ひとしきり見学を終えると、塔内の空気は冷たく乾いていた。
星見官たちは緊張をほぐすように控えめな息を吐く。
これ以上は彼らの業務を妨げる。
「夜間にしか見られないものだから仕方ないとはいえ、遅くなってしまったな。部屋に戻ろうか」
そう促して、塔を出た。
夜空は清冽に澄み、塔の前庭には、静かな夜気が降りていた。
灯りが遠く、星の光だけが冷たく瞬いている。
「いえ、もう少しだけ星を見ませんか」
リシェリアの声。
息が白く、指先が小さく動く。
リシェリアが指した先にあるのは、塔の前庭から少し外れた芝の丘だった。
灯りが遠く、そこだけが星の光を映すように暗い。
俺は眉を寄せた。
「夜風にあまり冷やしたら良くな――いっ!」
言い終える前に、彼女の手が俺の手を掴んだ。
そのまま引かれる。ぐい、と。
軽い力なのに抗えない。
最近のリシェリアは、時おりこうして思いがけない行動で、俺の理性を封じてくる。
いつも穏やかで、誰に対しても礼儀正しい彼女が、こうして小さな反則をしてくるたびに――心臓が跳ねる。
「こうして、あたためてくださるでしょう?」
笑った。
月光の下で、その頬は淡く赤い。
まるで自覚していないような無邪気な瞳。
……いや、違う。
それを「無邪気」と言い切るのは逃げだ。
彼女は分かっている。
俺の呼吸が乱れているのも、掌が汗ばむのも。
「……も、勿論。せめてもう少し明かりから遠い場所に行こう。視認度が良くない」
どうにか理屈をつけて言い訳をした。
少しでもこの胸の鼓動を誤魔化すために。
「人目がないところに行きたいわけでないから、勘違いしないで欲しい」
口が勝手に弁解する。
だが――本当は、そう願っていた。
明かりも人目もないところで。
ただ、星と彼女の横顔だけを見ていたかった。
塔の高みに吹く風が、二人の間を通り抜ける。
膝掛けの裾がふわりと舞い、指と指の隙間から体温が溶けていく。
星々は静かに瞬き、まるで夜空そのものが、彼女の吐息に応じて輝きを増しているようだった。
夜気はすでに花の香りを残しながら冷えはじめていた。
観測塔の前庭から少し外れた、芝のゆるい丘の上。
護衛も侍女もいるにはいるが、塔の入口近くへ下がっている。屋外だから密室でもない。見通しもいいとは言えない。
あとは星の見える空と、隣に座る彼女だけ。
「あの星が暗いから、西方の天気が悪いかもしれませんね」
リシェリアが指をのばして夜空を差した。
薄衣の袖が風にひるがえる。
「まあ、空の端の雲が薄いならさほど影響はないよ」
穏やかに返すと、彼女はうなずいて、目を細めた。
肩肘を張るような公務の空気も消えた。
こうして二人きりに近くなると、彼女はまるで別人のように自然で、やわらかい。
だから俺も、首元の詰まった襟をゆるめた。
夜風が頬を撫でる。
見晴らしのいい芝の斜面に並んで腰を下ろすと、星屑のような虫の声が遠くで響いていた。
リシェリアはいつも、俺の話に丁寧に耳を傾けてくれる。
相槌は当意即妙で、しかもその裏にちゃんと自分の見解がある。
芯のある女の子だ。
学者にでもなれそうだな、と思う。
男だったら――親友になれたかもしれない。
そうすれば、手に入れられない苦しみを想像せずに済んだのに。
……いや。やっぱり、女性のほうがいい。
その思考の危うさに自分で苦笑しかけたとき――
「くしゅん」
小さなくしゃみの音がして、現実に引き戻された。
……いけない。
話に夢中でリシェリアを冷やしてしまった。
外套を脱ぎ、そっと肩に掛ける。
「流石に帰ろうか。とりあえずこれを」
柔らかな布に包まれて、彼女は少し身をすくめた。
その頬が火照っているようにも見えて、息を呑む。
……後であの上着を吸おう。
「ありがとうございます……ええっと、そうですね……」
礼を言いながら、なぜか周囲を気にして左右を見まわす。
「? どうした?」
「……しておきますか? 日課」
耳元で囁かれた声に、思わず肩が跳ねた。
吐息が近い。温かい。
そういえば、今日は星見のために昼は休養をしていたせいで、いつもの“日課”をしていなかった。
「あー。そうだな……」
だが、急な誘いには頭が追いつかない。
そもそも、この日課とは名ばかりの、リシェリアと距離を縮めるための方便として始めたものだったから。
それを準備もなく、慣れない場所でやるのは……流石に難しい。
あまり迂闊なことはできないし、言い逃れる理屈もすぐに浮かぶというわけでもない。
そうやって思考の海を泳ぎながら、言葉を探していると――
近寄る気配。白い吐息。
「えい」
柔らかな接触が頬に触れた。そして、すぐ離れた。
――え?
「え?!」
思わず声が裏返る。
「うん、……思考が止まりましたね」
まっすぐな声。あどけない笑み。
「今日はカイルに言語化してもらいましょうか」
な、なん……!?
口付けされた!? しかもリシェリアから!?
俺は今から死ぬのだろうか!?
「サフィアから借りた恋愛小説に、星空の下で口づけを交わしていた場面があったんです。その人たちは、とても幸せそうだったので」
説明も素直だ。
「カイルの心も、嬉しくなりました?」
……なんて勉強熱心で奔放なんだろう。
サフィアには何か進物でも贈っておこう。新刊も手配してやらねば。
いや、待て。いま起きたことを整理するのが先だ。
……リシェリアとの“初めて”の口づけを、こんなにも事故のように消費してしまった。
愕然とした。
「初めてだったのに……」
もっと、ロマンチックに、全てのしがらみを捨てて、彼女の意志で、俺の名を呼んでもらってから――そうしたかったのに。
「カイルは、これはあんまり好きじゃないんですね」
「そんなことない! 驚きが勝っただけなんだ」
嬉しかった。けれど衝撃が強すぎて、余韻がない。
記憶が、あまりにも薄い。
もう一度、確かに感じたい。
「もう一度。もう一度してくれたらちゃんと本当の反応が見せられる。こういったことは一度では正しさなんて証明できない」
「……カイルは再演が好きですね」
「再現性を確かめるのは重要なことなんだ。あ、次は俺からでもいいし」
正当性はある。理論的だ。権利だって、あるはずだ。
そう信じて、彼女の肩に手をかける。
「だめですよ、禁止項目に触れると思います」
一寸の迷いもない、鉄壁の微笑み。
「君がしてきたのに……」
このところ、リシェリアはあまり流されてくれない。
以前よりも、感情が豊かで、自分を持っている。
それが可愛くて、愛しくて――同時に、ますます手強くなってきた。
翻弄してくる彼女は、まさに天性の魔性だ。
「はい。許しません」
嬉しそうに、二度目も却下された。
仕方ない。
嘆息して手を離し、彼女を自由にする。
夜風がまたふたりの間を抜けた。
顔を上げると、すぐそこに彼女の顔。
星の光をうけて、淡く透けるように美しい。
最高の景色だな――と思った瞬間。
もう一度、今度は唇に。
また、覚悟できていなかった。
「あの……困るよ」
どうかと思う。翻弄がすぎる。
どうしてそんなに平静でこなすのか。
「お休みのご挨拶も兼ねて。このくらいなら大丈夫じゃないですか?……あ、カイルは頬の方がお好きでしたか? それならごめんなさい」
「……そんなの、比べられないな、どっちも……。いや、そうじゃなくて。流石に……理性にも限界があるし、心臓に負担がかかり過ぎる」
もしかして、俺が制御を外すのを見たいのか?
もしそれを期待されてるなら……休みを一回くらいは踏み倒しても後悔がないけれど。
「これだけ仕掛けられて、告げ口されたら俺は徹底抗戦するからね。同じ回数は吸われる覚悟をして欲しい」
「ふふ、怖い。それじゃ、内緒にしておいてください」
悪戯っぽく、唇の端を上げて笑う。
その微笑みが、夜の星よりもずっと眩しかった。




