時を止める鑑賞
城に来てから、休暇というものを与えられるようになった。
生きるための仕事を何もしない日というのは、それまでの私には想像もつかなかった贅沢で、今でもまだ少し現実味がない。
セランと出かけるときは、不思議といつも、広い空と緑の匂いがある場所に辿り着く。風の通る丘や、水音の響く林道。息を大きく吸い込める場所。そこでは、胸の奥の硬い塊がほどけていくのを感じる。
けれど、カイルと出かけるときは違う。
彼は、私がこれまで触れ得なかった場所を見せてくれる。城の外に広がる街、店の並ぶ通り、古い石畳、硝子越しに並ぶ珍しい品々……。私にとっては、どれも檻の外に広がるおもちゃ箱のようで、目移りするほどのものばかりだ。
その中でも今日は、特に縁遠かったもの――芸術――を見せてもらうことになった。
私が「絵や綺麗なものが見たい」と言った時、すぐにカイルが提案してくれたのが美術館だった。
本音を言えば、豪奢で緻密なものは少し目が疲れるし、煌びやかな宝飾品にあまり興味があるわけでもないけれど、教練の書や、サフィアが選んでくれる小説も絵が多いと嬉しくて、大きな絵が見てみたかった。
生きるために必要な糧ではなく、心を養うためのもの。目に見える価値ではなく、形のない感情や時間を閉じ込めたもの。そういうものに、私は長く触れずにきた。
「来てみたいとは、言いましたけれど……まさか貸切だなんて……」
植物園の時みたいに、普通に観覧できればよかったのに。
「貸切なんてしていないよ。ただ、あちらは屋外だけれど、ここは価値の高いものや希少品も多い。万が一、君の存在が他の訪問者に見られて殺到したら、君も展示品も危ないよ。……だから、休館日に開けてもらっているだけだ」
「……それは、貸切と同じですよ」
「一般客がいないから、普段開示されない希少な古書や昔の宝飾品なんかも見せてもらえる」
カイルが少し目を泳がせて付け足した。多分、それも目的なのかもしれない。
この人は、自分だけが見つけた裏技や抜け穴は、喜んで使ってしまうような狡さを、たまに見せる。その恩恵にあずかってしまっている私は、仕方なく笑うしかなかった。
展示室を歩くたび、壁に掛けられた絵画や、硝子の中に眠る工芸品が静かに私を見返す。
見たことがないような異国の景色や、現実を切り取ったような写し絵には、思わずため息が出た。歴代の王族や宮廷の美女を描いた肖像画を前にすれば、どんな人間だったのかと想像が膨らむ。
あまりに大きな宝玉の展示では、背を屈め、光を反射する表面越しに向こうを覗き込んだ。
異国の遺物を前にすれば、どうやってここまできたのか、その向こうに広がる大地や時代を思って、気が遠くなりそうになる。
それらを眺める横で、カイルが作者の話や歴史、文化、技術についてそっと注釈していく。
「カイルは美術も、随分お詳しいんですね?」
「ああ、見た目よりは裏側にある歴史の方に興味があるだけだけどね。ほとんどロディ兄――グラントの兄上の受け売りだ。彼はこういうものに造詣が深かった」
「グラント様のお兄様……」
「そのうち会うこともあるだろう。それより、グラントも人の生み出す芸術を愛する性質だ。アスティは美しい造形を好む。……ここを二人の逢瀬として提案するのはどうだろうね?」
「わあ、カイル。その発想素敵ですね」
描かれた人々は、まるで時を止められたように動かず、笑わず、ただそこにいる。それを眺める人々の瞳もまた、どこか遠くを見つめているように感じた。
……居心地は悪くない。けれど、ここには命の息吹がなくて、私には少し怖い。
「ほら、リシェリア。そっちは建国王と初代聖女、それに王弟の肖像だと言われてる。……グラントの先祖なはずだけど……はは、似てないな」
そこには大樹と金色に燃える畑――豊穣を手にしたような金色の男女が寄り添っていた。大樹の作るその暗がりにもう一人、青年が並んでいる。
「まだ大樹はあまり大きくないんですね」
「千年前だからな……いや、絵は少し後世に描かれているからわからないけどね」
グラント様も、アスティも。
この国の貴人として、いつかこんなふうに額縁の中へ並ぶのかもしれない。
そんなことを考えた時、カイルがぽつりと言った。
「君もいつか描かれるかもしれないな」
振り返ると、カイルがこちらを遠い目で見つめていた。嬉しいと寂しさの中間のような笑みを湛えて、まるで私を鑑賞するように。
少しだけ、心臓を掴まれたように息が止まった。
過去、誰かが、私を同じように見つめたことを思い出す。
セランがそばにいなかった時に攫われて、外窓のない誰も来ない部屋で、ずっと待たされていたことがある。内窓だけがあって、そこしか世界に繋がっていなかった。
非難や疑問を浮かべても、問いかけても何も応答はなかった。
その先に顔は見えなかった。けれど、気配や生き物の呼吸はあった。誰かが見ていたことだけは、わかっている。
あれをしていた人も、私を倉庫にしまって、時間を止めたかったのかもしれない。
……大丈夫。
カイルも、アスティも、この国も。そうじゃない。
閉じ込めて自由を奪ったりしない。
私が見返しても、ちゃんとそこで視線を受け止めてくれるから。
思い直して前を向きなおした。
順路を進んで、階段の踊り場に差しかかった。窓から差し込む柔らかな陽光が、その怖さを溶かす。光はあたたかく、石壁をやわらかく照らして、深く息を吸わせてくれた。
歩き詰めて疲れた足を、休憩室の長椅子に伸ばすと、ほっと息がこぼれる。張り詰めていた空気が少しずつほどけていく。
静かすぎて。――静かすぎても落ち着かない。
やっぱり、人の呼吸する音がするほうが嬉しいかな。
「ちょっとだけ、息が詰まりました」
「そうかな。俺は全然気にならないけど。うるさいより全然いい……あ、喋るなという意味じゃない。君の感想は興味深いから」
言いながら、失言かもと焦って訂正をするカイルが可愛らしくて聞いていたけれど、単語にわずかに引っかかりを覚えて立ち返る。
『うるさい』
先日のことを思い出す。
セランの手当てをしたあと、あれこれ世話を焼いていたころ。うたた寝していたら「うるさい」と起こされた。
あれは冗談だったのか、本気だったのか。その一言が、今も胸のどこかに残っている。
「……私って、うるさいでしょうか」
思わず口から出た。
カイルが、少し驚いたように私を見て首を傾げる。
「え? 誰かに指摘されたとか?」
労わるような声に、急に自分の問いがばかばかしくなり、頬が熱くなる。
「ええ、まあ……」
曖昧に濁すと、カイルは観察者のような眼差しになる。あごに手を当てて思案するように、私の顔の上を、視線が何度も往復した。
……今みたいに真面目にしている時は、カイルの方こそ収蔵されている美術品みたいなのにな。
つい見とれてしまっていると、カイルの紫色の宝石みたいな瞳と、ぱちりと目が合った。少し恥ずかしくて、すぐに目を逸らした。
「そうだな……わざわざ言うなら何か根拠があるのか……? 実際、声は大きくないと思う」
「……」
「普段、身振り手振りが大きいわけでもない。たまに不思議な動きをするけれど」
「え?」
そんなことしてたのかな……。
でも、自分ではよくわからない。
そう考えているうちに、カイルに手を取られていた。
――しまった。
カイルの悪い癖が始まる前触れだ。
遠い目をして、私の手の形を指先で確かめるようにつまむ。カイルは私の手を裏返し、掌に文字を書くようになぞっていた。……何しているんだろう。
こうなると長い。気が済むまで離してくれない。
確かに手は禁止項目に触れないから注意を言う必要はないけれど、普通に腕を組むより意図がわからない動きの方が不安になってしまう。また、あの『吸う』と称して私の匂いを嗅ぐ――そんな変なことを新しく編み出そうとしていないのかが、怖い。
禁止項目に、それを止める方法がないのだけは、ちょっとだけ納得がいかないでいる。
……冷静に考えると、やっていることがセランに似ている。
セランは、仕草自体はわざとらしくないけれど、なんでも匂いで判断するし、私の匂いをいつも嗅いでいる。もともと目も耳も鼻も良くて、本人も私も、彼が森で育ったからだと気にしていなかった。
今では、私はそれがウルの痕跡だと思っているし、されること自体は全然嫌じゃないけど。
……まさか実は、二人して裏で、私をからかう方法を共有しているんじゃないよね。
そんなことを邪推していると、彼はすぐに次の質問を思いついた。
「そうだとすれば……無意識の時だね。独り言や、寝言がうるさいのでは?」
「えっ」
その瞬間、記憶が蘇る。
セランに言われた時、……たしかに、私はお見舞いのついでに、うたた寝をしていた。連日の心配で気を張っていたし、彼の体があたたかくて、容体もすっかり良くなっていたから、安心して眠ってしまった後のことだった。
「……嫌だ……どうしよう」
もしかして、怪我人の眠りを妨げるほどの寝言を!?
口も開いていたなら、涎だって垂らしていたかもしれない。
うるさいと言われるほどのことを、私はどのくらい口走ったのか。考えるほどに、冷や汗がにじんでしまう。
「よかったら、俺が確認する。帰りに――俺の部屋はだめだから、……執務室に寄っていくといい。応接椅子で少し午睡でもすればいい」
カイルが何か言った気がするが、耳に入らない。
「そ、そろそろ終わりの時間ですね。閉門までに帰りましょう」
もう、この話は終わろう。
セランに合わせる顔もないけど、カイルにもこれ以上だらしない姿を想像されたくない。
慌てて立ち上がると、カイルの視線が静かに追ってきた。それでも私は振り返らず、出口の光のほうへ歩いた。




