透明な檻の中
また、やってしまった。
リシェリアの見本になりたいと思うのに、どうしても、セランに対してだけは理性が働かない。
子供じみた敵意が、瞬時に噴き上がってしまう。
あの日も、少しだけと思ったのに、いつのまにか啖呵を切っていた。鼻っ柱を折ろうとして、その手を噛まれた。
……最低限の体裁だけは守ったものの、逃げ帰ったようなものだった。
制御できていない理由は、自分でもわかっている。あれは、嫉妬だ。
しかも理屈では説明のつかない、もっと原始的な本能の方だ。彼の存在が、俺の中の獣みたいな部分を刺激する。冷静に分析すれば、あの男の一挙手一投足に反応してしまう俺こそ、滑稽だ。
……次の一手を考えないとな。
セランの咆哮を正面から受けて動揺しているようでは、俺に余裕はない。
戦略を練ろう。
彼女を――リシェリアを動かすための、最短の道を。
最も即効性が高く、恋愛感情を想起させるための有力な手段。
それは、人の心の働きとしても、一定の再現性がある。
類似の生理反応を伴う物理的な接触。
緊張と喜び、恐怖と安堵。
そうした感情が高ぶる瞬間に、隣にいること。
心拍が上がった時、俺という存在を意識させること。
……それが、理屈の上で最も確実に恋を生み出す方法。
本当は「お似合いだ」と第三者からの社会的な認知も同期させるのが効果的なんだけれど――この札は、実際にはほとんど使えない。
理由は、明白だった。
聖女はグラントの婚約者。
それは、俺自身が認め、従うと決めた“仮面”でもある。
面倒な政治の矢面から彼女を守るための、防風壁。
彼女のための盾を、むざむざ俺が壊してしまうわけにもいかない。すべてが瓦解する。
表向きを破らずに、事実上の情人のように振る舞うこともできない。
……できなくはないが、矜持としてしたくない。
倫理の問題もある。
いや、倫理というより、聖女としての社会的信頼の問題もある。
俺は、リシェリアの清廉さを守る存在をやめるわけにはいかない。
だから、物理的な刺激よりも精神的な快楽。
心をほどく対話。
ほんの少しの肌の接触。
その絶妙な距離感で、彼女に恋の輪郭を覚えさせようと思っていた。
……そう思っていたのだが。
後日、最大の障害が発生した。
アスティ――いや、セランだ。
見計らったようなこのタイミング。
……くそ。
牽制すべきじゃなかった。
「いままでは目溢ししていたけど、城内の風紀規則に則るべきという意見があって、適用されることになった。遵守して」
……そのうちのいくつかは、俺の思考を読んだとしか思えないほど的確で、抗い難い項目があった。
使用人のいない同室禁止、開扉の徹底。
個室馬車での同乗禁止。
公務の介添を除く手指以外接触の禁止。
同卓での隣席の禁止。
さりげなく触れたり支えたり、そういったささやかな触れ合いの機会を悉く潰しにきている。
「……昨年まではそのようなことはなかった」
「何言ってるの。エリシアナとアデライナは同性。前々任は叔父と姪、血縁だったでしょ」
「く……」
言葉の建前だけは立派だ。
だが、実際は――俺の手を封じるための作戦だ。
忌々しいほど周到だった。
「指導や石室での場面では触れる必要も出てくる。それにこんなんじゃ……“あの休み”もままならないだろ」
「……何も会話まで禁じてないでしょ」
「それでは休み中に彼女を守れない」
はぁ、とわざとらしく聞こえるように、アスティが嘆息した。
「“城外”ではこの限りじゃない。……節度を保ってくれれば外でのことには、うるさく言わない。その代わり、リシェリアに判断させるから。城の中で目を盗んで規律を破ったとしても、リシェリアから聞くから言い逃れようと思わないことね」
リシェリアから見て、度を過ぎる触れ合いがあれば申告させる。
そして、三つ破るごとにあの休みを一つ没収。
あれほど待ち望んだ“リシェリアと過ごす休み”が、一瞬で消える。
――恐ろしい。どうしてこうなる。おかしいだろう。
セランは散々やってきたじゃないか。
あいつの方がよほど密着してきたのに。
日常的に、自然体で抱き上げ、肩を貸し、髪を撫でてきた。
俺がやれば即刻違反だと。
どんな不公平だ。
焦燥が、湿った重りのように胸に広がる。
このまま手をこまねいていれば、またリシェリアから遠ざかる。
彼女の傍にいられるとしても、それはもう“背景”の一部。
セランの言葉が頭に過ぎる。
有象無象。
……それだけには、なりたくない。
幸いなことに、彼女からの申告制。
……きっと。かなり。見逃してもらえるだろう。
そのうえ、緊急時やリシェリアからの接触には特に制限がない。
それが唯一の抜け道だった。
なぜそんなに甘く見積もれるかといえば、あの日――「恋を知っているか」と問われた時。
俺が見せた対応が、彼女の歓心を多分に引けたからだ。
面白い、と朗らかに笑って研究対象を見つけた学者のように、俺を通して“恋”を観察するようになってきていた。
手を握る。
指先でつつき、俺の反応をつぶさに確かめる。
肩に触れて、背中に寄りかかり、何気ないふりで近寄ってくる。
……あれを“研究”と呼ぶのなら、あまりに残酷だ。
抱擁に近い距離まで来られた時は、もう命懸けだ。
触れた瞬間に思考が飛ぶ。呼吸が浅くなる。
それでも、手を伸ばすことはできない。
”禁止されているから”
下手に触れれば休暇が消える。
だから、彼女に触れる前に「先に君から触れてもらえないかな」と依頼してからでなければできない。
その滑稽さ。情けなさたるや。
聖女に「許可」を得て触れる男――。
笑えない茶番だ。
けれど彼女は、そんな俺の早まる鼓動を興味深そうに聴いてくる。
瞳は澄んで、純粋な探究心に満ちている。
そこには恋の色なんて、ほとんどない。
それでも、その顔を間近で見せられた瞬間――幸福と緊張がいっぺんに押し寄せて、心臓が物理的に止まりそうになる。
ほんとうに、殺されるかもしれない。
自分の進捗は、遅々として進まない。
だが、それでもいい。
彼女のほうから一歩、距離を縮めてくれたこと。
それだけで十分に価値がある。
せめて――この興味を、ずっと惹きつけ続けられる存在でありたい。
最近は、祈るようになった。
神に、というより、ただひとりの女のために。
どうか、彼女の心が俺の方へ向かいますようにと。
それが信仰とは違うことは分かっている。
だが、これほど真剣に祈ったことはなかった。
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