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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
18章 模索
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猟犬の根回し

アスティに話しかける機会を見つけるのは、そう難しいことじゃない。


副総長である立場上、行動範囲も予定もそれなりに管理されている。照会すれば、極秘任務でない限り居処はわかるし、直接会えないならリカリオのおっさんに伝言を頼んでもいい。俺のような一兵士が軽々しく呼び止められる相手ではないが、それでも、まったく手の届かないところにいるわけじゃなかった。


調べをつけて、通る時間を見計らい、人目の少ない場所で待った。


軍務棟の奥、幹部会室から訓練場へ続く回廊は、昼を過ぎると足音が減る。石壁はひんやりとして、窓から差す光も薄い。遠くで兵士たちの掛け声が聞こえていたが、ここまで来ると声は壁に削られて、ただの低い響きに変わっていた。


報告を受けながら足早に進む集団が通り過ぎ、少し進んだ後にアスティは足を止めた。


「先に行け」

 

隣にいた補佐に顎で先を示し、気配が消えた後に振り返ってくれる。


「申請も出さずに珍しいわね。来な」


誰もいなくなっていた幹部会室を開けて、アスティが先に入る。そのまま、普段グラントが座るだろう椅子に勝手に腰掛けて足を組んだ。


「……何?」


顔に出ていたらしい。


「いや、そういうの……序列とか良いのかって思っただけだ」


「椅子は椅子でしょ。序列の話なら私はあんたより上。それで、用は?」


総長様はこの女でいいのか? 本当に。……まぁ、いいか。


こちらを見る目はいつも通りだった。背筋が伸びていて、軍人らしく無駄がない姿勢だが、俺がわざわざ一人になる場を選んだことくらい、当然すぐに察したはずだ。


「あいつ……カイルに危険な傾向がある。少し気をつけてほしい」


余計な前置きはしなかった。


それだけ言えば充分だった。むしろ、下手に説明を重ねれば、こちらの意図の方を先に疑う。だから最初に、必要な言葉だけを落とす。


アスティの目が、わずかに細くなった。


「……それは。あれなの」


その言い方だけで、何を想像したのかわかった。


魅了。


その匂いをわずかに混ぜるだけで、アスティの警戒は一段上がる。俺がそう仕向けた部分もあるが、それだけじゃない。アスティには経験がある。ダリオの時のことを知っている。リシェにおかしくなった男が、どんな顔をして、どんなふうに周りを見なくなっていくのか。


あれと同じことになる気配を見せれば、彼女は警戒せざるを得ない。


「わからない。だが似てる兆候に見える。少し牽制してもらって、抑えが効くか見てもらいたい」


自分で口にしながら、言葉を選んだ。


魅了だと断じるのは早い。実際、俺もそこまで思っているわけじゃない。カイルの目は、ダリオのような濁り方ではない。あいつはまだ考えている。考えながら狂う種類の男だ。だからこそ面倒だった。


魅了なら、抑えが効かない。


社会の規律も、身分も、職務も、周囲の目も、何もかも剥がれ落ちていく。理屈が通じない。止めれば止めるほど暴れる。あれを俺は見ている。


そして、俺はまた、そういう奴をリシェの近くに置いておく気はない。


「でも。……もう一年近い。今から急に変わることなんてあるの? そもそもいつも職務として一緒にいるのよ。あの子たち」


アスティの声には疑問があったが、否定ではなかった。


冷静に並べれば、そうだ。カイルはずっとリシェの近くにいる。聖女の担当官として、職務上、毎日のように顔を合わせてきた。今さら急に変わったと言われても、普通なら不自然に聞こえる。


だが、普通で済むなら俺はここに来ていない。


「わからない。あいつが隠してたのか、それとも単に自制が強い方なのか……。でも、わざわざ昨日庭までやってきて『リシェリアと抱き合った』なんて言うためだけに俺に話しかけにきた。『恋を教えてやる』とかなんとか言ってきてさ」


口に出すと、改めて腹の底がざらついた。


あの時のカイルの顔を思い出す。落ち着いているようで、落ち着いていなかった。理屈を並べるような顔をして、俺の反応を見ていた。あいつなりの牽制だったのか、宣戦布告だったのか、それともただの嫉妬だったのか。


どれでもいい。


わざわざ俺のところへ来た。その事実が問題だった。


「あんの、馬鹿……」


アスティが低く吐き捨てた。


その声には苛立ちが混じっていた。カイルに対してなのか、状況に対してなのか、それとも俺とカイルのどちらにもなのかはわからない。だが、少なくとも今の話が軽いものではないと受け取ったのは確かだった。


「今までのおかしくなった奴らも、どいつもこいつも俺に突っかかりに来てた。リシェのこと好きになるのは……まあ、そいつの勝手だけど。攻撃性を外に出すようになるなら、ちっとな。よくない傾向だ」


なるべく、もっともらしく言った。


本音を全部出せば、俺はただカイルが気に入らないだけの男に見えてしまう。

実際、それもある。あいつがリシェを見る目は気に入らない。近くにいることも、あの穏やかな顔でリシェの内側に入り込もうとするところも、全部気に入らない。


だが、それだけじゃない。


燃え上がる前に蓋をしているだけのものは、蓋が外れた時が厄介だ。


だから、少しの不穏を匂わせる。


アスティが動く程度に。けれど、俺が仕掛けたと見えすぎない程度に。


「公務は仕方ないが、時間外の引き止めとか、いつもと違う行動しはじめるなら良くない。普段行かない場所、しない事……」


俺はそこで言葉を区切った。


それ以上細かく言えば、ただの粗探しになる。だが、アスティなら足りない部分は勝手に補う。職務外でリシェを引き止める。人目のない場所を選ぶ。普段ならしない行動を取る。そういう小さなズレの積み重ねが、最初の兆候になる。


アスティの目が、俺の話を逃さない色に変わる。


その瞳の奥に、軍人の色が戻っていた。友人を心配する顔ではなく、危険を測る者の顔だ。俺はその変化を見て、胸の奥で小さく息を吐いた。


ひとまず、届いた。


「……わかった、その辺は注意しておく。だから、この件は私に任せて。あんたは、……相手するんじゃないわよ」


アスティは、最後の言葉に何かを含ませるように念を押した。


俺の方を、まっすぐ見る。その視線は、カイルを警戒する者のものでもあり、俺を牽制する者のものでもあった。


もしかしたら、ダリオを煽って悪化させたことを知っているのだろうか。それとも、撃退の時に過剰に制圧したことか。


思い当たることは、いくらでもある。あの時、俺は必要だと思ったことをした。相手が壊れようが、恐怖を刻もうが、もう二度とリシェに手を伸ばせないようにする。それだけだった。


……それでも、あいつの末路の背を押した事だけは、調べがつかないはずだ。


多少、俺を見る目が悪くなっても仕方ない。同じことがあれば、俺は何度でもする。


これからも。


「……相手も何も。少し後に国境の方に遠征に行くことになってるだろ。だからやり合う心配はねぇよ。……リシェのこと見ててくれな」


「……うん。それこそ、怪我してリシェリアを泣かすんじゃないわよ」


「わーってるって」

 

短く返すと、アスティはまだ何か言いたそうに俺を見た。けれど、言わなかった。代わりに小さく息を吐き、表情を整える。その一瞬で、友人の顔から指揮官の顔へ戻っていく。


カイルの件はこれでいい。


魅了とまでは思っていない。あいつは、まだ自分を保っている。だからこそ、今のうちに外側から縛る必要がある。


俺がいない時間。俺の目が届かない場所。リシェが気づかない小さな変化。


そこに任せる鎖は、このくらいの強さが必要だ。

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