対峙 真っ赤な嘲笑
夕刻の庭。
リシェの姿がないその場所で、俺は庭を整えていた。
枝を剪り、土を均し、芽を指で確かめる。
ここは、リシェで満たされていている。
彼女の手の跡、息遣い、視線の流れ。
土の色の選び方ひとつに、想いが宿っている。
柔らかい風が吹くだけで、木々の揺れにあいつの気配を感じる。
この庭そのものが、リシェの掌の中。
だから、俺はその中にいるだけで、毛並みを梳かれているように落ち着く。
……そう思っていたのに。
ふと、音がした。
執務室の扉が開き、階段を降りる気配。
それは俺の中でリシェの音だった。
条件反射のように、胸が高鳴る。
でもすぐに違和感が走った。
――今日は来ない日だった。
しかも、その音階が違う。香りも違う。
空気の揺れ方が違う靴音、重い軋み。
どれもリシェが生み出す音じゃない。
嫌な予感がして、手を止めた。陽の残光が枝葉の間から差し込む。
そこに、黒い影が現れた。
出てきたのは――カイル。
黒衣の裾を風に揺らし、涼しい顔でこちらを見る。
その姿が、まるでこの庭を汚す異物のように見えた。
……踏み荒らされたような気がして、苛立った。
してやった、というような優越の笑みが気に障る。
その笑みを沈めたい。拳ででも。
カイルは階段を降り切らず、上から俺を見下ろしていた。
やりそうなことだ。
高みに立って、見せつけるように。
立てば背は俺のほうがわずかに高い。体の厚みも勝っている。だから奴は、同じ地面に立とうとしない。
負け犬め。
「昨日、リシェリアと二人きりで――抱き合った」
開口一番、吐き出すようにそれを言った。
ああ、またか。
この男はいつも、リシェを使って優位を必死で取りにくる。
俺の中に刺さる言葉を選んで、わざと落とす。
小さくため息をついた。
「そんで?……そんなの、いつでも出来るけどな」
俺にとってそれは、昔から当たり前のことだ。
リシェを支え、支えられる距離。
その温度の共有は、もうずっと前に手に入れている。
まだそんな段階で誇っているのか。
安心した。
「愛を伝えた。彼女も俺を好きだと、そう答えた」
カイルはなおも続ける。
俺が怯まないから、焦れているのかもしれない。
口の端が自然と上がった。
呆れ半分、同情半分。
ああ、やっとそこに行き着いたか。
よかったな。あれだけ秋波を出して、ようやく通じたんだな。笑える。
リシェは基本的に初手から他人を嫌い怯えることなんてない。そういう意味では特別だよ、お前は。
「ああ。はじめは怖がらせてたもんな。ようやく同じ場所に立てたじゃねえか」
カイルの顔に、わずかな苛立ちが走った。
ごく最初の頃の態度を掘り返されて、強打を入れたつもりが躱されたのが気に入らなかったのだろう。
事実、リシェは最初にされたことを、溜め息まじりに愚痴っていた。今のこいつがどれだけ得意げに笑っても、その始まりは消えない。
それでも、カイルはすぐに表情を整えた。
「彼女から聞いてるよ」
カイルは階段の手すりに手をかけ、少し笑ってみせた。
「お前の方は、リシェリアからの情けを断ったらしいじゃないか。今までの献身のお礼のつもりで申し出たらしいけど」
勝ち誇ったような声音。
……リシェ、何でそんなことまで話してんだよ。
少し決まりが悪い。でもそれは、リシェが俺への愛を恥じていないということでもある。
それも気が付かず、こいつはまるで俺が撤退したとでも思っている。
「家族として、きちんと線引きができている。君は立派だと思う」
「はあ? 断ってねえよ。リシェは今も俺の女だ。焦って食い散らかす気がねえだけだ」
そもそも断ったなんてとんでもない。
この間のことを言っていたなら、病み上がりだ。ただ、労わっただけ。
体調が悪い時に抱くわけもない。
……それを、リシェを諦めたと思い込んでいる。
それが奴の笑顔の理由。違和感の正体。
賢いはずなのに、馬鹿だよな。
気を取り直して、軽く肩を回した。
リシェの心はまだ青い。果実が熟していない。
未熟なまま手を伸ばしても、満たされない。
リシェリアという獣は、心も体も最高の時に射止めるべき最高の獲物だ。
一番美しい時に、手の中に捕まえる。
それを見極められないなんて、狩人になれない。
カイルは知らない。
リシェが傷つき弱ってるとき。俺を最初に呼ぶことを。
「それはどうだろうな? 俺はリシェリアに『恋を知りたい』と聞かれたんだ。お前が時期を逃している間に、俺が教えておくから安心してくれ」
まだ言ってる。また、同じことを繰り返して。
ああ、教えてやらないとな。
リシェがそんなことまでカイルに――いや、“先生”に――相談しているのは、俺の想いに応えるためなんだ。
可笑しい。可哀想に。
その意味に気づかないまま得意になっている。
「ははっ! 笑える。可哀想だな。それは俺のためなんだよ」
吐き捨てるように、鼻で笑った。
軽蔑を隠しもしない笑いだった。
まだ勝てると思っている。
いい加減、しつこい。
早く、負けを認めろ。
――カイルとの仲は永遠に進まない。
仲良くなれるはずもない。
「……余り吠えさせておくと苦情がくるな。このくらいにしておいてやる」
カイルが強がったまま、ため息をついて去っていった。
執務室の扉が音を立てて閉まる。
残響が消えるまで、その扉を睨みつけていた。
あいつの足音が遠ざかるのを聞きながら、胸の奥で何かが軋んだ。
――あいつの心も、もうリシェに知られた。
あの真正面であけすけな心を、リシェは素直に受け止めてしまっただろう。
次にあいつは、直接的な手段に出てくる。
言葉、接触、甘い理屈。
それを“理性”の名で包み、リシェを揺らすだろう。
リシェには婚約者がいる。グラント様という公的な盾が。
カイルも馬鹿みたいなやつだが……愚かじゃない。
表立った手段は取らないはずだ。
……だからこそ。
裏で俺に牽制を仕掛けに来たのだ。
挑発して、自分の位置を確認したくて。
ああ、そうか。あいつは、俺を意識してる。
その証拠に、あれだけの挑発を仕掛けに来た。
――俺のほうが、まだ強い。
大丈夫だ。
焦る必要はない。
俺にはまず、すでに分厚い時間で作ったリシェとの絆がある。
横に立つのに、足りないのは形だけ。
少しは出世した。
任務の指揮を任されるようにもなった。
けれど、それでもまだ――聖女の横に立つには不十分だ。
あの白い衣の隣に立つには、まだ足りない。
だから今は黙々と積み上げるつもりだった。
このシルヴィナスという群れの中で、有用な雄としての形を、誰よりも明確にしていく。
力を示す。実績を積む。
狩と同じ。準備の段階こそが、ほぼ結果を決める。
積み上げていく。それが俺の方針だ。
決戦となる日まで、日常を変えるつもりはない。
城外任務が増え、庭に一緒に立てる時間も減ってきている。
ゆっくり会える日など、もう、ほとんどない。
……それでもいい。
いや、いっそ、会わなくても構わないのかもしれない。
会わなければ、仕事に集中できる。
そして、会わない時間を仕込みにしよう。
会えない間――リシェの庭を“俺”にする。
この庭がリシェそのものであるように。
リシェの庭を、俺そのものにしてしまおう。
土の色も、剪定の癖も、花の植え方も。
彼女が庭にいる時、無意識に俺を思い出すように。
リシェが「会いたい」と思ったその時だけ、いつでも会えるように、俺は準備しておく。
休暇申請は、いつでも使えるように残しておこう。
それ以外の余暇なんていらない。待機や睡眠なんかの生活時間さえあれば、それで足りる。
無理に会おうともしない。
意識させるようなことも、言葉に出す必要もない。
普段通りでいい。何も求めず、何も押しつけない。
むしろ素っ気ないくらいがいい。
沈黙の中にこそ、安らぎは生まれる。
カイルのように、せわしなく語らない。
情報をまき散らさない。
言葉で絡め取らない。
リシェの前でだけは、静かでいよう。静けさで、奴との差を作る。
カイルがまき散らす煩わしい囀りを、俺が中和してやる。
リシェが、俺との時間だけを“安らぎ”と感じるように。
……ああ。そういえば。アスティから聞いたんだった。
カイルも、俺と同じように――リシェと休暇を一日過ごす権利を手に入れたそうだ。
それで今頃、得意げに浮かれているのだろう。
グラント様に時間を奪われて、喚いて、喚いて、ようやく手にした権利だ。笑えるな。
あいつは、そうやって権利を与えてもらうことしか知らない。
……アスティにも布石を打とう。
目に余ることだけはさせないように。
カイルは口だけは達者だ。リシェを言いくるめ、甘やかし、押し流そうとする。
それが奴のやり方……だからこそ効くはずだ。
リシェを絡めとろうとするほど、その手を、首を縛りつける罠。
――俺のいない城の留守を、他の男に触れさせないために。もちろん、カイルがその筆頭だ。
鎖と首輪でつないで、吠えるだけ好きに吠えさせておく。餌を待つしかできない飼い犬にしてやる。
その間に、俺は前に進む。まっすぐ、リシェのもとへ行く近道を。
この恋の終わりに、辿り着いて――迎えに行く。




