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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
17章 顕現
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対峙 真っ黒い威嚇

昨日は怒涛だった。


何ひとつとして、俺の制御下にない日だった。


感情も、計算も、言葉も、すべてが予測不能だった。どれほど思考を巡らせても、リシェリアの一言で積み上げたものが吹き飛ぶ。理屈を整え、結論を出し、次の手を考えたはずなのに、彼女がこちらを見上げるだけで、俺の中の秩序は簡単に崩された。


リシェリアに怒り、泣かされ、恐れさせられ、その上、告白させられてしまった。


……翻弄された。


いつだって、リシェリアの前では自分の速度を保ち続けられていない気がする。けれど、その混沌の果てに、彼女も俺を好きだと――愛していると、言ってくれた。


それが恋ではなく、まだ慈愛の段階だということには、今は目を瞑れる。


だって、不可抗力でも勢いでもなく、抱き合った。


癒されるのに最適な姿勢だと、とんでもない理論で言いくるめて一方的に腕を回していた、あの特別礼拝室の時とは違う。あれは、俺の感情の暴走だった。一方的な救いで、彼女の困惑に甘えた時間だった。


でも昨夜は違った。


リシェリア自身の意思で、俺に触れ、俺を受け入れてくれた抱擁だ。互いの呼吸が交わるほど近く、鼓動が重なっていた。ただの慰めでも、同情でもない。意志ある接触だった。


その上、……彼女は俺を、そこまで拒まなかった。


――それは、変わらぬようでいて、決定的な一歩だ。


俺は、彼女に恋を教える。


感情の洪水に沈ませるのではなく、彼女自身が理解できる形に分解する。


温度、距離、脈拍、言葉、反応。


それらを一つずつ結び直していけば、まだ輪郭を持たないものにも、いずれ名が与えられる。


俺がふさわしいと――彼女自身の理性で選ばせてみせる。


祈りのようにではなく、選択の末に。


こうして考えると、不可抗力ではあるけれど、リシェリアに心の内を知られたことは、悪いことではない気がした。


今まで、恋心を先に晒した方が負け――ではないけれど、弱い手段だと思っていた。そもそも、感情を武器にすることを恥じていた。


でも、隠していたのが勿体なかった。


あの夜、あの涙、あの触れ方。どれもが彼女の変化を呼び起こしていた。そして俺自身の中にも、新しい手がいくつも浮かぶ。


打てる手が、たくさんある。


思考と感情の接続点を、ようやく掴んだ気がする。


……ああ、やはり“やりすぎないように”気をつけながら、身体的接触も増やしていこう。


彼女の心を壊さず、けれどきちんと刺激を与えるように。


その手段が、理論的にも恋愛的にも正しい。人の心は、言葉よりも身体で覚える。温度、脈拍、距離、呼吸。それらが発生させる生理的反応は、恋には欠かせない。そして愛の形は、結局その延長線上にある。


“形から入る”というのも、ありだ。


恋人らしいことをしてみることで、彼女の中に、まだ定義されていない“恋”という概念が、徐々に輪郭を得るかもしれない。


時には彼女の段階に合わせて、慎重に。


時には、大胆に。


リシェリアは変わり続けている。彼女も、自分を変えたいと願っている。その変化を、俺が導く。


――やってみよう。


この恋を、正しい形で、完成させてみせる。


窓の下。


夕刻の庭に、リシェリアの白い残像を探して、ふと思う。


……そうだった。


今、リシェリアはグラントのところに打ち合わせに行っているのだった。今日はもう、あの姿を見られないのか。


胸の奥が、妙に空洞を抱える。


一日顔を見ないだけで、もう落ち着かない。まったく、俺はどこまで依存しているんだろう。


庭には夕陽が斜めに差し込み、草の先が金色に光っていた。石畳の継ぎ目に伸びた小さな草花も、植え込みの陰も、柔らかな赤に染まっている。いつもなら、そこに白い髪が揺れている。風に透けて、光を含んで、花の間に立つ彼女の姿がある。


けれど今日はない。


ジェスの姿もない。代わりに目につくのは――夕陽に赤く染まる庭の中、潜むように立つ赤い頭。


セラン。


どうしてか、目に留まる。見たくもないのに、視界の中でひときわ鮮やかだ。


あの赤は、リシェリアの白に混ざることを知っているからだ。


俺はもう、リシェリアに、受け入れてもらえる男になった。こいつさえいなければ、左右を気にせずゆっくり歩める。そして俺との未来を選ばせることだって容易いはずなのに。


ゆっくりと、窓側の扉を開けた。


聖女の執務室にある、庭へと続く階段。普段はリシェリアしか使わない、ほとんど専用の出入口だ。


……別に、使用を禁じられているわけではない。ただ、他の誰も使わないだけだ。


だが今は、どうしてもその階段を下りてみたかった。

リシェリアの視界を、彼女の足跡を、少しでも追うように。


けれど同時に、その背徳感が甘く舌に残る。人の領域を侵すような、危うい感触。彼女が日々通る階段を、俺が踏む。たったそれだけのことが、妙に心を騒がせた。


足音が石段に響くと、案の定セランは振り向いた。

そして俺であることを確認した瞬間、眉間に皺を寄せる。露骨な敵意。


その顔を見て、胸の奥で黒い優越感がじわりと湧いた。


……ああ、いい。


お前が当然のように抱えている“リシェリア”の記憶に、俺の影を混ぜてやりたい。

そう思うと、愉快だった。


……もっと誇示したい。その気勢を削ぎ落としたい。


階段を降り切らず、上段から見下ろす位置に留まる。それだけで、支配の構図ができあがる。夕陽が背後から差し、俺の影が石段の下へ伸びていく。


「昨日、リシェリアと二人きりで――抱き合った」


わざと静かに言った。

セランの反応を計るために。

彼は小さく息を吐き、呆れを隠そうともしなかった。


「そんで?……そんなの、いつでも出来るけどな」


挑発でも受け流しでもない。本気でそう思っているらしい。

胸がざらつく。


「愛を伝えた。彼女も俺を好きだと、そう答えた」


言い返すように、言葉を重ねる。


昨日の光景が頭に蘇る。リシェリアの震える指。触れた温もり。互いに近づき、同じ空気を吸い、心臓の音が伝わるほど近くにいた時間。


それは確かに、互いに触れ合った瞬間だった。


反芻する。


それは彼女に届けるために必要なことだった。リシェリアはまだ心が幼い。愛と恋の違いを、自力では辿れない。


セランのように、待つことを美徳と勘違いしている鈍重さでは、彼女は前に進めない。

それは油断だ。付け入る隙だ。


「ああ。はじめは怖がらせていたもんな。ようやく同じ地面に来れたじゃないか」


セランは肩をすくめて、呆れ混じりに吐き捨てた。

くそ。ごく最初の頃の……態度を掘り返して切先を逸らされた。


事実だとしても――お前に言われる筋合いはない。


……別の札を切ろう。


「彼女から聞いてるよ」


俺は階段の手すりに手をかけ、少し笑ってみせた。


「お前の方は、リシェリアからの情けを断ったらしいじゃないか。今までの献身のお礼のつもりで申し出たらしいけど」


セランの瞳が、わずかに動く。

そのわずかな揺れだけで、胸の奥に黒い熱が差した。

リシェリアは何でも俺に話してくれる。俺を信頼している。その信頼の厚さを、お前にも知らしめてやりたい。


「家族として、きちんと線引きができている。君は立派だと思う」


皮肉で彩って讃える。

もう、セランに次の機会なんて与えない。


彼はほんの一瞬だけ目を見開いたが、すぐに平静を取り戻した。それでも、まだ噛みついてくる。


「はあ? 断ってねえよ。リシェは今も俺の女だ。焦って食い散らかす気がないだけだ」


その一言に、ぞっとするような生々しさを感じた。


それは、理屈ではなく本能の言葉だった。俺が積み上げようとしている段階や定義を、汚れた手で乱暴に掴んで引き寄せるような、野蛮な確信。


だが同時に、結局は手を出さなかったのだとも思う。

ならば、まだ負けていない。


すぐに口角を上げて応じる。


「それはどうだろうな? 俺はリシェリアに『恋を知りたい』と聞かれたんだ。お前が時期を逃している間に、俺が教えておくから安心してくれ」


互いの鼓動を確かめ合うような静寂が、脳裏に浮かぶ。


それは誰にも侵せない時間。セランには知られない、甘い実験。


「ははっ! 笑える。可哀想だな。それは俺のためなんだよ」


セランが、吐き捨てるように笑った。まだ勝てると思っている。虚勢の笑いだ。


だが、その余裕こそが崩壊の前兆だ。いずれ彼の言葉は裏返り、苦痛に変わる。


恋を教えるのは俺だ。

彼女の恋の定義に、最初に線を引くのも俺だ。

だから早く。負けを認めて離れろ。

お前さえいなければ、リシェリアはこちらに来る。


――セランとの仲は、永遠に進まない。


仲良くなれるはずもない。


それが、俺たちの構造だ。

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