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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
17章 顕現
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経過観察

窓辺の腰掛けに座ったまま、俺たちはまだ離れられずにいた。

彼女の手は俺の胸にあり、俺の腕はその細い体を囲っている。

先ほどまで荒れていた呼吸だけが、ようやく少しずつ落ち着いていく。

 

「リシェリア。俺を見てればわかるだろ?……心も恋も、制御なんて出来ないんだ」


静まり返った室内に、言葉が低く落ちた。

彼女の手をまだ胸に置いたまま、俺はそっとその上に自分の手を重ねる。

指先が少し震えている。

触れるたびに、鼓動が早まっていくのがわかる。


「いや……もしかしたら、君なら出来るかもしれない。けど、しないで欲しい」

 

ゆっくりと息を吸い、吐く。

 

「どんな小さな迷いも、記憶も、後悔も。心を捨てないでくれ。……捨てないことで、いつか違う未来が芽吹くかもしれない。そんな可能性が残るんだ」


リシェリアの瞳が、静かに揺れた。

その光を見ながら、自分の中の立場を思い出す。

俺は、彼女の指導係。

力の使い方を教える者であり、心の均衡を見守る者。

だからこそ、導くことを諦めたくない。

彼女が何を選ぶとしても、見届けてやりたい。


「リシェリア。俺は君が好きだ。愛してる」

 

声が掠れた。

それでも、逃げずに言葉を続ける。


「でも、ごめん。このあと、君を寝室に連れて行ったりはしない」


彼女がわずかに瞬いた。

その視線が、何かを探すように俺の顔を見ている。


悔しかった。

正直、断ることは、自分の気持ちを殺すほどに辛い。

腕の中にあるこの体を、欲求のまま求めないのは、己の存在を削ぐような痛みがある。

体を堕として始まる恋だって、確かにある。

けれど——それでは駄目だ。

それは彼女を守ることにはならない。


「安心していい。君にも、恋がわかるようになるまで……最後まで俺が手伝う」


自分でも笑えるほど、正気を保つのに必死だった。

心臓が痛い。

けれど、それでも言いたかった。


言葉にリシェリアが目を細めた。

まるで、楽しい思い出を懐かしむような。


「……最初の頃も、言ってくれてましたね。私が『わかりたいことが、わかるようになるまで付き合う』って。覚えてます」


日課を始めた時の会話だった。

俺がリシェリアと会話をする理由が欲しくて作った“日課”。

出会って短くても、二人の間にもちゃんと歴史がある。リシェリアの中に俺が生きていることが嬉しい。


「ああ、実験台になるとも言った。一緒に試そう。観察して、再現して、確かめて。そして君の恋を発見しよう」


これからも、やる事は同じだ。

そう思った途端、少しだけ勇気が持てた。


「そして、その……君が恋に落ちる相手が、俺になるように、これからも努力する。だから……選んでもらえたその時は」


少しだけ、笑ってみせた。

リシェリアの瞳に映る自分が、震えて見える。


「寝室まで、なんて狭い言葉じゃなくて——人生最後まで、共に来てくれ」


それが、俺のすべてだった。

祈りにも似た告白。

導く者としての誓い。

ひとりの男としての願い。


好きだ。

どうしようもなく、リシェリアのことが好きだ。


守りたい。

その魂も、力も、心も、すべてを。


そして、同時に——恐ろしい。

理解できない彼女が、怖い。

けれどその未知を、知りたい。

解き明かして見せる。


それも含めて愛してしまっている。

その言葉に嘘は一つもなかった。


「カイル……ありがとう、ございます」

 

リシェリアの唇が、微かに動いた。

呼ばれた名が、胸の奥を震わせる。

ほのかに、目を細める。

 

「……本当に、嬉しい。カイルの事、頼りにしています」


その声にどんな心が込められているのか。

測るように、見つめ合った。


瞳の奥に、静かな光が宿っていた。

まだ恋ではないかもしれない。

けれど、確かに心が応えてくれている。


きっと、伝わっている——そう信じた。

抱き合ったまま、呼吸を合わせるように、言葉を交わす。


もうそれは、ある種の儀式のようでもあった。

互いに心を整えるための、習慣。

日常を取り戻すための確認作業のような。


そうだ。

これもまた……日課だ。

俺たちが今まで積み重ねてきた事。

これからも続ける歩み。

リシェリアの中の未知を、生きる道にしていく作業だ。


「リシェリア、思ったことを言語化してみて」


指導の口調で言っても、もう緊張はなかった。

リシェリアは小さく頷いて、胸の中で呼吸を整える。


「こうしてるのは温かいです」


柔らかい声。

その言葉のひとつひとつが、胸の奥に染みていく。


「うん」


頷く声も穏やかになる。

彼女の感情を観測し、記録する。

それが俺とリシェリアの間に積み重ねてきた“対話”の形。

祈りにも似た実験。

絆の証。


「カイルが言ってた通り。心臓がすごく鳴ってます」


目を閉じて、彼女は静かに言う。

俺の胸の上で伝わる鼓動が、彼女の呼吸のリズムに重なっていく。

近すぎる距離で、互いの心臓が会話しているみたいだ。


「うん。……続けて」


目の前の彼女を、できる限り乱さないように見つめた。

自分の声が、彼女の集中を乱すのが怖い。

けれど彼女は、思い出したように目を開けて、こちらを見る。


「嫌じゃないですよ」


それだけで救われる。

そこにあるのは、いつものリシェリアの微笑み。

凍てついた世界を溶かすような笑みだ。


「よかった。死なずに済む」


軽口を返す。

この空気の中で、そんな冗談が言えることが嬉しかった。

以前なら、怖くて言えなかっただろう。


「……死んでしまうこと、本当にないですよね?」


心配そうに覗き込まれて、思わず息が詰まる。

その顔が真剣すぎて、つい茶化したくなる。


「もし、死ぬと言われたら恋してくれる?」


小さく膨れた頬。

呆れ顔の睨み。

その反応が可愛くて仕方ない。


「そんな顔をしないで」


宥めるように、後頭部に手をまわして撫でる。

指先に触れる髪は絹糸のようで、思わず毛束を取って口づけたくなった。


その衝動が動きに出た瞬間、


「あ。その、吸う? 嗅がれるの……本当は嫌なんです」


呆れ半分、本気半分の声。


「違う!今のは……いや、嫌ってそんな!」


瞬時に反撃を食らって、胸のど真ん中にダメージが入る。

ぐらつく心を抱えながらも、何とか息を整えて弁明する。


「これだけは許してくれ……呼吸を止められたら俺は……」


「本当だ、脈拍が減ってきましたね」


リシェリアはまるで観察記録でも取るように、落ちついた声で言った。

その無邪気さに、こちらがたじろぐ。


「……実験というより、まるで診察みたいだ」


呟くと、リシェリアが小さく笑った。


その笑い方に、ほっとする。

ああ、やっといつもの彼女だ。


「今日はもう少しだけ、このままでもいいですよ」


心なしか、楽しげな声音。

触れ合うことを拒まなくなったその一言に、胸が満たされていく。


「いや、やっぱり部屋に来てもらいたくなってきたな……」


本音が口からこぼれた。半分冗談、半分本気。

話し足りないし、離しがたい。そんな気持ちが言葉になっただけだ。


「終わりましょうか」


リシェリアの声はやさしく、しかし確かな区切りを告げる。

遮断の響き。それ以上を許さない静けさ。


「そんな!さっきは連れていってもいいって言ったじゃないか」


思わず情けない声が出た。

彼女はくすくすと笑い、肩を揺らす。


その笑顔が嬉しくて、悔しくて、

だけどどうしようもなく愛おしい。


壊れなかった。

この関係は、まだここにある。

笑いながら息をしている。


それでいい。

今はそれで、十分だ。


また明日から。

少しずつでいい。

ほんの一歩ずつでも、距離を縮めていこう。


俺はそう思った。

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