経過観察
窓辺の腰掛けに座ったまま、俺たちはまだ離れられずにいた。
彼女の手は俺の胸にあり、俺の腕はその細い体を囲っている。
先ほどまで荒れていた呼吸だけが、ようやく少しずつ落ち着いていく。
「リシェリア。俺を見てればわかるだろ?……心も恋も、制御なんて出来ないんだ」
静まり返った室内に、言葉が低く落ちた。
彼女の手をまだ胸に置いたまま、俺はそっとその上に自分の手を重ねる。
指先が少し震えている。
触れるたびに、鼓動が早まっていくのがわかる。
「いや……もしかしたら、君なら出来るかもしれない。けど、しないで欲しい」
ゆっくりと息を吸い、吐く。
「どんな小さな迷いも、記憶も、後悔も。心を捨てないでくれ。……捨てないことで、いつか違う未来が芽吹くかもしれない。そんな可能性が残るんだ」
リシェリアの瞳が、静かに揺れた。
その光を見ながら、自分の中の立場を思い出す。
俺は、彼女の指導係。
力の使い方を教える者であり、心の均衡を見守る者。
だからこそ、導くことを諦めたくない。
彼女が何を選ぶとしても、見届けてやりたい。
「リシェリア。俺は君が好きだ。愛してる」
声が掠れた。
それでも、逃げずに言葉を続ける。
「でも、ごめん。このあと、君を寝室に連れて行ったりはしない」
彼女がわずかに瞬いた。
その視線が、何かを探すように俺の顔を見ている。
悔しかった。
正直、断ることは、自分の気持ちを殺すほどに辛い。
腕の中にあるこの体を、欲求のまま求めないのは、己の存在を削ぐような痛みがある。
体を堕として始まる恋だって、確かにある。
けれど——それでは駄目だ。
それは彼女を守ることにはならない。
「安心していい。君にも、恋がわかるようになるまで……最後まで俺が手伝う」
自分でも笑えるほど、正気を保つのに必死だった。
心臓が痛い。
けれど、それでも言いたかった。
言葉にリシェリアが目を細めた。
まるで、楽しい思い出を懐かしむような。
「……最初の頃も、言ってくれてましたね。私が『わかりたいことが、わかるようになるまで付き合う』って。覚えてます」
日課を始めた時の会話だった。
俺がリシェリアと会話をする理由が欲しくて作った“日課”。
出会って短くても、二人の間にもちゃんと歴史がある。リシェリアの中に俺が生きていることが嬉しい。
「ああ、実験台になるとも言った。一緒に試そう。観察して、再現して、確かめて。そして君の恋を発見しよう」
これからも、やる事は同じだ。
そう思った途端、少しだけ勇気が持てた。
「そして、その……君が恋に落ちる相手が、俺になるように、これからも努力する。だから……選んでもらえたその時は」
少しだけ、笑ってみせた。
リシェリアの瞳に映る自分が、震えて見える。
「寝室まで、なんて狭い言葉じゃなくて——人生最後まで、共に来てくれ」
それが、俺のすべてだった。
祈りにも似た告白。
導く者としての誓い。
ひとりの男としての願い。
好きだ。
どうしようもなく、リシェリアのことが好きだ。
守りたい。
その魂も、力も、心も、すべてを。
そして、同時に——恐ろしい。
理解できない彼女が、怖い。
けれどその未知を、知りたい。
解き明かして見せる。
それも含めて愛してしまっている。
その言葉に嘘は一つもなかった。
「カイル……ありがとう、ございます」
リシェリアの唇が、微かに動いた。
呼ばれた名が、胸の奥を震わせる。
ほのかに、目を細める。
「……本当に、嬉しい。カイルの事、頼りにしています」
その声にどんな心が込められているのか。
測るように、見つめ合った。
瞳の奥に、静かな光が宿っていた。
まだ恋ではないかもしれない。
けれど、確かに心が応えてくれている。
きっと、伝わっている——そう信じた。
抱き合ったまま、呼吸を合わせるように、言葉を交わす。
もうそれは、ある種の儀式のようでもあった。
互いに心を整えるための、習慣。
日常を取り戻すための確認作業のような。
そうだ。
これもまた……日課だ。
俺たちが今まで積み重ねてきた事。
これからも続ける歩み。
リシェリアの中の未知を、生きる道にしていく作業だ。
「リシェリア、思ったことを言語化してみて」
指導の口調で言っても、もう緊張はなかった。
リシェリアは小さく頷いて、胸の中で呼吸を整える。
「こうしてるのは温かいです」
柔らかい声。
その言葉のひとつひとつが、胸の奥に染みていく。
「うん」
頷く声も穏やかになる。
彼女の感情を観測し、記録する。
それが俺とリシェリアの間に積み重ねてきた“対話”の形。
祈りにも似た実験。
絆の証。
「カイルが言ってた通り。心臓がすごく鳴ってます」
目を閉じて、彼女は静かに言う。
俺の胸の上で伝わる鼓動が、彼女の呼吸のリズムに重なっていく。
近すぎる距離で、互いの心臓が会話しているみたいだ。
「うん。……続けて」
目の前の彼女を、できる限り乱さないように見つめた。
自分の声が、彼女の集中を乱すのが怖い。
けれど彼女は、思い出したように目を開けて、こちらを見る。
「嫌じゃないですよ」
それだけで救われる。
そこにあるのは、いつものリシェリアの微笑み。
凍てついた世界を溶かすような笑みだ。
「よかった。死なずに済む」
軽口を返す。
この空気の中で、そんな冗談が言えることが嬉しかった。
以前なら、怖くて言えなかっただろう。
「……死んでしまうこと、本当にないですよね?」
心配そうに覗き込まれて、思わず息が詰まる。
その顔が真剣すぎて、つい茶化したくなる。
「もし、死ぬと言われたら恋してくれる?」
小さく膨れた頬。
呆れ顔の睨み。
その反応が可愛くて仕方ない。
「そんな顔をしないで」
宥めるように、後頭部に手をまわして撫でる。
指先に触れる髪は絹糸のようで、思わず毛束を取って口づけたくなった。
その衝動が動きに出た瞬間、
「あ。その、吸う? 嗅がれるの……本当は嫌なんです」
呆れ半分、本気半分の声。
「違う!今のは……いや、嫌ってそんな!」
瞬時に反撃を食らって、胸のど真ん中にダメージが入る。
ぐらつく心を抱えながらも、何とか息を整えて弁明する。
「これだけは許してくれ……呼吸を止められたら俺は……」
「本当だ、脈拍が減ってきましたね」
リシェリアはまるで観察記録でも取るように、落ちついた声で言った。
その無邪気さに、こちらがたじろぐ。
「……実験というより、まるで診察みたいだ」
呟くと、リシェリアが小さく笑った。
その笑い方に、ほっとする。
ああ、やっといつもの彼女だ。
「今日はもう少しだけ、このままでもいいですよ」
心なしか、楽しげな声音。
触れ合うことを拒まなくなったその一言に、胸が満たされていく。
「いや、やっぱり部屋に来てもらいたくなってきたな……」
本音が口からこぼれた。半分冗談、半分本気。
話し足りないし、離しがたい。そんな気持ちが言葉になっただけだ。
「終わりましょうか」
リシェリアの声はやさしく、しかし確かな区切りを告げる。
遮断の響き。それ以上を許さない静けさ。
「そんな!さっきは連れていってもいいって言ったじゃないか」
思わず情けない声が出た。
彼女はくすくすと笑い、肩を揺らす。
その笑顔が嬉しくて、悔しくて、
だけどどうしようもなく愛おしい。
壊れなかった。
この関係は、まだここにある。
笑いながら息をしている。
それでいい。
今はそれで、十分だ。
また明日から。
少しずつでいい。
ほんの一歩ずつでも、距離を縮めていこう。
俺はそう思った。




