愛の模索、恋の行方
少し遠い窓から陽が差し込む。
淡い光が、リシェリアの髪を透かして銀の縁を描く。
その姿は、まるで祈りの最中に時を止められた聖像のようだった。
静寂が、音のすべてを吸い取っていく。
空気が凍る。
呼吸すら、彼女を乱すのが恐ろしくなるほどに。
リシェリアが、何かを言おうとしていた。
唇が僅かに動くのを見た瞬間、
俺は心臓が跳ねる音まで聞こえるほど集中していた。
見逃してはならない。
彼女が、もう一度、こちらを見てくれるなら。
さっきまで失いかけた心の輪郭が、そこにあると信じたかった。
そして——
「カイル。恋って何ですか」
風が吹いた。
絹のような髪がふわりと流れて、俺の視界を覆う。
その向こうで、彼女の顔は見えない。
まず質問が理解できなかった。何を聞かれた?!
何を教えればいい?
あまりの混乱の俺を見て、リシェリアははにかみながら小さく補足した。
「……カイルは、恋をしていますよね」
……恋?
その通りだ。恋している。目の前の人に。
婚約してた事も、相手がいた事も確かに過去あったはずなのに、おそらく人生で初めて恋というものに嵌っている。
そして今、その人に聞かれている。恋を。
「は!?……え!……今?」
言葉にならない声が喉から漏れた。
理解が追いつかず弾けた。
頭の中に積み重ねてきた愛の告白の草案たちが、一瞬で、紙の城のように崩れ去る。
こんなとき、どう答えればいいんだ?
理屈も段取りも、考えていたのに――全部消えた。
「あ、ふふふ……すみません、唐突に。えっと、今じゃなくても。そう、いつでも大丈夫です」
静かに微笑んで、出口に向かって歩き出した。
終わりを告げるような穏やかさで。
行かせては、駄目だと思った。
確かに仕切り直してもいいのかもしれない。でも情報の……いや、感情の鮮度というものは失われる。
このままでは、わずかでも失われるものがある。
この瞬間の、彼女の興味を掴んでおきたい。
だから、考えるより先に手が伸びていた。
「……待って」
細い手首を掴んでいた。言葉は出ない。
喉の奥に何か詰まって、何もまとまらない。
それでも行かせたくない。
リシェリアは、そんな俺を見つめ、少しだけ首を傾けた。
そして、やわらかく笑って、窓際へと誘う。
「ちょっと、座りましょうか」
庭を見渡す窓辺。昼の光が石床にこぼれ、風の音と水源のせせらぎが混ざり合う。
裏庭には誰もいない。
ここには、彼女と俺の鼓動だけ。
「驚かせてすみません」
穏やかな声でそう言いながら、リシェリアは隅の腰掛けを指差した。
促されるままに腰を下ろすと、彼女は傍らに立ち、俺が落ち着くまで黙って待ってくれていた。
息を整える。
胸が痛い。
彼女を前にして、こんなにも無力になるとは。
「……ごめん。まず、意図を聞いてもいいかな」
もう取り繕うのをやめた。
まるで少年のように砕けた声だった。
リシェリアは指先を唇に当て、
首をかしげながら、少しだけ笑った。
「その前に。……カイルは、私のこと好きなのかなって思ったんですが、それはあっていますか?」
「げほっ……!」
言葉にならず、思わずむせた。
まるで肺に風が詰まったように。
リシェリアは慌てて近づき、涙目の俺の背を、そっと撫でた。
その仕草がやさしすぎて、息がさらに乱れる。
「間違ってたらいいんです。間違ってなくてもいいんです」
……なにもかもが、ままならない。
どこを見ても逃げ場がない。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、握っていた手に自然と力がこもった。
彼女は、俺がどうであってもいいと言った。
恋していなくてもいい、と。
それなのに——その声音は否定ではなかった。
胸が締め付けられる。
たぶん、今のこの瞬間が、一番怖い。
でも逃げるよりも、ここで言うべきだと、心が決めた。
「……もう大丈夫」
息を整える。
震える指を隠せないまま、それでも目だけは逸らさずに、彼女を見た。
「ちゃんと答えるよ。確かに俺は、恋を知っている。
君に恋をしている。リシェリア……君を、愛してる」
手が震える。
声も、心も、熱に溶けていくようだった。
ただ、彼女の瞳の奥に、自分が求めてきた答えを探した。
「……はい」
静かに頷いたリシェリアが、俺の震える手を包むように見つめ、ほのかに微笑む。
それは肯定の返事。
その一言で、すべてが赦された気がした。
嬉しいのに、胸の奥が痛い。涙が出そうになる。
あまりに神秘的で、あまりに美しくて、彼女が人間ではないように思えてしまった。
その笑みの奥に、本当に“彼女”がいるのか、確かめたいのに、手を伸ばせなかった。
「……何だか、変なこと言ってすみません」
その一言が出た瞬間、ああ、やっぱりリシェリアだ、と思った。
静謐な空気の中でも、彼女の声だけはやさしく滲んで届く。
気遣いの言葉を最初に口にするあたり、まるで自分が悪いことをしたような表情で。
「あのですね。私も、カイルのこと好きです」
言葉が落ちるたび、胸の奥がきしむ。
嬉しい。
嬉しいはずだった。
けれど次に続く言葉を聞くたび、少しずつ胸の奥が冷えていく。
「私のカイルに対するこの気持ちは、感謝で、愛だと思っています。
知識も生き方も、それに恋もしてくれて、お礼がしたいんです」
たどたどしく、考えながら話すその姿が愛おしくてたまらないのに、俺の胸の奥でひとつの確信が音を立てて崩れた。
——ああ。そういうことか。
彼女も、俺を大切に思っている。
信頼も、愛情だってある。
だけどそれは、俺が欲しいものとは違うっていて、これから感謝と言う名前の元、断られる。
……振られるのか。
虚脱の波が押し寄せる。
どうしようもなく、ただ彼女を見ていることしかできない。
だが次の瞬間、耳に届いた言葉はあまりに信じがたかった。
「いただいた気持ちに報いたいんです。……でもどうしたらいいのか、わからなくて。
だから、私が渡せるものは、何でも差し上げたい。
……それで、もし。例えば。カイルがそれをお望みでしたら……私を寝室に連れていただいても、構いません」
——は。
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
その言葉が意味を結ぶまでに、心が何度も転げ落ちて、ようやく底で止まった。
いや、そんなはずない。そんな段階を飛ばして!?
違う、違う。違う絶対に違うはずだ。
俺は試されている。冷静に考えればわかるはずだ。
「あ、ええと。あれだ、癒してくれるってことだね。それは嬉しいな……確かに今から特別礼拝室は利用申請出来ないしな。でも、流石に私室まで来てもらうのはちょっとね」
危ない、危ない。
うっかり色事を頭に浮かべてしまっていた。
誤解を口に出さずに済んだ。
「あ、いえ、違います。それでも構いませんが、その……本にも書いてありましたし、侍女の娘たちも。男性は恋をすると……次は、体でする交流がしたくなるんですよね」
少しだけ伏せられた睫毛。
ほんのりと頬を染めて、それでも真剣に言うその姿。
「性こ――」
「頼む、待ってくれ!」
固まる俺を前に、生々しい単語が出てきそうになって慌てて静止した。
想像の通りで合ってるのかよ。
え?リシェリアは俺に体を委ねると言っている……?
しまった。
ああ、俺は……完全に間違えていた。
アーレンス邸でなし崩しに始めた触れ合い。特別礼拝室でのひととき。
彼女に触れられることが嬉しすぎて、距離を詰めるたびに自制がきかなかった。
俺があの瞬間に持っていた欲のすべてを、リシェリアは感じ取っていたのだ。
そして――誤解させてしまった。
俺の望みが、彼女の身体だと思わせてしまった。そしてリシェリアは、それがそれが貨幣のように交換可能な手段のひとつだと思っている。
「……リシェリア」
喉が痛いほど、名前を呼ぶのもやっとだった。
申し訳なくて、悲しかった。
彼女がそう言えるのは、俺に恋してるからではなく、返すべきものと考えているから。
愛に対価が必要だと思ってここまで来てしまった、その無垢さが、胸を締めつけた。
「ごめん。俺が、勘違いさせてしまったかもしれない。嬉しいけれど……そういうのは、まだ早いと思う」
「……やっぱり、そうですか。……そうなんですね」
けれど、それでも彼女は逃げなかった。
わからないことから目を逸らさず、自分なりの答えを見つけようとしている。
それがどんなに不器用でも、そのままが彼女だった。
温かくて、誠実で、どこまでも揺らぎがない。
……だけどまだ、恋の炎のような熱は、彼女の声の中に宿っていなかった。
俺は息を吸って、かすかに笑った。
「うん。何か……続きがあるんだよね?」
促す声が自然に出ていた。
気づけばもう、これは授業の続きのようなものだと思っていた。
彼女の成長を見届け、導くことが、まだ俺には残されている。
リシェリアは小さく頷いた。
「カイルが、悲しそうな顔をしているのは、きっと私の心に、恋がまだないからなんでしょう?」
リシェリアは俺の心情を的確に見抜いて、言葉をつづった。
「セランにも、同じように聞いたことがあるんです」
そして最後に聞きたくもない情報も付け加えて。
ああ――やっぱり。どこまでもリシェリア。
恋敵の名前をあっさりと挙げてくるあたりが特に。
体すら許してくれようとしたのも、……俺だけにじゃない。
俺は、彼女の唯一になれてはいない。
胸の奥が、ちくりと痛む。
「でも、断られました。……難しいですね。今の私じゃまだ、足りないみたいです」
「そうだろうな」
思わず口の中で呟いた。
セランのことは、正直嫌いだ。
だが、求めているものだけはわかる。彼の望むのも、優しく緩い理解ではない。公平な慈しみでもない。
ただひとつ、独占できる恋の一瞥――それだけだ。
リシェリアにはきっと過去になにかがあった。何かが壁になって彼女の心の成長を阻害している。
「もし恋が出来なかったら。ずっとこのままだったら、何も返せない。この先も貰うだけになってしまう。早く、普通になりたい、正解が欲しいんです……」
リシェリアは震えるように自分を抱いた。世界から切り離されることを怯えるように。
どこから手を付けたらいいのだろう。
セランにすら許してないなら。まだ、リシェリアは誰のものでもない。
……今の無防備な隙に、これが恋だと教えてしまえばいいのかもしれない。
そんな悪い考えがよぎらないわけもない。
だって、たとえ癒して包んで、手取り足取り恋することを教えたとして、その視線が俺を見るとは限らないんだから。
俺の手を取ってくれる未来。その道程が、果てしなく遠く思えた。
けれど、それでも歩みは止められない。
俺には、彼女を導く責務がある。
「俺も、方向だけは知っている。でも全部掴んでるわけじゃないんだ。その答えを探している途中なんだと思う」
口にした瞬間、リシェリアの瞳がこちらを見つめた。
「だから君に教えることは出来ない。正解なんてないから。リシェリアが、体験して見つけたものだけが答えになるんだ」
「だめ。それが期待に応える答えじゃなかったら、困ります。恋に、ちゃんと等しいものを返したいんです……。だから、正しいことが……知りたい」
俺が教えないという言葉に、小さく頭を振る彼女。
俺は立ち上がり、一歩だけ近づく。
胸の奥で鼓動が鳴る。
リシェリアの手を取って、そっと自分の左胸に導いた。
「仕方ない。……少しだけ共有しようか」
彼女の指先が布越しに触れる。
心臓の音が二人のあいだで響く。
「これが、恋だ。相手の近くにいるだけで、心臓が湧き立って震える。発汗、冷感、のぼせ。思考は混乱して、まともな言葉も出なくなることが多い」
リシェリアの瞳が、少しだけ揺れる。
その瞬間、思わず腕を伸ばし、抱き寄せた。
胸の鼓動が彼女の頬に伝わる。
初めて距離がなくなったときの、あの早鐘。
熱が移り、体温が混ざる。
「感覚は鋭敏になり、相手のことを考えるだけで幸福感が広がる。触れられれば、快感がある。……逆に、否定されたり叶わなければ、心臓が締めつけられるほど痛むんだ」
俺はリシェリアの手を取り、頬へと導いた。
その小さな手が触れた瞬間、視界の端が滲んだ。
泣きそうに、眼尻が熱くなる。
ついこの前も、似たような瞬間があった。
けれどあの時は、彼女はいなかった。
今はここにいる。
心臓が、確かにリシェリアを知っている。
「衝撃で心臓が止まって死んでしまうかもしれないから、“カイルのこと嫌い!”とか、“気持ち悪い!”とか……特に今は。あまり強いことは言わないでくれると助かる」
情けなくも本音だった。
すると、リシェリアが目を丸くして、それから小さく肩を震わせて笑った。
「これをいつか君自身の体で、感じる日が来るよ。そこまで連れて行く」
胸に顔を埋めたまま、くすくすと。
柔らかく笑うその音が、心の奥に沁みて、涙になりそうだった。
すみません5個くらい誤字がありました。




