解
修練室。祭祀庁の奥、冷えた石壁に囲まれた広間。
人の気配はなく、灯は私の吐息とともに揺れている。
また――良くない力の使い方をしてしまった。
掌の上で溶けた氷の粒が、じわりと床に染みていく。
冷えた水が足元を濡らすたびに、胸の奥もひやりと冷たくなる。
いくら制御できるようになったと思っても、心が揺れると、力も揺れる。
私はここにいなければいい、そう思って集中した。
意識を一歩引いて、自分の体を見えるように。
氷の壁で世界から私を遠くした。
そうすれば、何があっても冷静でいられるって。
でも、また……間違えていた。
私は冷静になれたんじゃない。迷わなくなったんじゃない。……考える事をやめて、閉ざしてしまっただけだ。
かつての私なら、それで良かった。
怖いことが終わるまで心を閉ざして、終わった頃に目を開ける。
攫われたはずなのに、人気ない静かなところにいた。
暴力を振るわれそうになったのに、誰もいなくなっていた。
それで済んだ。
止める人なんていなかった。セランはそんな出来事を否定したりしない。むしろ褒めてくれさえしてた。
セランが少し大きく強くなってからは、未然にそんな事が起きないように手を尽くしてくれたから。
だから……ずっと、心を閉ざす事は正しいと思っていたのに。
「私、良くないことをしたんですね」
今ですら、無感情に大樹を、この国を傷つけようとした。
「私……良くないことを、たくさんしてきたみたいです」
セランが暴力で排除してくれた危険は覚えている。その怪我はなるべく治してから逃げてきた。
……でも私が一人で何とかしてきたときは?
攫った人たちは。殴ろうとしていた怖い人はどうなったの?
……思い至らずに、気がつかずに、ここまできてしまった。
こんなの冷静なんかじゃない。冷淡ですらない。ただの暴走だ。
「昨日だって……大樹の根を。勝手に切ろうとした。どうなるのかも、わからないのに。何も思わずに」
頭の中で考えた言葉はぽつりと零れた。
自分でも信じられなかった。
止められなければ、本当に切っていた。
何に繋がっているのかも知らずに。
何を失うのかも考えずに。
ただ、それが正しいと思って。
あれは失敗じゃない。間違った判断ですらない。
何もわからないまま、正しいと思い込んでいたことが怖かった。
「あ。……あの!やっぱり。私は、ここにいる資格が……ここに、いられません」
きっと……これも違う。
だって。目があったカイルは悲しい顔をしているから。
でもここにいたら……また、悪い事を起こしてしまうかもしれない。
出ていかないとだめだ。
ここにいたらカイルもアスティも。周りの人たちも。
セランだって連れて行くべきじゃないかもしれない。
気持ちが勝手に足を動かそうとする。
じり……と逃げようとする足元の圧が音を立てた。
「リシェリア」
カイルは私の肩を掴み、痛いほどに抱き寄せた。
泣きそうな顔で。
ううん。泣いていたのは心の方だと、すぐにわかった。
「逃げるな。自分をしっかり持って、離しちゃだめだ」
「……!」
その声が震えていた。
怒鳴るでもなく、叱るでもなく、それでも叱ってくれている。
「去らなくていい。俺が見ている。あの時、君がそばにいてくれるって言ったんだろ」
カイルが言ったのは、この間、すごく落ち込んでいた時に、私が言ったこと。
……あんなの慰めなのに。私は何も救ってないのに。
「いなくならないで欲しい。俺がそばにいる。……これからは、間違わないようにちゃんと。俺が見ているから」
私を責めるのではなく、私を失うことを責めた。
それはとても優しくて、厳しくて……やっぱり優しい。
「カイル……」
ああ――この人に出会えたことはいいことだ。
私は聖女じゃないけれど、聖女になりたい。
信じてくれている、この人のために。聖女にならないといけない。心の底から、そう思った。
私は自然に、その腕を抱き返していた。
あたたかくて、痛くて、懐かしい。人のぬくもり。
そして、ようやく気付いた。
私、怖かったんだ。
処罰されることじゃない。追い出されることでもない。私自身が。昨日の石室にいた私が。
何も迷わず、何も怖がらず、大樹の根を切ろうとしていた私が怖い。
私のはずなのに、遠くて知らない人に見えた。
……もし、あれが本当に私の意思なら。私こそ魔女だ。
その考えが、今になって胸を締め付けた。
だから、この腕はあたたかかった。
まだここにいていい。やり直せると言ってくれている。
この人は、私を赦している……愛してくれているのだと思う。
そうなのだと、素直に理解できた。
今までは遠い響きにしか思えなかったのに、今は心の奥に、やさしく沈んでいく。
……そしてそこに、きっと私への恋もある。
温かくて優しいのに、動悸が早くて。私の奥の奥まで見ようとしてくれる。だから、私の弱いところに辿り着いた。
恋というものがどういうものか、まだ、掴めていない。でも少しだけ、感じた気がした。
でも――きっと私には、カイルがくれているほどの思いじゃない。
もらいすぎている。追いつけていない。釣り合わない。
……セランも、私を愛してくれている。恋してくれている。
真っ直ぐ『そうだ』と言ってくれていた。『番いにしたい』と求めてくれた。
けれど私は、まだきっと、恋だと答えられない。
私が今、カイルに持っている気持ち。
これは安心なのか。信頼なのか。救われたという気持ちなのか。
どれもカイルがくれたものに似ていて、少しずつ違う気がした。
けれど、カイルは知っている。
少なくとも、私よりずっと、その答えを知っている。
セランは「すればわかる」と笑って区切ったけれど。私はちゃんと見つけなきゃいけないんだ。
伸ばされている手を掴むか、離すかどうかを。
カイルは、いつだって私を理解しようとしてくれる。
私が探そうとする答えを、一緒に見つけようとしてくれる。きっとこれも、教えてくれる。
見捨てず、笑わず、まっすぐに。
だから、訊ねよう。聞いてしまおう。
「カイル。恋って何ですか」
風が通り抜ける。
窓から差し込んだ淡い光が、揺れる髪を照らす。
私の髪がふわりと舞って、視線を遮った。
風の中で、カイルの顔が一瞬見えなくなる。
「……カイルは、恋をしていますよね」
私の声が届いたのだろうか。聞こえたのだろうか。
風が静まり、目の前の景色が戻る。
そこに立っていたカイルは、見たことのないほど取り乱していた。口に手を当て、目を丸くして、声にならない息を吐いている。
「は!?……え!……今?」
カイルの顔が一気に紅潮する。
目は泳ぎ、肩がこわばり、答えを探しては、どこにも見つからないように詰まっていた。
こんなカイル、見たことがない。
私の胸の中で、何か柔らかいものが解けていく。
驚きと愛おしさと、くすぐったさが混ざって、声を抑えようとしても、笑いがこぼれた。
「あ、ふふふ……すみません、唐突に。えっと、今じゃなくても。そう、いつでも大丈夫です」
そう言うと、カイルの視線がさらに迷子になって、
ますます顔を覆ってしまった。
私は、これからも迷うのかもしれない。カイルも知らない道かもしれない。
それでもカイルは最後まで、きっと見放さないでくれる。
だからこの推測は間違ってもいい。間違ってなくてもいい。
カイルは、答えが出るところまで一緒に歩いてくれる。




