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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
17章 顕現
217/242

修練室。祭祀庁の奥、冷えた石壁に囲まれた広間。

人の気配はなく、灯は私の吐息とともに揺れている。


また――良くない力の使い方をしてしまった。


掌の上で溶けた氷の粒が、じわりと床に染みていく。

冷えた水が足元を濡らすたびに、胸の奥もひやりと冷たくなる。

いくら制御できるようになったと思っても、心が揺れると、力も揺れる。


私はここにいなければいい、そう思って集中した。

意識を一歩引いて、自分の体を見えるように。

氷の壁で世界から私を遠くした。


そうすれば、何があっても冷静でいられるって。


でも、また……間違えていた。


私は冷静になれたんじゃない。迷わなくなったんじゃない。……考える事をやめて、閉ざしてしまっただけだ。


かつての私なら、それで良かった。

怖いことが終わるまで心を閉ざして、終わった頃に目を開ける。


攫われたはずなのに、人気ない静かなところにいた。

暴力を振るわれそうになったのに、誰もいなくなっていた。


それで済んだ。

止める人なんていなかった。セランはそんな出来事を否定したりしない。むしろ褒めてくれさえしてた。


セランが少し大きく強くなってからは、未然にそんな事が起きないように手を尽くしてくれたから。


だから……ずっと、心を閉ざす事は正しいと思っていたのに。


「私、良くないことをしたんですね」


今ですら、無感情に大樹を、この国を傷つけようとした。


「私……良くないことを、たくさんしてきたみたいです」


セランが暴力で排除してくれた危険は覚えている。その怪我はなるべく治してから逃げてきた。

……でも私が一人で何とかしてきたときは?

攫った人たちは。殴ろうとしていた怖い人はどうなったの?


……思い至らずに、気がつかずに、ここまできてしまった。


こんなの冷静なんかじゃない。冷淡ですらない。ただの暴走だ。


「昨日だって……大樹の根を。勝手に切ろうとした。どうなるのかも、わからないのに。何も思わずに」


頭の中で考えた言葉はぽつりと零れた。

自分でも信じられなかった。

止められなければ、本当に切っていた。


何に繋がっているのかも知らずに。

何を失うのかも考えずに。


ただ、それが正しいと思って。


あれは失敗じゃない。間違った判断ですらない。

何もわからないまま、正しいと思い込んでいたことが怖かった。


「あ。……あの!やっぱり。私は、ここにいる資格が……ここに、いられません」


きっと……これも違う。

だって。目があったカイルは悲しい顔をしているから。


でもここにいたら……また、悪い事を起こしてしまうかもしれない。


出ていかないとだめだ。

ここにいたらカイルもアスティも。周りの人たちも。

セランだって連れて行くべきじゃないかもしれない。


気持ちが勝手に足を動かそうとする。


じり……と逃げようとする足元の圧が音を立てた。


「リシェリア」


カイルは私の肩を掴み、痛いほどに抱き寄せた。


泣きそうな顔で。

ううん。泣いていたのは心の方だと、すぐにわかった。


「逃げるな。自分をしっかり持って、離しちゃだめだ」


「……!」


その声が震えていた。

怒鳴るでもなく、叱るでもなく、それでも叱ってくれている。


「去らなくていい。俺が見ている。あの時、君がそばにいてくれるって言ったんだろ」


カイルが言ったのは、この間、すごく落ち込んでいた時に、私が言ったこと。


……あんなの慰めなのに。私は何も救ってないのに。


「いなくならないで欲しい。俺がそばにいる。……これからは、間違わないようにちゃんと。俺が見ているから」


私を責めるのではなく、私を失うことを責めた。

それはとても優しくて、厳しくて……やっぱり優しい。


「カイル……」


ああ――この人に出会えたことはいいことだ。


私は聖女じゃないけれど、聖女になりたい。


信じてくれている、この人のために。聖女にならないといけない。心の底から、そう思った。


私は自然に、その腕を抱き返していた。

あたたかくて、痛くて、懐かしい。人のぬくもり。

そして、ようやく気付いた。


私、怖かったんだ。

処罰されることじゃない。追い出されることでもない。私自身が。昨日の石室にいた私が。


何も迷わず、何も怖がらず、大樹の根を切ろうとしていた私が怖い。

私のはずなのに、遠くて知らない人に見えた。

……もし、あれが本当に私の意思なら。私こそ魔女だ。


その考えが、今になって胸を締め付けた。


だから、この腕はあたたかかった。

まだここにいていい。やり直せると言ってくれている。


この人は、私を赦している……愛してくれているのだと思う。


そうなのだと、素直に理解できた。


今までは遠い響きにしか思えなかったのに、今は心の奥に、やさしく沈んでいく。


……そしてそこに、きっと私への恋もある。


温かくて優しいのに、動悸が早くて。私の奥の奥まで見ようとしてくれる。だから、私の弱いところに辿り着いた。


恋というものがどういうものか、まだ、掴めていない。でも少しだけ、感じた気がした。


でも――きっと私には、カイルがくれているほどの思いじゃない。


もらいすぎている。追いつけていない。釣り合わない。


……セランも、私を愛してくれている。恋してくれている。


真っ直ぐ『そうだ』と言ってくれていた。『番いにしたい』と求めてくれた。


けれど私は、まだきっと、恋だと答えられない。


私が今、カイルに持っている気持ち。

これは安心なのか。信頼なのか。救われたという気持ちなのか。

どれもカイルがくれたものに似ていて、少しずつ違う気がした。


けれど、カイルは知っている。

少なくとも、私よりずっと、その答えを知っている。


セランは「すればわかる」と笑って区切ったけれど。私はちゃんと見つけなきゃいけないんだ。


伸ばされている手を掴むか、離すかどうかを。


カイルは、いつだって私を理解しようとしてくれる。

私が探そうとする答えを、一緒に見つけようとしてくれる。きっとこれも、教えてくれる。

見捨てず、笑わず、まっすぐに。


だから、訊ねよう。聞いてしまおう。


「カイル。恋って何ですか」


風が通り抜ける。


窓から差し込んだ淡い光が、揺れる髪を照らす。

私の髪がふわりと舞って、視線を遮った。


風の中で、カイルの顔が一瞬見えなくなる。


「……カイルは、恋をしていますよね」


私の声が届いたのだろうか。聞こえたのだろうか。


風が静まり、目の前の景色が戻る。


そこに立っていたカイルは、見たことのないほど取り乱していた。口に手を当て、目を丸くして、声にならない息を吐いている。


「は!?……え!……今?」


カイルの顔が一気に紅潮する。


目は泳ぎ、肩がこわばり、答えを探しては、どこにも見つからないように詰まっていた。


こんなカイル、見たことがない。


私の胸の中で、何か柔らかいものが解けていく。

驚きと愛おしさと、くすぐったさが混ざって、声を抑えようとしても、笑いがこぼれた。


「あ、ふふふ……すみません、唐突に。えっと、今じゃなくても。そう、いつでも大丈夫です」


そう言うと、カイルの視線がさらに迷子になって、

ますます顔を覆ってしまった。


私は、これからも迷うのかもしれない。カイルも知らない道かもしれない。


それでもカイルは最後まで、きっと見放さないでくれる。


だからこの推測は間違ってもいい。間違ってなくてもいい。


カイルは、答えが出るところまで一緒に歩いてくれる。

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