聴取
倒れた翌日、リシェリアは、まるで何事もなかったかのように出仕してきた。
朝の聖女執務室には、いつも通りの光が差し込んでいる。窓辺の若葉が揺れ、机の上に積まれた書類の端を淡く照らしていた。だが今日、俺は執務卓には向かわなかった。
出仕してきたリシェリアを迎えると、そのまま応接用の椅子を示す。
顔色は良い。歩みもまっすぐで、眠れなかった様子も、疲労の気配もない。昨日の蒼白さが嘘のように、控えめに微笑む彼女は、ただの少女のように見えた。
「そこに座ってくれ」
普段なら、向かい合って書類を整理する時間だ。けれど今日は違う。
リシェリアは少し不安そうな顔をしながらも、素直に腰を下ろした。
茶を運んできたヘンリクへ視線を向ける。
「ありがとう。あとはいい」
短く告げると、彼は何も聞かず、一礼して下がった。
サフィアにも席を外してもらう。扉が閉まり、人の気配が遠ざかっていく。さらに外の警護にも少し距離を取らせた。
万一にも会話が漏れないように。
ここから先は、秘奥である石室の話だ。
聖女の振る舞いへの叱責であり、異常な力の行使についての確認でもある。そして何より、昨日、俺の目の前で起きた理解不能な現象についての話だった。
リシェリアは背筋を伸ばして座り、どこか不安そうに俺を見ている。
俺は一度だけ息を吐いた。
曖昧にはできない。
どれほど彼女を大切に思っていても、今日だけは向き合わなければならなかった。
「昨日は、申し訳ありませんでした」
リシェリアは申し訳なさそうに肩を落とし、しゅんとした顔で頭を下げた。その姿は、昨日の神がかりの状態とはまるで別人だった。
柔らかく目を伏せる、俺の好きなリシェリア。
けれど、俺はそれに溺れるわけにはいかなかった。どれほど惹かれていても、ここで曖昧にしてはいけない。
「昨日はなぜ、勝手に動いたんだ」
一拍置いて、できるだけ冷静に、硬い声で尋ねる。
彼女の力は、もう俺たちの理解を越えている。だからこそ、統制が必要だ。感情ではなく、秩序で支えなければならない。
「何かに酔っていたのかと思った。力に、あるいは自分の万能感に。理由如何によっては厳正な罰を覚悟してほしい。管理下を抜けて勝手に振る舞う聖女など、この国にはいらないんだ」
自分でも胸が痛むほど、強い言葉だった。
だが、必要だった。
リシェリアは俯き、少し唇を震わせてから、静かに言う。
「……正直、自分でもわからないんです。上手くやろう、カイルに危ない目に遭わせたくない――最初にそう思っていたことだけは、覚えています」
その声は震えていたが、どこか透き通っていた。
「夢の中のように、勝手に体が動いたかのようで……言い訳にしか聞こえないかと思います。申し訳ありません」
そして、深く頭を下げた。
「もしこのことで処罰されて……追放されても、致し方ありません」
その瞳に、嘘はなかった。
ただの言い訳でもない。
彼女自身、本当にわからないのだ。
それ以上、怒ることはできなかった。
顔だけはかろうじて厳しさを保っていても、心の底ではどうしても許してしまう。制度を語りながら、俺は最初から彼女を罰することなどできないと分かっていた。
――そもそも、追放なんてできるはずがない。
彼女を失えば、大樹を救える者はすぐには見つからない。アスティがリシェリアを見つける以前にも、捜索隊は何年も動いていたのだから。
その点、彼女自身にとっては、出ていくだけなら任務完了時の褒賞金を失う程度のことだ。過去の生活を考えれば、それすら大した痛手ではないはずだ。
今のリシェリアは、以前よりずっと異能を使いこなし、礼儀作法も身のこなしも令嬢としてほとんど完成している。何なら国境を出た瞬間、彼女に面談や縁談を申し込んできていた国外の有力者たちが、こぞって招致するに違いない。
一方で、我が国は中枢たる大樹の構造や秘密をよく知る人物を失うことになる。
通常なら、秘密を保持する誓約を課す。だが、そういう人物が罪人として処分される場合、一般には口にしようとすれば記憶が潰れるような、異能による枷を施されることになる。
……そもそも、それが可能だろうか。
よしんば出来たとしても、あれほどの異能の使い手が、その枷を解けないと言えるのか。
出来ないと判断されたら。
軟禁か、処――
そこまで思考が滑った瞬間、吐き気に近い嫌悪が込み上げた。
そんなことは、俺が耐えられない。
リシェリアがこの国で笑っていない未来など、考えられなかった。
悪い想像が次々と駆け巡り、指先がかすかに震える。
だめだ。
まだそんなことを考える段階ですらない。
事実だけを積み重ね、理解を進める。次に同じことを起こさないための落としどころを見つけなければならない。
「……わかった。謝罪を受け入れる。今日のところは許そうと思う。だが、二度としないでくれ」
そう言うと、リシェリアはほっとしたように緊張を解いた。
ほんの僅かに泣きそうな顔。
それを見た瞬間、胸の奥がふっと軽くなる。
けれど、理性はまだどこかでざらついていた。
「……少し、良い空気でも吸わないと保たないな」
雰囲気を変えたくて、ぎこちなく軽口を叩いた。誘い込むように腕を広げ、わざと笑って見せる。
特別礼拝室でしていた、あの馬鹿げた振る舞いを思い出させるように。
「え、あ……。……はい。わかり、ました」
リシェリアは唐突さに一瞬固まり、それから仕方なさそうに立ち上がった。素直に、俺の腕の中へ来ようとする。
「ここは執務室だ。冗談だよ」
あまりに素直で、俺の方が当惑した。
あの頃でさえ、彼女はもう少し俺に苦言を呈してから流されていたのに。
「あ、そ、そうですか。そうですよね」
さすがに理解したのか、リシェリアが小さく微笑む。
ようやく肩の力が抜けたのがわかった。
……良かった。
こんな時に使って笑える思い出になったのなら、俺の恋煩いにも、少しは使い道があったらしい。
気持ちが落ち着くにつれて、罪悪感の奥から、昨日の異常な現象への興味が顔を出した。
あれほどの力。
理屈を知りたい。
原理を知りたい。
特に、あの転写だ。
図面に意思の情報を刻むなど、あり得ない。
もし再現できるなら、どれほど有用なことか。
「そういえば――」
机の上に、昨日の図面を広げる。
「この文字を書き付けたのは、どうやった? あれほど精密な記録、簡単にできるものなのか?」
「え……これを、私が?」
リシェリアは驚いたように目を瞬かせた。
「覚えていません……わかりません」
本当に分からないという顔だった。
怯えも、隠し事もない。
彼女は図面に顔を寄せ、指先でそっとなぞる。
「筆跡も、私の字ではないです。それに……この部分の言葉、私には意味がわからない。知らない言葉です」
言葉を失った。
確かに、それは古い学術用語だった。
王立学院の古典課程でも扱わないほどの旧語。
平民出身で、読み書きもまだ完全ではなかったはずの彼女が、知るよしもない語彙だった。
あり得ない。
だが、確かにそこに書かれている。
彼女の手で記されたはずの図面の上に。
知らないはずの語彙。
違う筆跡。
失われた記憶。
昨日の、あの冷たく乾いた瞳。
胸の奥がざわめいた。
未知への畏怖と、愛しいものへの恐怖とが、同時に押し寄せてくる。




