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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
17章 顕現
214/244

変容

特別礼拝室での“二人きり”の時間を失ってから、しばらく経った。


代わりに与えられたのは、月に一日程度、聖女としてではなく、一人の女性としてのリシェリアと過ごせる自由な時間だった。


それは、確かに十分だった。少なくとも、俺の心の均衡を保つには。


以前とは違い、私的な時間を共有することは、俺と彼女の心の距離を確かに近づけてくれた。その効果は、日々の空気にまで逆流するように滲み出している。前よりも自然に言葉が噛み合うようになり、ふとした瞬間に目だけで意思が届くことも増えた。


共に歩く道すがら、季節の話をする。庭で小さな発見を喜び合い、時には本の話をして笑い合う。そういう何でもない会話のすべてに、寛ぎがあり、親しみがあり、何より彼女の心からの笑顔があった。


それだけで、自分でも驚くほど冷静にいられる。


焦燥に煽られるような高揚も、胸を焼く苦しさも、抑えがたい衝動もない。


……もちろん、俺も男だ。


今でも心の半分くらいは、あの甘い時間に取り残されている。静かで、蜜のように濃かった特別礼拝室の空気の中に。


身じろぎすら感じ取れるほど近い距離。リシェリアの困ったような顔。目を逸らすような戸惑い。小さな恥じらい。腕の中に閉じ込めるように過ごした、あの時間の感触。


今でも、完全には抜けていない。


……正直、自分でもどうかしていたと思う。


いや、理性を保てていたこと自体、奇跡に近い。“好きな女性しかいない空間”というものは、あまりにも危険だった。


本来、もっと段階を踏むべきなのは、少し考えればわかることだった。順を追って、時間と関係を重ねて、彼女と一緒にそこへ辿り着くのを丁寧に待つべきだった。


グラントとの婚約のせいで、焦っていたのだと思う。


……いや、焦りというより、あれはただの渇きだったのかもしれない。


けれど、改めて気づいた。


いちばん大事なのは、彼女がちゃんと笑っていることだった。


どんな表情にも勝る、心の底からの微笑み。小さな幸福に包まれた、あの温もりを帯びた笑顔。


それを見た瞬間、ああ、自分はこの人に救われているのだと実感できた。


だから思う。


また次の逢瀬の時間も、リシェリアの笑顔でいっぱいにしてみせる。


とはいえ、諦めたわけじゃない。


いずれまた、あの時間のような瞬間が巡ってくる日は、必ず来る。もっと穏やかで、もっと自然で、彼女の心がそこに溶けてくるような、そういう甘い時間が。


それまでなら、待つことはできる。


彼女が喜んでくれる限り。


だというのに。


今日の彼女は、その思いにあまりにも相反していた。


今日は何度目かになる石室への入室だった。


控えの前室に立っている間から、彼女には張り詰めた気配があった。だが同時に、どこか浮世離れしていた。


生身の少女の緊張ではない。


神域の現象として、そこに在るような静けさ。圧倒的で、澄み切っていて、こちらの呼吸まで整えさせられるような気配。


……今日は、早いな。


リシェリアが聖女として力を行使する時、とりわけ集中している時、そこには彼女らしい呼吸の柔らかさも、笑みの余韻も、困ったように揺れる睫毛の影も、まるで存在しなくなることがある。


代わりに現れるのは、徹底した静謐と冷気。


その瞳には、水面のような青すら感じられない。曇った氷の結晶のような、無色に近い光が浮かぶ。


神がかり状態。


その言葉が一番馴染む姿になる。


こうなっている時、彼女は静謐で、神秘的で、誰より美しい。けれど、近寄りがたく、瑞々しい彼女の生命感は遠い。


――だから俺は、いつもの彼女の方が好きだ。


かと言って聖女としての責務に必要な姿に好き嫌い言っだところで仕方がない。

いつも通り切り替えて、石室の入り口に、彼女を導こうとした。その瞬間だった。


「カイル」


温度のない声が、俺の足を止めさせた。


「うん?」


「今日は、ここで待っていてください」


名指しされたのに、まるで誰でもない者に告げるような口調だった。声だけではない。視線もまた冷たかった。


その瞳は、あのリシェリアの、透き通る空のような青ではない。一切の感情を拒絶する、曇った氷のような色。


今日は特に圧力がある。見るものすべてを凍らせるような冷たさだった。


……俺は、思わず息を呑んだ。


彼女は一歩だけ先に出て、振り返らずに告げる。


「見ていてくださいね。やってみせます」


そのまま手をかざした。石室の入り口が閉ざされる。

不可視の“板”が、俺の前に現れた。まるで厚いガラスのように、見えないのに確かにそこにある。


「えっ――」


手を伸ばしても、進まない。通れない。

彼女は俺を、完全に締め出したのだ。


闇の中へ進むリシェリアの背中が、ふと見えなくなる。


焦って、知覚を切り替えた。


神殿の奥――“光の根”の聖域の中で、リシェリアはまるで異世界の住人のように悠然と進んでいた。


足元には、水脈に絡むはずの根が這い、呼吸を濁す湿気が満ちているはずだった。床は不安定で、枝根や石の隆起がいくつもある。普通なら、一歩ごとに足を取られ、慎重に進むしかない場所だ。


だが、彼女の歩みに、それらは一切影響していなかった。


一歩ごとに、“力の板”を足場にしている。


「足場を!?」


空気と水と土と、すべての物質を無視するような歩き方。


これは訓練で見せたことのない技術だ。応用ではない。応用の域を超えている。


「また、闇がいる。……虫がいる。消しましょう」


リシェリアが、地を這う闇の塊に目を向けた。

その手先から生まれた冷気が、闇の蟲を的確に凍らせ、空中へと持ち上げる。


パキッ、と氷が一斉にひび割れる音が響いた。


「春だから、冷気だけじゃ大樹が傷みますね。……雪解けを」


じゅっ、と蒸発する音。


氷が解け、蒸気が立ち昇る。


それは“壁”の向こうまで届き、湿度を帯びた柔らかな風として俺の頬に触れた。


「リシェリア。一度、戻っておいで」


声をかける。だが、様子がおかしい。異常なほどに冷静すぎる。高揚ではない。

まるで――酔っている。力に。


感情の抑制ではない。あまりに感情が遠く、代わりに無感覚のような万能感に満たされている。


「カイル、待ってくださいね。この根は癒して。……ここは新しい根を生やすように」


命令口調ではない。

けれど、聞く耳がない。

怯えも、恐れも、躊躇もない。

それが恐ろしい。


「あ……ここは干からびている。切断してしまった方がいいですね」


――何を言っている。


次の瞬間、彼女の掌に力が刃の形をとり始めた。


斬ろうとしている。大樹の根を。


「やめろ!」


そこは、王国の国土に繋がる一端だ。

それが何に繋がっていて、何を支えているか。それを見極めて判断するのは、俺の役割だ。

聖女が独断で行っていいものではない。


間違えれば、土地が沈む。命が失われる。


「リシェリア!!何もするな!やめろ!」


怒鳴った。初めてだった。

リシェリアに向かって、声を荒らげたのは。


無力だった。


力を持たない自分には、そこから止める術がない。


だから、せめて言葉にした。怒声に、心を込めた。


響いてくれ。

怯えてくれ。

ばつが悪そうにでも、いい。

しょげた顔でも、拗ねた顔でも、何でもいい。

俺が知っているリシェリアなら。


俺の好きな彼女なら。


だけど、返ってきたのは、あまりにも無機質な反応だった。


「不正解でしたか? 難しいですね」


石室の奥なのに、耳元で囁かれたような錯覚がした。

冷たく、淡々とした声音だった。


「リシェリア……もういい。戻ってくるんだ。いいや、戻れ。これは命令だ」


「……わかりました」


言葉は、確かに返ってきた。

けれど、彼女はすぐには戻らなかった。

わずかに首を巡らせ、天蓋を仰ぐ。


神殿の奥、絡み合う根と光の文様をゆっくり見渡している。

その横顔は、まるで神そのものの意志を確かめるようだった。


俺がもう一度呼び止める前に、リシェリアは悠々と、拒絶の壁へ向かって歩き出した。


そして、透明な膜のような不可視の壁を抜けた瞬間、支えを失った俺の体は前のめりに倒れかけた。


「――っ」


受け止めたのは、彼女の腕だった。

柔らかく、けれど確かな力で、俺の体を押し返す。

香のほのかな匂いが、一瞬だけ鼻を掠めた。


「戻りました」


そう言いながら、彼女は俺の手元にある筒へ視線を落とした。

天蓋の図面を巻いたもの。

彼女が施術の際に照合し、記録を補ってきた、祭祀用の設計図だ。


リシェリアはためらいもなく、それに指を触れた。


「失礼」


光が走った。


空気が一瞬だけ震える。


図面を開くと、まるで見えない筆が走ったように、根の損傷部位や闇の蟲を潰した位置、修復の波動経路までもが、鮮やかに、インクで描かれたように記されていた。


「見たものは書き込みました」


あまりに当然のように言う。淡々とした声音。


理解が追いつかない。


「……なぜ勝手をする」


それだけが、絞り出すように口をついて出た。


超えている。人智を、常識を、段階を。


これはもう、学習ではない。

理性を越えた、何か異質な変容だ。


ぞっとした。背筋を冷たいものが走る。


信じてきた理屈が崩れていく。


怒りではない。

恐怖でもない。

そのどちらもを超えた感情が、込み上げてきた。


気づけば、視界が滲んでいた。


熱い。


頬を伝うものが、冷えた空気に触れてすぐ乾く。


「君には――失望した」


そう言った瞬間、自分の声が震えた。胸が潰れるように痛かった。


リシェリアの瞳が、はじめて大きく見開かれる。

あの氷の色の中に、わずかな揺らぎが生まれた。


「私また、間違えているんですね。カイル……ごめんなさい」


その声は、かすかに震えていた。


彼女の指先が、俺の頬をなぞり、涙を拭う。冷たいのに、痛いほど優しかった。


――ようやく、戻ってきた。


心が、少しだけ。


「先に……前室へ戻ります。……ここでは困ると思うから」


気まずそうに目を伏せ、リシェリアは踵を返した。階段を上りながら、その背中が小さくなっていく。


俺は動けなかった。

怒りと後悔が、体の芯でせめぎ合っていた。

呼び止めようとしても、喉が焼けて声にならない。

彼女の足音が、階段の奥でかすかに遠のいていく。


その間隔が妙に不規則だと思った。


次の瞬間。


崩れるような音が響いた。


「リシェリア!?」


我に返って駆け出す。前室への扉の前。そこで、リシェリアは座り込んでいた。

まるで糸が切れた人形のように、静かに横たわっている。


全身が結露したかのように、びっしょりと濡れていた。


髪の先から滴る水が、石段を滑り落ちていく。

白衣の裾は肌に張り付き、布は重く水を含んで鈍く光っている。彼女はふらつきながら、それでも一歩だけ前に進んだらしい。


意地のように、足を控えの間へ踏み入れて。そこで力尽きた。


「リシェリアを!」


控えの祭祀官たちが一斉に駆け寄る。


従者がその身を支え、布を広げて担ぎ上げる。


水滴が床に点々と落ちるたび、彼女の体温が消えていくようで、見ていられなかった。


俺はただ、呆然とその場に立ち尽くしていた。


こんな異常な状況なのに。


リシェリアが残した施術の痕跡は、完璧だった。


癒しの流れも、闇の駆除も、観測の記録も、すべてが正確で、美しく整っている。


どこにも破綻がない。それが、恐ろしかった。

理論も、技術も、今や俺の理解を遥かに越えている。


彼女は確かに成功していた。

それなのに、俺の心はただ青ざめていくばかりだった。


――これは、まだ誰にも話せない。


報告すれば、調査が入る。彼女の“異常”が検査され、切り離される。


そんなことは、絶対にさせられない。


まず、リシェリア自身に聞かなければならない。

この異常を、どう説明するのか。

どこまで自覚しているのか。


……そうでなければ、俺も、何を信じていいのかわからない。

数話カイルのターンとなります

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