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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
16章 恋のから騒ぎ
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堰を切って外へ

リシェリアの抱擁。

あれを目にした瞬間、私は本能的に「まずいな」と思った。


あれは、単なる慰めの抱擁だった。

母親が子供をあやすような、ごく自然な仕草。

けれど、問題は受け取った側――カイルのほうにあった。


たしかに……最初、あいつの顔は本当に哀れだった。びしょ濡れの子犬のような、どうしようもない悲しみを滲ませていた。

経緯は私にはわからないが、何かがあったことだけは誰にでもわかる。

あの顔を外でしていたのなら、誰でも声を掛けざるを得ないほどだっただろう。普段よくあいつと接するリシェリアが、ふいに手を伸ばしてしまうのも無理はない。

そもそも、彼女はそういう人間だ。痛みを見れば、反射的に癒そうとする。


だが――抱き寄せた、その一瞬。


カイルの目の奥が灯った。

まるで凍てついた冬が一気に春になったかのように感情が雪解け、あの男の中にある理性が一瞬で溶け落ちたのが見えた。


止めなければ、あのまま放置していたら、確実に何かを越えていた。

この場に私がいても、衝動のまま踏み越えかねない勢いだった。

そうなっていたら――カイルの踏み込みによって、リシェリアを軸とした天秤が狂う。


リシェリアの意思なく主導権が奪われる。……そんなのは良くないと思った。


だから私は反射的に動いていた。

そしてリシェリアの手を引き、ほとんど引きずるように部屋を飛び出した。

夜の回廊を歩きながら、胸の鼓動がまだ早い。堪えきれず言葉が漏れた。


「リシェリア。例えあれほど落ち込んでいても……甘やかしすぎちゃだめ。最近のあいつは……ちょっと浮き沈みが激しすぎる」


以前、リシェリアにした忠告を思い出す。


『断っても押し通してくるような相手はそれこそ相応しくないよ。でも、相応しくなくなる奴はたまにいる』


カイルは、該当しないと思っていた。

純粋に恋していると思っていたから、行く末は見守れると信じていた。


だけど、今日、今まで私が知っていた理性的な男はどこにもいなかった。自分の緩んだ顔にすら気が付いていない。部外者である私の前ですら整えられなくなっていた。

熱に浮かされたカイルでは、自分の気持ちを押し通しかねなかった。


……魅了か?


思い至ったことに寒気がして、慌てて襟を緩め、その裏地を見た。

そこに隠しつけてある防護の貴石。

薄緑の輝きが赤く変じていたら――色は変わっていない。


精神干渉は起きていない。


安堵の一息をついて振り返ると、手を引いていたはずのリシェリアも少し後ろで立ち止まっていた。

振り返った顔には、怒りも動揺もなく、ただ少し困ったような微笑み。

眉尻を下げて、静かに言った。


「丁度良い加減って、難しいね。心配させてごめん。……なんとか、考える」


――ああ、これはいけない。


その柔らかな声の響きで、私は悟った。

天秤を傾けてしまったのは、私のほうだ。

警告したつもりが、逆に距離を意識させてしまった。

つまりそれは、彼にとっても、彼女にとっても“境界を自覚させる”行為だった。

その線が、かえって彼らの関係を濃くすることもあるのに。


だから、私はグラントには報告しなかった。


グラントに相談をすれば解決はするだろう。規律と圧力で人を縛ることが出来る。

間違いなくカイルの行動は厳しく制限される。

……でもそれだけでは、守れないものがある。


今の熱しきったカイルは何をするか予測がつかない。

彼から、ようやく掴みかけた恋を奪ってしまえば、小賢しく何かと抜け穴を探し出してしまう可能性がある。

それだけは避けたかった。


それならば、私の手間を費やすだけで少なくとも変なことを予防できる今の環境のままがいい。


私はただ、公正に、健全であってほしいだけなのに。

何の打算も、欲もなく、互いに支え合うように。

けれど――理想は往々にして裏目に出る。


後日、グラントから直接、書面で命令が届いた。


「風紀が乱れているとの報告を受けた。すでに直々に戒告をしたが自重するか非常に疑わしい。今後、特別礼拝室の利用においては、最初から最後まで同席し監視についてくれ」


目を通した瞬間、背筋が冷えた。


まさか……監視されていたのか。

グラントは軍の頂点だ。軍の諜報部門も従えているうえ、イェルス家には専属の諜報組織を抱えていると聞いたことがある。


……いや。特別礼拝室の件は、公爵自身の醜聞に繋がる。あそこにした結界は厳重に覗けないようにしているはず。

それよりはリシェリア自身が、何か相談したと考える方が妥当だ。そういう時間が彼女にはある。

公務の間に。彼の執務室で、報告を兼ねて話をする。

内容までは知らないが、グラントがすぐに動いたのなら――察することはできた。


彼女は優しい。

だからこそ、誰かに話してしまう。

自分のためではなく、他人のために。

その優しさが、場を好転させるとは限らない。


それにしても――グラントの目算は正しかった。


戒告を受けたはずのカイルの目は一切変わらなかった。

むしろ、さらに冴え渡っている。まるで次の機会を狙う獣のように、瞳の奥で光が跳ねている。

その目には恐れも反省もなく、ただ「どうすれば抜け道を作れるか」という算段だけが浮かんでいる。


――本当に、どうしようもない男だ。


カイルは狡猾で、抜け目がなく、そして諦めが悪い。

その性質は彼の仕事上では長所で、そしてこの件に関しては最悪だ。


リシェリアの無垢さが、彼の執着を研ぎ澄ませていく。

そして何より――あの眼差し。

彼がリシェリアを見つめるとき、“渇望”がある。


「せめて……手くらい、繋いでも良いと思わないか?」


「ねえ。お願いだから礼節をわきまえて。手を煩わせないで」


だから、私が一時の間、監督して抑制したとて時間稼ぎにしかならないと思っていた。

カイルが、抜け道を作り、自分の欲を満たす新しい方法へ辿り着くまでの。


「今、頭に浮かべた、茹った考えを消せないのなら、次にここに来るのは私の代わりにセランになる」


「失礼した。もちろん良識を心がける」


獰猛な猟犬の名前を出せば、流石に即座に食い下がるのをやめた。

今日のところはこれで収めようとしたときのことだった。


最初の期待からの落差からか、あまりにも顔色を悪くしたカイルに、またリシェリアが甘い顔をしようとした。


付けあがらせちゃダメ。そう言おうとしたけれど。

リシェリアの提案は、驚くほど簡潔で、しかも理にかなっていた。

その場にいた私もカイルも、思わず顔を見合わせ、ほとんど同時に頷いた。


――特別礼拝室での面会を取りやめる。


代わりに、通常の公務を一日勤め上げたら、同じだけ、カイルとリシェリアの休暇を合わせ、外出を許可する。

言葉にこそしなかったが、要するにこれはセランと同じ扱いだ。


「そうしたら、回数は減りますが、一度の時間が長くなりますし出来ることが増えるかなと」


聖女でも祭祀官でもない、ただの男女としての時間。

人目のある場所で、安全に、健全な形で過ごす時間は認める――そういう提案だった。

カイルの場合は、セランと違う。正式に聖女担当官の任を持ち、婚約者がいる聖女であっても、公的に隣に立つことは許されている職務だ。

多少は人の目に見られても非公開公務とでも言い繕える。


悪くない。いや、むしろ良い。

私は少し考えた末に補足した。


「それならいいわね。グラントに打診してからになるけど、外出計画書を事前に申請するなら、経費も支給してもいい」


それで十分だと思った。


カイルは、根っからの箱入りだ。

任務や礼儀には完璧でも、風任せの旅や即興の外出には向かない。

何事にも入念に準備をするタイプで、突発的な事は自らはしない。

つまり、彼に「お忍び外出」を任せれば、リシェリアの安全に気を配るあまり、神経をすり減らすだろう。勿論、計画書からこちらで最低限の警護も手配しておける。

結果として、そうそう密やかな時間を取る余裕など生まれまい。


屋外であれば、正体が露見する可能性を恐れ、節度を保たざるを得ない。

手を取るどころか、距離を詰めることすらためらうだろう。

せいぜい、淑女を導くための紳士的なエスコートが関の山だ。


――それで十分。

それでカイルの頭の熱も、少しは冷めるだろう。


そんな私の試算をよそにリシェリアが少しだけ頬を染めながら言う。


「私、実は……カイルと行きたい場所があるんです」


そこから彼女が挙げたのは、いくつかの素朴な希望。

植物園というものを見てみたい。

細密画で飾られた天井をもつ美術館。

幼い子どもから青年直前までが通うという王都の学び舎。

そして――城にはない書物が集まる街の大図書館。


どれもカイルの好みに近い場所で、そしてセランは選ばないような場所だった。

まるで彼を安心させるように、彼女は“知の世界”を選んだのだ。

ほんの少し年頃の少女らしい、夢の欠片をまじえながら。


「わかった!」


カイルはすぐに手帳を取り出し、熱心にメモを取り始めた。

そのあまりの単純さに、私は思わず口の端を上げた。


……なんて扱いやすい男だ。


これで、私は職務外にも関わらず、無為な監視に時間を費やす必要がなくなる。


一応、釘を刺しておく。


「とりあえず、計画書にして出しなさい」


それだけ伝えれば十分だった。


こうして、リシェリアは息の詰まる礼拝室から解放され、休暇そのものの自由度も増した。


……少なくとも、リシェリアにとっては悪い話じゃない。

そう思うことにした。


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