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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
16章 恋のから騒ぎ
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冷厳なる看守

悲しくも――いや、もはや絶望的と言っていいかもしれない。

今日は、よりによってアスティが最初から部屋に座っていた。


普段なら、俺が先に来て空気を整え、照明を調整し、椅子や茶器の位置まで微妙に整える。

リシェリアが到着したとき、少しでも心を和らげられるように。

彼女の笑顔を引き出せる空気をつくるのが、この時間の大切な準備だ。


いや――本音を言えば、あの腕の中に彼女を抱く、その瞬間を迎えるための聖域を整えているにすぎない。

この部屋は公的には「特別礼拝室」だが、俺にとっては、今唯一、彼女と静かに近くにいられる大切な空間なのだ。


しかし今日、その扉を開けた瞬間に、すべてが台無しになった。


机の端に腕を組んで座り、足を組み、つまらなそうに視線を泳がせるアスティ。眉を僅かに吊り上げて、こちらを見ようともしない。


――なぜだ。


「はあ……」


喉の奥にため息がこもる。


「流石に、早すぎる。まだ始まってもいないのにどうしてこの時間に君がいる? 部屋が狭くなるので、前入りは控えて欲しいのだが」


いつも通り、彼女を迎える準備を整えながらきわめて冷静に率直に言った。

彼女を敵に回すつもりはないが、この場にいてほしくはなかった。

彼女がいれば、すべてが固くなる。空気も、俺も、リシェリアの笑顔も。


「あのね。私だって、忙しいのよ」


地を這うような怒気が走った。

声が予想よりもずっと鋭く、空気が一瞬にして張りつめる。


「……」


どうして最初から戦闘態勢なんだ。

俺は挨拶を返す隙も与えられず、内心で頭を抱えた。


「あんたが頭が茹だってそうだから釘を刺すために来たんでしょうが!」


彼女は身を乗り出してくる。


「それが何で、もう既に最高潮なのよ……! 鏡を見た!? 緩みきってる! 浮かれて鼻歌まで歌ってたじゃない……」


ハッとして顔を手で押さえる。

確かに筋肉が弛緩している。

……それに、鼻歌?

俺が?

そんな馬鹿な。


「公女殿下。どうか冷静になって頂きたい」


「今更澄ましたところで無駄だ!」


言葉の端々が棘だらけだ。

いつもなら軽く流せるのに、今日に限っては心臓に突き刺さった。


「グラントから、一部始終目を離すな、同席して監視しろって言われてるのよ?」


「おかしいな……。ちゃんと納得してもらったと思ったのに」


グラントとの話し合いで、俺は理路整然と説明した。

誤解は解けたはずだと思っていた。

彼の無言の承諾を、俺はそう受け取っていたのだ。


その瞬間、扉を叩く控えめなノックが響く。


――リシェリアだ。


胸の奥が一瞬で高鳴る。

柔らかな足音が近づく。

そして、扉が開いた。


彼女は少しだけ緊張した面持ちで中を覗き込み、俺とアスティを見て、途端に破顔した。

その笑みが、すべてを溶かす。


「アスティ……! 探してたの。ここにいたのね」


その声だけで、世界が明るくなる気がした。

可愛い。

本当に、どうしてこんなにも愛らしいのだろう。


「ごめん。先にやることがあって」


アスティはまだ苛立ちを抱えたまま。

だがその隙を逃すわけにはいかない。


「そうか、じゃあ今日はもう一旦は帰るよな? 扉はこちらだ」


自然に退出へと導こうとした。


しかし、リシェリアの柔らかな声がそれを遮る。


「あのねカイル、アスティを同席させるようにグラント様から言われてるの」


……ああ。そうか。そっちにも釘が打たれているのか。

リシェリアも知らずに俺の背を地獄へ突き落とす。


「はぁ……仕方ないな。じゃまあいいか」


無理に笑みを作りながら、アスティに椅子をすすめる。


気まずい沈黙。

冷えた空気の中、俺は心の中で何度も深呼吸をした。


まあ、別に見られたところで構わないだろう。

何もいかがわしいことをするわけじゃない、まだ。


ただ、渇いた魂を癒してもらうだけなんだから。


「じゃ、アスティを待たせても悪いから。リシェリア、こっちに」


リシェリアを長椅子に導く。

その手を取る――今日は、正面から先に抱きしめたい。

彼女の背に頬を寄せて、体温を確かめたい。

言葉より先に、彼女の存在を感じたい。


そう思った、まさにその瞬間。


「触れるな!」


アスティの声が稲妻のように走った。

彼女の手が鋭く空を切り、まるで剣で斬り払うように、俺とリシェリアの間に壁を作る。


……これだから嫌なんだ。


結局、机を挟んでの“言葉だけの”時間になった。

リシェリアの隣に座ることも許されず、アスティが間に入って、腕を組みながら半眼でこちらを睨む。


「せめて……手くらい、繋いでも良いと思わないか?」


……最後の抵抗として言ってみた。


間髪入れず、冷たい刃のような声が返る。


「ねえ。お願いだから礼節をわきまえて。手を煩わせないで」


……はい。

敗北宣言のような声を心の中で呟く。


結局のところ、こうだ。


アスティが良しとするまで、俺たちは監視下。

経過観察の上、行動の報告書を出す。

しかも――リシェリア本人からも内容の確認が入る。

嘘は通じない。


……とはいえ、助かった。

まだ完全に切り離されたわけではない。

ぬるい。

この程度なら、誤魔化しようはいくらでもある。


リシェリアは俺の願いを許してくれる。

きっと少し拝み倒せば、彼女の手を再び取れる。


拝み……押し倒す? 

いや、だめだ。

そんな不埒なことを考えるな。

でも……考えてしまう。

彼女の体温が、記憶にまだ残っている。

つい、頬に血が上る。

嫌な予感がした。


アスティが、それを敏感に察知したように俺の視界へ入り込み、睨みつける。

その視線は鋭く、冷たい。


そして、彼女はゆっくりと言った。

――俺を確実に黙らせる、最悪の言葉を。


「今、頭に浮かべた、茹った考えを消せないのなら、次にここに来るのは私の代わりにセランになる」


一瞬、頭の中が真っ白になった。


俺とリシェリアのこの空間に――セランが?


最悪だ。

最悪の、死刑宣告。


「失礼した。もちろん良識を心がける」


乾いた声が出た。

それ以上、言葉が続かなかった。


……しばらく、耐えよう。

嵐が過ぎるのを。

冷静に、立て直せばいい。


セラン――。

その名が浮かぶだけで、胸の奥がひりつく。


気づけば、あの日の光景がふいに脳裏をよぎっていた。

花吹雪の通り、夜の光。

その中にいた二人。

ほんの一瞬だった。

しかし、瞼の裏には今も焼き付いて離れない。


視線の先にいたのは――リシェリアと、セラン。


俺の知らない予定、知らない時間、知らない顔。

自分がいない場所で、彼女が笑い、彼と並んで歩いていた。

それだけのことなのに、胸の内側で何かがきしむ。


自分の知らない「彼女の時間」が、確かに存在している。

その現実が、ひどく苦しい。


本当は――すべてを知りたい。


いつ、誰と、どこで、何を話していたのか。

どんな表情をして、どんな声を出していたのか。

あの男と並んでいた時、どんな風に息をしていたのか。


リシェリアの中の“彼女自身”を、何ひとつ漏らさず知りたい。

その中に、俺の知らない“優しさ”や“笑顔”があるなら、それすら奪ってしまいたい。


……だが、そんなことは口にできない。


彼女は俺のものではない。

この醜い感情で縛り付けるわけにはいかない。


彼女の自由を尊重するふりをする。

その裏で、俺は嫉妬という名の毒を噛み殺している。


あの夜のことは、封印した。

飲み下せなくても、飲み込むしかない。

あの瞬間、胸に突き刺さった痛みは、今もどこかで燻っている。


セランだって、……俺とリシェリアがいま、どれほど近しく過ごしているかは知らないはずだ。

知らなくていい。

むしろ、知らないままでいろ。

彼に対する優越の感覚だけが、唯一、俺の理性を支えている。


……いや。

もし知っていたとしても構わない。


出会ってからの時間では、確かに俺は彼に敵わない。

けれど、俺とリシェリアの間には、言葉では測れない濃密さがある。

触れた手の温度、交わした沈黙、そのひとつひとつが深く刻まれている。


セランには、出会いの早さで負けた。

だが、これから先――想いの深さでは絶対に負けない。

俺のこの熱は、あいつの恋など比べものにならないほど燃えている。

命が尽きても冷めることのない炎だ。


そう、信じたい。

信じなければ、立っていられない。


……だが、顔に出ていたらしい。


いつの間にか、眉間に力が入り、心の底に沈んでいた悔しさが滲み出ていたのだろう。

気づけば、リシェリアが心配そうにこちらを見ていた。


その視線が、そっと頬に触れるようだった。

手を伸ばしたくても、今は触れられない。

代わりに、彼女の瞳が、静かな優しさで包み込んでくる。


「カイル。窓も開かない部屋じゃ、深呼吸もできないですよ。ね……もしよかったら。気分転換に、外で過ごすことにするのはどうですか?」


その声が、やわらかく胸を叩いた。

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