沸騰と急冷
「なにか辛いことがあったのだと思います。苦しいことかもしれないですね」
抽象的で、優しい。
問い詰めも、責めもない。
ただ包み込むような声。
「でも、なんとかなりますから。そばにいますから」
――そばに。
その言葉が、胸の奥に染み込んでいく。
それだけで、すべてが溶けそうだった。
彼女が触れている。
彼女が、自分の意志で、俺を癒そうとしている。
それだけで、もう充分だ。
世界が揺らいで、意識が蕩けていく。
ああ、この時間が終わらなければいいのに。
ずっとこのままでいたい。この温もりを感じていたい。
いや、振り返って抱き返したい。腕の中に閉じ込めて、名前を呼びたい。
リシェリア。
俺の――。
好きだ。
何も言わなくていい。
何も聞かなくていい。
言葉にならないこの熱だけを、重ねたい。
……もう、だめだ。我慢ができない。
彼女という存在に、今日こそ触れたい。その先を求めたい。
ふいにリシェリアの手が緩み、放たれる気配がした。
よし。一息呼吸して、振り返ってそして――
その瞬間、空気が変わった。アスティが弾けるように立ち上がる気配。
総毛立ったように、素早くリシェリアを引き剥がす。
手繰り寄せようとしていた温もりが、唐突に消えた。
扉が乱暴に開かれ、冷たい風が入り込む。
「お暇するわね。じゃあカイル!お大事に!」
アスティの声だけが残った。
木の扉が閉まる音が、胸の奥で反響する。
温もりの残る両手を見下ろしながら、俺はただ、動けなかった。
ただひとり残された礼拝室。
音という音が消え、静寂そのものが鼓膜に押し寄せてくる。
だがその静けさが、さっきまでの出来事を否応なく思い出させた。
――信じられないほどの奇跡。
リシェリアからの抱擁。
しかも、それは俺がねだったわけではない。
彼女が自ら動き、与えてくれた。
あの柔らかな両腕で、包み込んでくれたのだ。
その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れ、同時に光が差し込むような心地が広がった。
昨夜から胸を締めつけていた重苦しさも、疑念も、すべて霞のように遠のいていく。
残ったのはただひとつ――彼女の体温と香り。
肌の奥にまで染みついた、あの鮮烈な感触だけ。
いつもは小柄で儚げに見える彼女が、あの瞬間だけは違っていた。
腕の中に確かな質量を持って存在し、あたたかく、息づいていた。
魂の奥まで届くような、清らかな熱。
耳のそばで、彼女の吐息が小さく震えて、胸の奥がじりじりと焦がされた。
寄せられた胸元のやわらかな感触が、現実を主張する。
髪から漂う香りが、静けさの中に微かに滲み、心臓の鼓動を早めた。
こんなにも人の手が優しく、幸福なものがあるんだとは知らなかった。
世の中に酒や煙草に依存する者がいるというが、“溺れる”という言葉はこういう事なんだろうな。
あの甘い熱と香りに満たされ、もう抜け出そうという意志すら消えた。
……とはいえ、この心の動きは正確に言葉にできるわけではない。
ただ確かなのは、彼女が、きっと俺を赦してくれたという事実だけ。
昨夜から続いていた暗い影を、彼女は何も言わず、ただその手ひとつで払いのけた。俺との時間を、切り捨てることなく、抱きとめてくれた。
そのことが、胸を焼くほど誇らしく、同時に恥ずかしい。
こんなにも尊い癒しを受けながら、今日一日俺は何をしていたのか――そう思うと顔を覆いたくなる。
だが、確かにひとつの可能性が生まれた。
次の時間には、新しい選択がある。
俺が彼女を抱きしめるだけじゃない、彼女に抱きしめてもらうという択。
もちろんどちらでもよかった。
抱きしめても、抱きしめられても。
そのどちらも想像できてしまうことが、ただ嬉しかった。
そんなふうに――
次の特別礼拝室でリシェリアと会える日を、まるで子供のように数えて待っていた。
彼女の手の温もり。香り。あの腕の中に自分がいた奇跡。
あの部屋で、次に会ったときはどんな顔をしてくれるだろう。
そんな愚かな期待すら、胸の奥に密かに灯していた。
それなのに。
それなのに。
グラントから、内密の呼び出しがあった。
あのゴートフェルト家の愚かな行状に関する報告の件だろう。
文面は冷たく、場所と時刻だけ。飾りも含みもない――ただの命令。
どうせ、書面に書いてあることを口頭で繰り返すだけなのに。煩わしいと思った。とはいえ、このところグラントはかなりの配慮を与えてくれている。
多少面倒でも、呼ばれれば応じるしかない。
足音が石床に響く。
指定の部屋に入ると、グラントがいた。
椅子から立ち上がらず、いつもの淡々とした仕草で俺を迎える。
……だが、その顔に一瞬、見慣れない色があった。
渋面。眉間に深く刻まれた皺。
あの男の表情が動くなど滅多にない。
思わず、そんな顔もするのかと妙な感慨を覚えた。
「――苦情が来ている」
低く抑えた声。
その一言で空気が冷えた。
「風紀を乱していいとは言っていない。一線を越えるな」
……風紀?
一瞬、何の話か理解できず、眉を上げる。
――ああ、報告書の件か。
確かに、メレディスの外出に同行したのは事実だ。
潜入任務としては少々過剰だったかもしれない。
しかもあの場でリシェリアに遭遇したのは、最悪だった。
けれど結果として、必要な証拠は得られた。報告も完璧。
任務としては及第点のはず。
それに……結果的に。リシェから抱擁される機会も得た。
そう思い返しているうちに、つい口元が緩んでしまった。
……失敗だった。
グラントの眉間が、さらに険しく寄る。
「礼拝室でのことだ」
……礼拝室?
思考が一拍遅れて追いつく。
「特別礼拝室での事だ。……著しく風紀が乱れているらしいな」
「心当たりはない」
即答した。声が、少しだけ硬くなった。
――アスティだな。
あの女の顔が脳裏に浮かぶ。
彼女以外に、俺とリシェリアの時間を覗ける者はいない。
余計な口を挟んだに違いない。
「当人も困惑している」
「そんなはずはない」
反射的に言葉が出た。
そんなはずがあるものか。
……いや、確かに。
リシェリアは以前、“吸い込む”のは嫌がっていた。
けれど、それ以外は――別に嫌がってないはずだ。
特に先日の抱擁は、彼女自身が与えてくれた優しさだった。
拒絶などなかった。むしろ――。
「聖女に触れないではいられないのか、お前は?」
その問いに、ためらいもなく答えが出た。
理性より先に口が動いた。
「癒しの御業は、直に”吸う”のが、効率が良いんだ」
その瞬間、部屋の空気が凍りついた。
グラントの瞳が微かに揺れ、口元が止まる。
――しまった。
論理的な言い回しを選んだつもりが、冷たく奇怪な響きを帯びていた。
自分でも、背筋に冷たいものが走る。
だが取り消すことはできない。
彼の沈黙が、重くのしかかる。
数秒後、低く息を吐く音がして、グラントは静かに言った。
「何を……。いや、いい。いいから……頼むから。私の差配を揺るがすようなことをしてくれるな」
ひと呼吸おいて、さらに低く。
「目に余るなら、特別礼拝室は取り上げる。今後、恩寵を賜る許可もだ」
その言葉が落ちた瞬間、喉が焼けるように乾いた。
――取り上げる。
つまり、リシェリアとの時間を奪うということ。
また、彼女に触れることも、声を聞くことも、禁じられる。
それは呼吸を禁じられるのと同義だった。
「……! ……!」
内側で何かが激しく反発する。
だが、ここで感情を見せれば終わる。冷静さを崩せば、即刻すべてを失う。
……。
唇を強く噛み、言葉を選ぶ。
「……。 心に留める。……善処する」
本当はもっと言いたいことがあった。
守りたいものがあった。
だが、今はこの一言でしか、すべてを守れなかった。
沈黙のなか、己の中でひとつの誓いが硬く固まる。
――彼女との時間を、誰にも奪わせない。
どんな命令が下っても、あの温もりだけは手放さない。




