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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
16章 恋のから騒ぎ
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聖女が投じる一石

あの夜の、あの時。

セランとの休みの帰り道――それも、もう何度目かの帰り。

人通りの減った並木道を歩いていたとき、彼がふと立ち止まり、何かをつぶやいた。


その声に反応して、私も足を止めて顔を向けた。

次の瞬間、視界の端を、光を反射して馬車の車体が横切った。


花吹雪の向こう――薄紅の霞の奥で、ひとつの影が見えた。


カイル。


馬車に乗り込もうとしている。

そして、その傍らには、見知らぬ女性がいた。

視界にいたのはほんの一瞬。

呼び止める暇も、立ち止まる余裕もなかった。

馬車の車輪が石畳を蹴る音とともに、二人は背を向けて去っていく。

  

花弁の一枚が頬を掠めて落ちる。

誰かの視線のように感じたのは、ただの思い込みかもしれない。

けれど、確かに一瞬――視線が絡んだような気がした。


通り過ぎた後、セランが私の顔を覗きこむようにして、探るような声を出した。


「リシェ……見た?」


その問いで我に返る。


「うん」


……そうだ。

これは、“お忍び”だった。

聖女という肩書きを離れた、ただの私。

たまに許されるようになったセランとの外出は、グラント様が作ってくれた嘘の予定の裏で、本当のお休みじゃない。


だから、グラント様から『カイルにも内密に』と言われている。彼に知られるわけにはいかない。

――なら、見なかったことにすればいい。


「これ、見なかったフリがいいのかな? ……私、お忍びの姿を見られない方がいいんだもんね?」


そう言うと、セランが少し面白そうに笑った。


「ああ。知らんぷりしとけ」


空気を切り替えるように背中を軽く叩かれた。

その勢いに釣られて、私の口元にも小さな笑みが浮かんだ。


なんだか、面白いかも。


まるで娯楽小説の登場人物になったみたい。

人目を避けて歩く。秘密を共有する。不思議や謎が生まれるかもしれない。

普段の、透明な日常にはない刺激。


春の風が頬を撫でて、花弁がひとひら髪にかかる。

それをセランが何気なく取ってくれて、また歩き出す。


――それで終わり。もう帰路だけ。

城へ戻ればまた日常が待っている。

今日のことは、しまっておこう。



……そう決めたはずなのに。



「おはようございます、カイル」


翌朝。


執務室に入ったカイルの姿を見て、息を呑んだ。

彼は明らかにこわばっていた。

指先まで緊張が走っていて、目の奥に眠気より深い疲れが沈んでいる。


「……おはよう。じゃあ、始めようか」


アーレンス邸での、あの苦しそうな病床の姿を思い出して、少しだけ胸が痛んだ。

次に、特別礼拝室で見せる、少し我儘で甘えるような砕けた雰囲気のカイルを思い出す。

私は正直、困ることもあったけれど、それでも彼は、私にとって尊敬できる上司で、信頼できる心の美しい人だ。いつも頼りにしていた。


……でも、今の彼は違った。

眉を伏せ、肩を落とし、まるで何か辛いことを抱えているような顔をしていた。


それは一昨日に会った時にはない陰り。


――もしかして。


昨日に何かあった?

私が見た、あの前後に重大な何かに巻き込まれていた?

私があの時駆けつけていれば何かできたのかな。


それとも、やっぱり――


私を見たのかもしれない。

婚約者教育という名目で執務を休んで、その裏で。平民の服で、遊び歩いていた姿を見て――失望したのかもしれない。

聖女として品位を欠いたと思われたのなら、それは確かに、私の落ち度だ。


その可能性が胸を刺して、少しだけ俯いた。


もしそうなら、謝りたい。

でも、何をどう謝ればいいのかわからない。

何故そこにいたことを言えない以上、理由も言えない。


日中は仕方ない。でも今日は勤務後に”あれ”がある。

特別礼拝室での、カイルへの癒し。

あの時間が始まるとカイルも機嫌がやたらと良くなるから。

流石に今日くらいは、早々にくっついてきても素直に許してあげよう。

そう思っていた。


けれど、特別礼拝室の扉の先にいたカイルは。

執務室で一度別れた時よりもずっと――顔色が悪かった。


「お待たせしました。ええと、カイル……大丈夫ですか? お疲れなら、癒しを先に差し上げ、ます?」


「いや、大丈夫。大丈夫だ。……じゃあ一昨日の外務についてさらおうか。最初の動作だけど」


しかも、辞退のように聞こえる拒絶。

その一言が、胸の奥で波紋を広げていった。


仕方なく、そのまま公務についての振り返りをしていた。

私の応答の良し悪しや、即興でした動きについての添削。判断の根拠などをやりとりして、次につなげていくカイルらしい談話の時間。


「……でした。だから……え、カイル?」


その途中でカイルはふと力なく突っ伏してしまった。


「ごめん、少し待ってくれ」


そこに丁度、アスティの訪問を知らせる扉のノックが聞こえた。


「え?……こいつ、どうしたの?」


入るなりアスティの声には、あからさまな当惑がにじんでいた。


「アスティ。朝からずっとこうなの」


私は、癒しも、いつもの距離の近さも、今日はずっと避けられていることを静かに伝えた。


何かがあったのだろう。重大なこと。

けれど、それを私には知る術はない。


それでも――。

いつもは私の悪夢や恐怖を、指先ひとつで追い払ってくれる人だ。

だから、彼が苦しんでいるときに、今度は私が助けたい。

少しでも、支えになりたい。

カイルはもう、私にとって大切な人だ。


あの青ざめた顔を前にしては、どうしても黙って見ていられない。


……体と心は繋がっている。


体の緊張がやわらげば、心もきっと解けていく。

セランが、いつもそうしてくれたように。

冷え切った私を温め、耳元で響く心音で不安を鎮めてくれた。


――同じことを、私もしてみよう。


アスティに向かって、少しだけ待ってほしいと頼む。

返事を聞く前に、人差し指を唇にあてて、声を出さないように合図した。


長椅子にもたれて動かないカイルの背後へ回る。

頭を垂れ、うなだれた姿は、普段の冷静さや静かな威圧感とはまるで別人。

光を失った人形のように、影をまとっていた。


そっと腕を伸ばす。


彼の頭を包むように、両腕で胸の内に抱き寄せた。


「……じっとしてくださいね」


囁きながら、そっと力を込める。

これは癒しじゃない。異能でも儀式でもない、ただの抱擁。

それでも――少しでも伝わってほしいと、心の底で祈る。

言葉で説明することはできない。上手く伝える自信もない。でも、きっと言葉ではない方法でも伝わるはずだと思う。


腕の中の身体がびくりと震え、ぴたりと固まる。

呼吸の気配が消えるほど、張り詰めた沈黙。


――息をしていない。


「あの、息は。してください」

 

思わず焦って声に出た。


「カイル。深呼吸です」


背中越しに感じる鼓動の強ばり。

それが、少しずつ和らいでいくように意識を注ぐ。


「なにか辛いことがあったんだと思います。……苦しいことかもしれません。分かち合えなくて、ごめんなさい」


曖昧な言葉しか選べない。

でも、私の中ではこれは励ましだった。


「でも、なんとかなります。カイルなら進めます。 私も、アスティもいます。そばにいますから」


その言葉が届いたのか、カイルの肩がわずかに下がった。

力が抜けていく。

何も言葉は返ってこなかったけれど、その沈黙がむしろ確かな応答のように感じられた。


体温がゆっくりと戻り、耳の先に薄く赤みが差していく。


――大丈夫。もう、落ち着いた。


ふと顔を上げると、アスティが何かに焦るようにこちらを見ていた。


あ、帰る時間かな。


私は静かに手を放した。


その瞬間、アスティがすぐに私の手を取って立たせる。

そして、半ば強引に扉の方へ導いた。


小走りに近い速さで後ろを押されて、扉の外に押し出された。

ゆっくり閉まる扉に向かってアスティが少し明るい声を作って言葉を投げ込んだ。


「私たちはお暇するわね。じゃあカイル、お大事に!」


返事はなく、静寂だけが戻る。


――――カイル。少しは、楽になったかな。

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