凪いだ水面、その下の汚泥
「おはようございます、カイル」
翌朝。春の光が差し込む執務室で、彼女はいつものように微笑んでいた。
何事もなかったかのように、清らかで、澄んでいて――凪いだ水面みたいだった。
そこには一片の曇りもない。
昨夜のことなど、最初から存在しなかったみたいに。
「……おはよう。じゃあ、始めようか」
それが……、俺にはあまりにも痛い。
机の上の紙束を整える指が妙に重い。
昨夜、筆を握っていた感触がまだ残っている。
眠れなくて、結局そのまま報告書を書き上げた。
ゴートフェルト家の件。接触した人物、交わした会話、誘導した情報、観察した反応。俺自身の行動も含め、細部まで整えて、早朝に全部グラントの市邸まで出向いて提出してきた。
文面は完璧だ。理路整然。正当。疑われる余地もない。
任務であり、演技であり、目的達成のための接触。
俺には一点の不貞も存在しない。
……――不貞も何もあるか。くそ。
そもそも、俺とリシェリアの間には“そういう関係”など存在していないのだから。
その事実が、刺さって余計に苦しい。
彼女は今、俺に微笑んでいる。
柔らかな笑み。穏やかな声。春の光を受けて揺れる睫毛。
その瞳の奥に、ほんの少しでも昨夜の影が映っていたならいいのに。
何もなかった。まるで見なかったみたいに。まるで、俺は気にする存在ではないみたいに。
……何も感じなかった?
単純に、見てないだけかもしれない。見てなくて、セランも特に何も言わなかったのかもしれない。
あいつは多分、わざわざリシェリア本人の心をかき乱すようなことはしないだろう。
……俺みたいに。自分の醜悪さが浮き彫りになる。
それならいい。そうであってくれ。
理屈ではそれが妥当な結論だと理解できる。
だが、感情は理屈に従わない。
――もしかして。
見たうえで、彼女は俺を軽薄な男だと思ったんじゃないか。
愛想笑いで女の手を取り、夜の街で媚びを売る祭祀官。
そして彼女は思ったのかもしれない。
『カイルは人目につかないところでは、誰にでもああなんだ』
……だとしたら最悪だ。
悪い想像が、雪崩みたいに頭の中を埋め尽くす。
呼吸が詰まる。机上の筆先が微かに震えた。
いや。もし、本当に彼女が見ていて。そして、何も思わなかったのなら、……それが一番、無残だ。
怒りもしない。責めもしない。ただ無関心のまま通り過ぎる心。
その優しさこそが、刃になる。
聞けない。問いただせば、自分が見苦しい。
そして、本当に何も感じていなかったと知ったら――もう立っていられない。
もし彼女の方から、「昨日はあれは何?」と聞いてくれたなら。
いくらでも説明するのに。
任務のことも。策のことも。全部話す。
どんな醜態でも晒す。それで許されるなら、何度だって。
なのに、彼女は何も聞いてくれない。
そもそも。……なぜセランといた?
公爵家の婚約者教育の日だったはずだ。
なぜ、あんな服装で。
なぜ、俺の知らない予定があるんだ。
グラントお得意なお忍びの夜遊びでも覚えさせているのか。そんな馬鹿なことがあるか。
問いが胸の中で渦を巻く。
知りたい。だが……それも聞けない。
彼女の私生活を探ることになる。
俺に許された時間じゃない。
それでも、知りたいと思ってしまう。
彼女のことを全部知りたい。
なのに、問う資格なんてない――なぜ、俺にはその資格がないんだろう。
窓の外では春風が若葉を揺らしていた。
さらさらという音が、胸のざわめきを嘲笑うみたいに聞こえる。
本来なら、待ち望んでいた時だった。
先日のグラントとの公務の見返りに、今日の日勤終わりには、リシェリアと過ごせる予定だったのだから。
日中の公務は、その後のお楽しみのために、俺の筆は軽快に走って効率的に定時丁度には終えられるはずだった。
気もそぞろで、全く仕事ははかどらない。
寝不足の頭は鈍く何度か間違いを誘発した。
そして、満を持して入室した特別礼拝室は牢獄に収監されたかのようだった。
少し傾いて橙を帯びた夕の光の差す室内が、皮肉なくらい息苦しい。
息を吸っても胸が重い。
思考のどこを辿っても、昨夜の光景が焼きついて離れない。
街灯。紅い化粧。視線が交わったかどうかも曖昧な一瞬。
それだけが何度も脳裏で再生されていた。
一度部屋に下がって改めて入室してきたリシェリアが気づかわし気に俺を伺った。
「お待たせしました。ええと、カイル……大丈夫ですか? お疲れなら、癒しを先に差し上げ、ます?」
「いや、大丈夫。大丈夫だ。……じゃあ一昨日の外務についてさらおうか。最初の動作だけど」
表面上は、いつも通りだった。
公務の話をして。書類を整えて。必要な報告を交わす。
言葉は保てる。だが感情が追いつかない。
不眠で霞んだ視界の向こう、リシェリアの姿だけが妙に遠い。
……今の俺の顔色は最悪だろうな。
体調不良に見えていればいい。
そんな情けない願いを胸の内で呟く。
今日は、もう無理だ。早く終わらよう。
彼女を見ているだけで、心のざらつきが増していく。
朦朧とする。頭が重い。彼女と向かい合う気力すら削がれている。
「……でした。だから……え、カイル?」
「ごめん、少し待ってくれ」
耐えきれず、卓の上で頭を抱えて突っ伏した。
「え?……こいつ、どうしたの?」
そこへ、いつも通りアスティの容赦がない声が落ちてきた。
扉を叩いたのかどうかもわからないが、頭を上げると既に入ってきていた。
天の助けだった。
いや看守だったはずだが、ともかく今は救世主に見えた。
今は自分で幕を引くことすらできない。
視線を合わせる気力もなかったから、ただ手を挙げて「今日は解散でいい」意思を示した。
「な、何なのよ」
「朝からこうで……」
リシェリアが答える。
そしてそれ以上、何も言わなかった。
理由も。詮索も。気遣いも。何一つ。――言わない。
胸の奥が、ぐしゃりと潰れる。
そんな顔、絶対に見せられない。
沈黙が部屋を満たす。
礼拝室の空気が、冷たい水みたいに肌へまとわりついていた。
リシェリアの小さな息遣い。
沈黙。
頭の上で、視線が交わされる気配。
いくらかの後、身じろぐ物音ともに、そっと静かに動き出す足音。
良かった。今日は何も言わず退室してもらえる。
ここで休めばいい。
明日になれば、きっとまた立て直せる。
俺は何度も挫折しては戻ってきた。
それくらいは、今まで何度もやってきた。出来るはずだ。
そんなふうに、自省をはじめた俺の傍で、小さな足音がほん少し逡巡して立ち止まった。
そして何かが、俺の頭を一息で覆う。
「……じっとしてくださいね」
柔らかな感触。甘く静かな香りが鼻先を掠めた。
耳元で囁かれた声に、全身が跳ねる。
理解が追いつかない。
――な、なんだ……?
遅れて、背後から細いものが回される。
リシェリアの手だった。
彼女の気配が、すぐ後ろに、俺を包むように触れている。
え、え。え?
信じられないほど近い。
脳が理解するより先に、身体が硬直した。
息が止まる。鼓動が暴れている。
え、だって――俺の頭は、今、彼女へ引き寄せられていて。
柔らかくて、温かい。嗅ぎ慣れた香りが近くて濃い。
その奥で、心臓の鼓動が鳴っている。
理性を吹き飛ばすには、十分すぎた。




