返る不貞の砕波
花冷えのする夜のことだった。
息をするたびに、空気の底に残る冷たさが肺へ薄く沁みた。月は雲にかすみ、石畳の上には散った花びらが湿って貼りついている。王都は大樹歴千年を迎える祭を前に、表通りの灯りも人の声もどこか浮き立っていたが、裏通りに流れている熱は、それとは少し違っていた。
俺はその一角――祭祀庁の裏で静かに膨らみつつある、反グラント派の密会にいた。
繁栄協議会――そんなもっともらしい名の会合だった。ある有力者が提唱する、新しい大樹研究を進める取り組み。そんな題目を掲げてはいるが、実際には、現行最大勢力である総長グラントの権勢を削ごうとする者たちの政治的な集まりだ。
ラトリエの奇跡を経て、聖女リシェリアの名は王都の外にまで広がった。その聖女を婚約者に迎えたことで、グラントの立場はますます盤石になった。面白くない者が出るのは、当然といえば当然だった。
背後にいるのは、イェルス家と拮抗するもう一つの公爵家、ゴートフェルト家。現王妃の実家でもある。
そのゴートフェルトが、千年祭を前に動いていた。自家の娘を新たな「聖女」として押し出し、リシェリアの功績と信仰を少しずつ奪おうとしている。
かの家は、交代式の衣装の件も含め、どうにも聖女という役割へ対抗意識が強いらしい。
馬鹿げている。
だが、馬鹿げた企みほど、まともな顔をして進むことがある。
彼らは、恋に破れた哀れな担当官である俺を、その旗頭にできると思っているらしい。聖女を奪われ、立場を失い、心も矜持も折れた男。そう見えているのなら、利用させておけばいい。
利用されるふりをして、利用し返す。
それだけだ。
どこかリシェリアに似せた女を用意し、「新しい聖女」として俺に近づけてきた。
……似せたつもりなのだろう。
そう思うだけで、少し気分が悪くなる。
金粉を混ぜたような金髪は、あの人の雪を散らしたような白銀とは似ても似つかない。青い瞳も浅く、ただ色がそこにあるだけだった。魂の奥へ沈むような揺らぎがない。
リシェリアは、ひとつ息をするだけで空気が澄む。
あの人の周りには、森と水と、まだ誰にも踏まれていない朝のような匂いがある。
それに比べて、メレディス・ゴートフェルトは、香と粉と虚飾で空気を塗り潰す。裕福で、高貴で、確かに血筋は申し分ないのだろう。けれど、清廉さを装おうとしているせいで、かえって俗っぽさが際立っていた。
表向き、俺は穏やかに微笑んでいた。
気に入ったように振る舞い、恭しく手を取り、支援を約す。彼女と、その父であるゴートフェルト公を油断させ、彼らが何を狙い、誰と繋がっているのかを見極める。
証拠を集め、最終的にグラントへ渡す。
少なくとも、そうするべきだと思っていた。
その夜は、メレディスとゴートフェルト公の信頼を得るため、彼女の私的な外出に同行していた。
メレディスは派手だった。
化粧は厚く、香水は鼻を突き、袖飾りは歩くたびに細かい音を立てる。荷物は使用人二人分。こちらの都合など最初から勘定に入っていないような振る舞いだった。
俺は会話を短く切り、必要な情報だけを拾おうとしていた。
今夜で最後にするつもりだった。
少なくとも、俺にはリシェリアの外出予定など知らされていない。彼女はイェルス家で婚約者教育を受ける日で、王都市街にあるイェルス家の邸にいるはずだった。防護を覚えつつあるとはいえ、国家最高の賓客であり、現聖女であり、グラントの婚約者でもある。護衛もなく外へ出るなど、通常ならあり得ない。
だから、会うはずがなかった。
高級店を出て、メレディスの手を取り、馬車へ導いたその時だった。
「あ」
耳に馴染みすぎた声が、夜気を震わせた。
思考が一瞬で止まる。
振り返りたい衝動を、ほとんど反射で押し殺した。夜風が花を散らす。街灯の明かりの向こう、視界の端に赤い影がかすめた。
セラン。
赤い髪。鋭い眼差し。
その傍らに、外套に包まれるように寄り添う、茶色がかった髪の女がいた。
浮気か。
あり得ないと知りながら、嫉妬に濁った思考が一瞬だけそう決めつけた。
ばかめ。そのままリシェリアに告げ口して、少しだけでも彼の完璧な信頼に亀裂を入れてやる。
そんな浅ましい悪意が、刹那、脳裏をよぎる。
だが次の瞬間、息が止まった。
散る花弁の向こうに立っていたのは、見間違えようもない――リシェリアだった。
髪には茶色の付け毛を編み込んでいる。白銀を隠し、町娘のような衣を纏い、セランの外套に半ば包まれていた。
それでもわかる。
どんな姿をしていても、俺がリシェリアを見間違えることはない。
リシェリアと目は合わなかった。
合うはずがなかった。
咄嗟に視線を逸らしたからだ。まるで、焼けつくような痛みから逃げるみたいに。
見られたかどうかもわからない。だが、夜気の揺らぎの中に、彼女の気配を確かに感じた。俺の名を呼ぶこともなく、ただ静かにそこにいた。
なぜ、ここに。
どうして、そんな姿で。
頭がうまく回らなかった。
演技を続けていたはずなのに、顔が崩れていなかった自信がない。メレディスの手を取る指先が、ほんのわずかに震えた。誰かが見ていなかっただろうか。彼女か、取り巻きか、それとも――セランか。
そのまま馬車へ乗り込む。
扉が閉まる音が、胸の奥でやけに大きく響いた。
車内にはメレディスの香水が満ちていた。白粉の匂いと混ざり、呼吸をするたびに肺の内側まで汚れていくようだった。
隣でメレディスが何かを話していた。
俺は頷いたのだと思う。
多分、相槌も打った。
だが言葉の意味は入ってこなかった。耳は開いているのに、音だけが薄膜の向こうへ遠ざかっていく。
車輪の音。
馬の蹄。
春の夜のざわめき。
全部が遠かった。
どうやって別れの挨拶をしたのか、よく覚えていない。
気づけば、ひとりで石畳の上を歩いていた。夜風が頬を刺し、その冷たさだけが、かろうじて感情を押し留めていた。
胸の奥で、何かがずっと叩き続けている。
数秒前、俺はセランを見て、浮気だと断じた。
あざけるつもりだった。
彼の信頼に亀裂を入れたいとさえ思った。
だが、それは刃のように跳ね返り、今度は自分の胸を貫いていた。
リシェリアの前で。
演技とはいえ、他の女の手を取らだけならまだしも。
微笑み、腰を支え、耳元で言葉を囁いた。
それを、どこから見ていたのだろう。どこまで見たのだろう。
彼女が何を思ったのかを考えるだけで、呼吸が浅くなる。
違う。
違うんだ。
俺は裏切ってなどいない。
これは策で、任務で、義務で、必要な演技だった。
そう言い聞かせても、胸の奥では、まるで不実を暴かれた男のように痛んでいた。
リシェリアと俺は、まだ何も結ばれていない。
恋人でもない。夫婦でもない。約束もない。ただ、俺が一人で勝手に思い焦がれているだけで……
それでも。
彼女の前で、信仰を踏みつけたような、神聖なものを汚したような罪悪感が、喉の奥を焼いていた。




