春の夜の波紋
「……あ」
リシェと過ごした休みの終わり。王城に戻るために乗り合い馬車を待っていたときのことだ。
すこし肌寒くて、街灯の光が白く滲んでいた。風に混じって、ふと懐かしい匂いが流れてきた。
俺の鼻で気づかないわけにはいかない。
それは警戒すべき――恋敵の匂いだった。
本能的に、敵の姿を目に収めようとそちらへ顔を向けた。
それでもその場面は意外なものだった。そんな姿もあるのかと、驚きが先に走った。
そして、口をついて出たのが、さっきの間の抜けた声だったんだ。
そこにいたのは、想像通りカイルだった。
ただし、隣にいるのはもちろんリシェじゃない。
趣味の悪い、見知らぬ女だった。
女は媚びるみたいに身体を寄せ、腕が絡むほど近づいている。
香油と化粧の匂いがやたら強い。
けれど、安物の派手さじゃない。
仕立ての良い夜着に、さりげなく編み込まれた金糸。
耳元では小粒の宝石が街灯を弾いている。
高位貴族特有の、金を惜しまない育ちの良さは隠しきれていなかった。
ただ、その全部がどこか噛み合っていない。
清廉だとか、奥ゆかしさだとか。
たぶん、そういう“高貴な女らしさ”を纏っているつもりなんだろう。
けれど本当にそういう空気を持つ女は、香りで自分を塗り潰したりしない。
女の側には熱がある。媚びも欲もある。
でも、カイルからは違った。
浮ついた匂いがない。女へ向ける欲もない。
機嫌を取っているのはわかる。言葉も合わせているんだろう。
だが、その奥で、辟易とした疲労と苛立ちを押し殺しているのもわかった。
女はカイルしか見ていない。
けれどカイルは、相手へ向き合っているようで、ほんの半歩だけ引いていた。
踏み込ませない距離。逃げ出すほど拒絶してはいない。だが、自分の領域には決して入れない。
その場に留まるためだけに、全身の筋肉が張っている感じだった。
……ああ。献金か何かの見返りに、接待でもさせられてんのか。
そんなふうに思った。
俺の声を、カイルは聞こえなかったように無視した。
視線も向けない。まっすぐ前だけ見て、俺なんか存在しないみたいに振る舞っている。
けれど、見られたことには気づいたんだろう。あいつの身体が、ほんのわずかに強張った。
気づかないわけがない。
……悪いことをしたな。
意味を考えるより先に、直感でわかっていた。
あれは仕事だ。全身から、任務特有の匂いがしていた。
言葉を交わしたわけでもない。でもわかる。
……他人の狩場に入っちまった。
同じ獲物を追っていない時は、狩人同士、互いの邪魔はしない。
なのに俺は声を出して、集中を乱した。全面的に、こっちが悪い。
そのあと、あーあ、と思った。
頭に浮かんだのはグラント様の顔だ。
以前、釘を刺された。
“休暇の聖女と一緒にいる姿”は、カイルに極力見せるな――と。
なのに今回、真正面から鉢合わせてしまった。
リシェは、夜風の冷たさを分け合うみたいに、俺の腕にぴったりくっついていた。外套で包むようにしていたから、髪も隠れている。
運が良ければあちらからは見えていないかもしれないが。
相手の女の匂いが強すぎて、気づくのが遅れたのも失敗だった。
あんな近くまで接近を許すとは思わなかった。
……たぶん、あれは周囲に告知してない単独行動だったんだろう。
基本、カイルとは鉢合わせしないよう予定は少しずつ調整されている。
こっちにも落ち度はある。
けど、それでもあの遭遇は予想外だった。
だが、一番まずかったのは――リシェに、カイルの姿を見せたことだった。
今日の時間は、リシェへ“普通の日常”を返すための休みだった。
聖女でもなく、象徴でもなく、ただのリシェとして過ごさせるための一日。
そのために休みを合わせて、場所を選んで、時間を作ったのに。
その目に、“役目そのもの”みたいなカイルを映しちまった。
カイルに見られたかもしれないことよりも、見せてしまった事の方が失策に思う。
「リシェ。今の……見た?」
誰を、とは言わない。けれど、リシェには通じた。
「うん」
すぐ返事が返る。
動揺はない。呼吸は乱れていない。袖を掴む指にも強張りはない。体温も、匂いも、そのままだ。
不安も、怒りも、嫉妬もない。
カイルの隣に知らない女がいた。
ただ、それを見たというだけ。その程度の認識だった。
心の底から、ほっとした。
「見なかったことにしておこうか? ……私、お忍びの姿を見られない方がいいんだもんね?」
思いついたみたいに、リシェが笑う。
秘密だよ、とでも言うような目だった。
……少なくとも。
カイルの隣に女がいたことに、嫉妬すらしていない。
その事実に、気持ちがほどける。
――そうだよな。だって、リシェは。
先日の病床での、弱って、そして俺に甘えた姿を思い出して、すこし顔が緩んだ。
ふふん。今日も、俺の勝ちだ。
「ああ。知らんぷりしとけ」
軽く背中を叩きながら返す。
正直、あとでグラントに何か言われるのは御免だ。
俺だけが見たことにしておく。
あいつの目に映った俺も、なかったことにする。
ここで余計なことを言えば、リシェは考える。
気にしなくていいことまで抱え込んで、変な方向へ悩み始める。
その挙句、カイルのことが、あいつの心に足跡みたいに残るかもしれない。
そんなのは嫌だ。
リシェには、何も知らないふりをさせる。その方が、みんなのためだ。




