道を切り開く刃
花開いた桃の果肉から、甘い芳香が静かに立ちのぼった。
アスティが硬直した。
その瞳に、ありありと驚きと警戒が浮かぶ。
果汁はほとんど乱れていなかった。
潰れも、裂けもない。
柔らかな果肉が、刃物よりも滑らかに分かたれている。
「そんなことができるの。何……これは……」
声は低く、けれど震えていた。
午後の日差しが彼女の横顔を照らし、わずかに影を落としている。アスティは戦場で何度も不可思議なものを見てきたはずなのに、それでも今のこれは、彼女の知る常識の範囲を越えていたのだと思う。
それは、ただ珍しい力を見た顔ではなかった。
人を傷つける技術が、何の音もなく桃を開いた。
その事実を、軍に身を置く者として一瞬で理解した顔だった。
一方で、カイルは冷静だった。
目の前の現象を、まるで観察するように見つめている。
「霊質を物理にしたのか。……固められるなら、確かに可能か。今までにない発想だな」
その声には、感嘆というより、理論を組み立てる知性の響きがあった。
灰紫の瞳が、光を反射して淡く揺れている。アスティの動揺とは、まるで反対の反応だった。
二人の温度差が、部屋の空気に奇妙な張りをつくる。
私は少し俯き、息を整えた。
「……最近気がついて、凶器にもなってしまうのが……自分でも少し怖くて」
半分は、嘘だった。
最近ではない。
もうずっと前――サリーナのあの大波の日に、私はこれを使った。
そして、それを“なかったこと”にしてきただけ。
心の奥底に沈めて、見えない層の下へ封じ込めていた。
本当は、これがどうして怖いのかまで話さなければならない。
けれど、そこに触れた瞬間、喉が閉じた。
まだ、言えない。
アスティがまだ言葉を探している間に、カイルが続けた。
「なるほどな。……何が怖いんだ? 新たな使い方が見つかって、色々便利そうだけど」
あまりに淡々とした声だった。
私の震えを、理屈で覆い隠すような調子。
その反応に、私は少しだけ救われて、少しだけぞっとした。
怖いものを怖いままにしない人。
けれど、怖いものにも迷わず手を伸ばしてしまう人。
「……あんたねえ……」
アスティが呆れたように小声で言う。
けれど、その眉間には皺が寄っていた。戦士としての実感と、聖女を守る立場。その二つの間で、彼女自身も揺れているのがわかった。
カイルは少しだけ声を低くする。
「まさか軍事利用とか考えているのか? そもそも、みんなができることではないだろ。……それとも、リシェリアがそう使うとでも思っているのか? 俺には、それこそありえない」
そう言いながら、私の顔をまっすぐに見た。
その眼差しには、疑いも、恐れもなかった。
ただ、信頼があった。
愚直で、真っすぐな信頼。
「それは、そうだけど……」
アスティもようやく頷く。
納得というより、諦めに近い声音だった。
二人の間に沈黙が落ちる。
その中で、私は自分の胸の奥が痛むのを感じていた。
カイルもアスティも、私を疑わない。
それが、少しだけ刺さる。
こんな私を、まだ“聖女”だと信じてくれることが、いちばん痛かった。
カイルが静かに顔を上げる。
その表情からは、からかいも、理屈だけの冷たさも抜け落ちていた。
真剣な顔。
私がずっと、尊敬してやまない時の顔だった。
「リシェリア。会議の時にも……俺は示したはずだ。人は、何も知らないものを怖がる」
穏やかな声。
けれど言葉には、鋭い芯が通っていた。
沈黙を破って響くその声に、アスティも姿勢を正す。
「わからないもの。知らないもの。怖いもの。……なぜそうなのか、考えて、言葉にするんだ」
そう言って、カイルは手を差し出した。
指先で軽く、アスティの腰にある短い護身刀の鞘を指す。
無言で、貸せ、と示していた。
アスティは眉をひそめて、ため息をつく。
「……わかったわよ」
そう言いながら、鞘ごと渡した。
カイルはそれを受け取ると、何のためらいもなく柄を握る。
刃が、すらりと音を立てて抜かれた。
淡い光を受けて、刀身が青白く輝く。
私の目が、そこへ吸い寄せられた。
刃に映ったのは、息を呑む私自身。
怯えている。
けれど、その瞳の奥には、何かを求めるような光もあった。
まるで、彼がこの恐怖を“言葉”に変えてくれるのを待っているみたいだった。
「これは凶器だ」
カイルの声が、刃のように静かに通る。
「でも桃を切ることもできる。そしてこれはアスティの護身刀。身を守る力だよ」
刃先を軽く返し、光を滑らせる。
その一動作が、私の中で絡まっていた怖れを、少しだけ解いていくように見えた。
……そっか。
そうか。
破壊と守りは、同じ線上にある。
それをどう使うかが、すべてを分ける。
カイルは刀を丁寧に納め、鞘をアスティへ返した。
そして、私をまっすぐ見つめる。
「俺は、君も、君の力も、破壊や暴力のためには使わせない。俺がそう導く。俺は、君に選ばれた指導係なんだから」
その微笑みは、春の光みたいに柔らかかった。
胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。
怖れの中に、少しだけ希望が灯った。
「格好つけちゃって」
アスティが肩をすくめる。
けれど、その口元には笑みが浮かんでいた。
おもむろにもう一度刃を抜き、桃の果肉に刺して――そのまま口に入れてしまった。
桃にかけた守りはとっくに解けている。何の抵抗もなく、瑞々しい音を立てて口の中へ消えていく。
「まだ青いかな」
「そんなことのために使っていいものじゃないだろ」
カイルが、護身刀を銀器のように使ったことを眉をひそめて咎めた。
「あんたがそれ言う? ま、カイルに任せて大丈夫そうね。引き続きよろしく」
それから、私へ目を向ける。
「そうね。使い道次第だわ。リシェリア、教えてくれてありがとう。……リシェリアが使いこなせるまで、私もどこにも言わないから」
静かな誓いのような声だった。
その言葉は、胸の奥にずしりと落ちる。
重い信頼。重い責任。けれど、確かな言葉。
春の午後の光が、机の上の切り分けられた桃を照らしていた。
その香りは甘く、少し切なくて、そして確かに――生きていた。




