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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
15章 生傷
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道を切り開く刃

花開いた桃の果肉から、甘い芳香が静かに立ちのぼった。


アスティが硬直した。


その瞳に、ありありと驚きと警戒が浮かぶ。


果汁はほとんど乱れていなかった。

潰れも、裂けもない。

柔らかな果肉が、刃物よりも滑らかに分かたれている。


「そんなことができるの。何……これは……」


声は低く、けれど震えていた。


午後の日差しが彼女の横顔を照らし、わずかに影を落としている。アスティは戦場で何度も不可思議なものを見てきたはずなのに、それでも今のこれは、彼女の知る常識の範囲を越えていたのだと思う。


それは、ただ珍しい力を見た顔ではなかった。

人を傷つける技術が、何の音もなく桃を開いた。

その事実を、軍に身を置く者として一瞬で理解した顔だった。


一方で、カイルは冷静だった。


目の前の現象を、まるで観察するように見つめている。


「霊質を物理にしたのか。……固められるなら、確かに可能か。今までにない発想だな」


その声には、感嘆というより、理論を組み立てる知性の響きがあった。


灰紫の瞳が、光を反射して淡く揺れている。アスティの動揺とは、まるで反対の反応だった。


二人の温度差が、部屋の空気に奇妙な張りをつくる。


私は少し俯き、息を整えた。


「……最近気がついて、凶器にもなってしまうのが……自分でも少し怖くて」


半分は、嘘だった。


最近ではない。


もうずっと前――サリーナのあの大波の日に、私はこれを使った。


そして、それを“なかったこと”にしてきただけ。


心の奥底に沈めて、見えない層の下へ封じ込めていた。


本当は、これがどうして怖いのかまで話さなければならない。

けれど、そこに触れた瞬間、喉が閉じた。


まだ、言えない。


アスティがまだ言葉を探している間に、カイルが続けた。


「なるほどな。……何が怖いんだ? 新たな使い方が見つかって、色々便利そうだけど」


あまりに淡々とした声だった。


私の震えを、理屈で覆い隠すような調子。


その反応に、私は少しだけ救われて、少しだけぞっとした。


怖いものを怖いままにしない人。

けれど、怖いものにも迷わず手を伸ばしてしまう人。


「……あんたねえ……」


アスティが呆れたように小声で言う。


けれど、その眉間には皺が寄っていた。戦士としての実感と、聖女を守る立場。その二つの間で、彼女自身も揺れているのがわかった。


カイルは少しだけ声を低くする。


「まさか軍事利用とか考えているのか? そもそも、みんなができることではないだろ。……それとも、リシェリアがそう使うとでも思っているのか? 俺には、それこそありえない」


そう言いながら、私の顔をまっすぐに見た。


その眼差しには、疑いも、恐れもなかった。


ただ、信頼があった。


愚直で、真っすぐな信頼。


「それは、そうだけど……」


アスティもようやく頷く。


納得というより、諦めに近い声音だった。


二人の間に沈黙が落ちる。


その中で、私は自分の胸の奥が痛むのを感じていた。


カイルもアスティも、私を疑わない。


それが、少しだけ刺さる。


こんな私を、まだ“聖女”だと信じてくれることが、いちばん痛かった。


カイルが静かに顔を上げる。


その表情からは、からかいも、理屈だけの冷たさも抜け落ちていた。


真剣な顔。


私がずっと、尊敬してやまない時の顔だった。


「リシェリア。会議の時にも……俺は示したはずだ。人は、何も知らないものを怖がる」


穏やかな声。


けれど言葉には、鋭い芯が通っていた。


沈黙を破って響くその声に、アスティも姿勢を正す。


「わからないもの。知らないもの。怖いもの。……なぜそうなのか、考えて、言葉にするんだ」


そう言って、カイルは手を差し出した。


指先で軽く、アスティの腰にある短い護身刀の鞘を指す。


無言で、貸せ、と示していた。


アスティは眉をひそめて、ため息をつく。


「……わかったわよ」


そう言いながら、鞘ごと渡した。

カイルはそれを受け取ると、何のためらいもなく柄を握る。

刃が、すらりと音を立てて抜かれた。


淡い光を受けて、刀身が青白く輝く。


私の目が、そこへ吸い寄せられた。


刃に映ったのは、息を呑む私自身。


怯えている。


けれど、その瞳の奥には、何かを求めるような光もあった。


まるで、彼がこの恐怖を“言葉”に変えてくれるのを待っているみたいだった。


「これは凶器だ」


カイルの声が、刃のように静かに通る。


「でも桃を切ることもできる。そしてこれはアスティの護身刀。身を守る力だよ」


刃先を軽く返し、光を滑らせる。


その一動作が、私の中で絡まっていた怖れを、少しだけ解いていくように見えた。


……そっか。


そうか。


破壊と守りは、同じ線上にある。


それをどう使うかが、すべてを分ける。


カイルは刀を丁寧に納め、鞘をアスティへ返した。


そして、私をまっすぐ見つめる。


「俺は、君も、君の力も、破壊や暴力のためには使わせない。俺がそう導く。俺は、君に選ばれた指導係なんだから」


その微笑みは、春の光みたいに柔らかかった。

胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。

怖れの中に、少しだけ希望が灯った。


「格好つけちゃって」


アスティが肩をすくめる。

けれど、その口元には笑みが浮かんでいた。


おもむろにもう一度刃を抜き、桃の果肉に刺して――そのまま口に入れてしまった。

桃にかけた守りはとっくに解けている。何の抵抗もなく、瑞々しい音を立てて口の中へ消えていく。


「まだ青いかな」


「そんなことのために使っていいものじゃないだろ」


カイルが、護身刀を銀器のように使ったことを眉をひそめて咎めた。


「あんたがそれ言う? ま、カイルに任せて大丈夫そうね。引き続きよろしく」


それから、私へ目を向ける。


「そうね。使い道次第だわ。リシェリア、教えてくれてありがとう。……リシェリアが使いこなせるまで、私もどこにも言わないから」


静かな誓いのような声だった。

その言葉は、胸の奥にずしりと落ちる。


重い信頼。重い責任。けれど、確かな言葉。


春の午後の光が、机の上の切り分けられた桃を照らしていた。

その香りは甘く、少し切なくて、そして確かに――生きていた。


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