進むための告解
私が夢のせいで五日も休んでしまったあと。
また日常の執務室に私は戻ってきた。窓の外では若葉が陽に透け、風にゆらめいている。
「お休みいただきすみません。戻りました。今日からまたよろしくお願いします」
深く頭を下げる。
私が休みで一番大変なのは、この人――カイルだ。
「いや、全然構わないよ。君の体調が一番だ」
いつもの穏やかな声。
執務室に入るなり、カイルは机の奥から椅子を押しのけ、ためらいもなく私のそばに来た。
薄い紙束を手にしたまま、真剣な眼差しで私の顔を覗きこむ。
「もう大丈夫なのか? ……少し、やつれた」
灰紫の瞳が近い。光を宿して揺らぐ。
それは、心配というよりも、何かもっと奥深い場所からの痛みのように見えた。
静かな痛みを湛えたまま、じっと私を覗き込んでいる。
……外では、少し距離を置くようになったけれど。
婚約発表のあとから、カイルは以前ほど露骨に近づかなくなった。
人の視線がある場所では、きちんと線を引いている。
けれど、こうして執務室や特別礼拝室のような比較的閉じられた場所では、カイルは戻る。
誰もいない時は、距離が近い。
それはセランのように、家族に近い距離――けれど違う。
あの陽だまりみたいな温もりではなく、もっと熱のある距離。
いつからこうなったんだろう。
最初は、あんなに遠い人だったのに。
冷たくて、綺麗で、何を考えてるかわからなくて。
いつのまにかこんなに近くに来ていた。
……でも。
近くにいるのに、時々とても遠い。
私を見ているようで、その瞳がもっとずっと遠くを見つめている事がある。
その目は、私を見ていない。
だからまだ、計り知れない。恋じゃないのかもしれない。
――もう少し、観察してみよう。
まだ答えを出すには早い。
そもそも、急いで答えを決めなければいけない理由もない。
見つめ返していると、カイルが一瞬だけ視線を逸らした。
そして、ほんの少しだけ頬を緩める。
「それに、ついこないだ俺の方が長く伏せっていたしな……気にしないで欲しい。もしかして移してしまったかもしれないな」
「いえ。そんなことは」
私はすぐに首を振った。
違う。
原因は夢だ。
サリーナで、セランとウルを守ろうとして――逆に傷つけてしまったあの日。
あの光景が、ずっと胸の奥に沈んでいる。
けれど、私の力が、人を癒すだけでなく――ときに害することもある。
私しか知らない。
誰にも見えていない、塗り潰された記憶。
私の力が、人を癒すだけじゃなく――傷つけることもできるということ。
その事実だけは、ちゃんと話さなきゃいけない。
そう思った瞬間、喉の奥に冷たいものが込み上げた。
吐き気みたいな、嫌な感覚。
「リシェリア? やはりまだ万全じゃないんだろうか」
カイルの声が、少し近づく。
顔に出てしまったんだろう。
自分でも、指先が小さく震えているのがわかった。
「あ、ええ……。お話ししたいことがあって。アスティとカイルに。二人が揃う時に、お時間いただきたいです」
私は息を整えて、彼の目を見上げた。
灰紫の光の奥に映る自分が、ほんの少し、迷っている。
私の顔が深刻そうだったのだろう、カイルはすぐにアスティに連絡をし、その日の午後には場を用意してくれた。
特別礼拝室に入った途端、アスティとカイルは互いに一瞥を交わし、すぐに神妙な面持ちに変わった。
私たち以外には誰もいない。
軽く人払いをして、扉を閉める音が静寂を呼びこんだ。
……この部屋、最初は少し奇妙な“カイルとの交流会”の為の部屋だったのに、今では沢山の秘密を抱えている。
秘密の癒し、異能の秘密特訓。偽婚約の秘密、……そして今日もまた、私の罪の一端を打ち明けることになる。
まるで、私の告解室みたいだ。
そんなことを、ぼんやり思った。
二人とも着座して、ただ私の懺悔を待つように見守っていた。
アスティは背もたれにゆるく身を預け、腕を組んで様子をうかがっている。
カイルは頬杖をつきながら、視線だけが鋭く私を追う。
春うららかな午後の光が、窓の外から差しこみ、机の上に柔らかい陰影を作っていた。
机の上には、早なりの桃を一皿置いてある。
淡い香りが、光の粒とともに揺れる。
――壊れてもいい、柔らかなもの。
そんなものを想定して用意した。
「防護……異能で、守ります」
アスティとカイルが静かに頷く。
私は深呼吸をして、手を伸ばした。
桃の上に意識を集中させる。
その言葉の輪郭を、心の中に丁寧に描いていく。
そこへ力を満たしていくと、見えない糸みたいなものが果実の表面を撫で、ぴたりと留まった。
知覚の中では、桃の外側に透明な膜が一枚張られたように見える。
「どうでしょうか」
確認する声が少し震えた。
「うん。良さそう」
アスティが立ち上がり、桃を指先で押す。
ぐっと力を込めても、指は沈まない。
「自分にもかけられるようになったとは聞いたけど」
「ええ、そう……そうですね。多分」
口にした瞬間、頬が熱くなった。
――カイルとの訓練を思い出してしまったから。
あれから何度も、“触れさせない”訓練をした。
カイルは、わざと距離を詰めたり、耳元で囁いたり、平然と心拍を乱してきた。
困ることは多かったけれど、そうやって気負う気持ちを抑えて、平静を保つことに少しづつ慣れた。
そして、ようやく形になってきた。
カイルは、そんな内情などおくびにも出さず、真顔でアスティに向き直る。
「何度か訓練したから、多少は使えるようになってるから安心してくれ。……どうにも消極的だけど」
「そう、ですね。どうしても……ちょっと苦手で。できれば使わないでいたいです」
使うこと自体が怖い。
あの時みたいに、また誰かを巻き込むかもしれないと思うと、胸の奥がざらつく。
「お話ししたいのも、近い話です」
私は姿勢を正し、今度は空中へ指を滑らせた。
何もない空間へ、力を伸ばしていく。
薄い、硝子のような透明な板に似たものが、目の前に静かに現れた。
二人が同時に息を呑む。
「浮いてる……」
アスティの声に、驚きと興奮が混ざる。
「……空間に、展開したのか」
カイルは眉を寄せ、板状の何かを観察するように目を細めた。
本来、防護は物や生き物を基点にして発動するものだと聞いている。
空間そのものへ作用するなんて、普通はありえないらしい。
でも、私は感じていた。
世界の力は、水脈みたいにどこにでも流れている。
見えないだけで、何もない場所なんて存在しない。
カイルがゆっくり口を開く。
「いや……リシェリアは嵐の中の水分にも働きかけられた。目に見えないだけで基点は有る。うん、原理的におかしくはない」
その声には驚きがありながらも、同時に理解を探る静けさがあった。
理屈を探そうとする。
未知を恐れるより先に、構造を見ようとする。
……やっぱり、頼りになる。
少しだけ安心しながら、私はもう一度意識を集中させた。
「行きます」
喉が詰まる。
セランとウルを切ってしまった、あの瞬間が脳裏を掠めた。
顔が歪む。
「リシェリア……大丈夫?」
アスティの声は柔らかい。
けれど、カイルは黙ったままだった。
その瞳だけが静かにこちらを見ている。
冷静で、鋭くて、残酷なくらい正確な目。
次に何が起きるのかを、見逃さない目。
「だ、大丈夫です……」
なんとか声を絞り出した。
大切なものを守るために。
怖くても、進まなきゃいけない。
私は板状に展開した霊質を広げる。
球状にはしない。
あの形を思い出すだけで胸が苦しくなるから。
……せめて、好きなことを考えよう。
桃を食べやすく切るみたいに。
綺麗に八等分にするみたいに。
指先で思考を滑らせる。
力が音もなく動いた。
次の瞬間。
桃が、触れずに花みたいに開いた。
柔らかな果肉が等間隔にひらき、断面が陽を受けて淡く光る。
甘い香りが空気に広がり、静寂の中へゆっくり落ちていった




