再び起きて回り帰る
「リシェリア、起きれそう?」
その声が、夢の底に差し込む光のように届いた。
アスティの声。
穏やかで、けれど芯の通った響き。
目を開けると、天井の白がやけに眩しい。
寝具の柔らかさ、部屋に満ちる朝の匂い――
ああ、久しぶりに、ちゃんと眠れたんだ。
体を起こすと、胃のあたりが空っぽで少し鳴った。
お腹が減っている。
体が生きてもいいと言ってくれていた。
意識は明瞭で、頭の奥の霞がようやく晴れたようになっている。
「……うん、起きる」
声を出した瞬間、喉が乾いていることに気づいた。
それでも、言葉がきちんと出たのが嬉しい。
久しぶりに、朝食に出ることにした。
アスティと並んで食卓につく。
温かな陽光が窓から斜めに差し、銀の食器が静かに光る。
心なしか、空気が優しく揺れて見えた。
セランは、私が起きる気配もなかったので、
昨夜は夕食を二人分食べて帰ったらしい。
私の分まで。
「――あいつ、主菜お代わりしていったわ」
アスティが呆れたように笑う。
その口調が、いつもより柔らかかった。
私はつられて笑ってしまう。
唇が自然にほころぶのは、何日ぶりだろう。
笑うという行為が、こんなに胸をあたためるなんて。
「リシェリア様は、お腹に優しい粥にしておきましょうね」
サフィアが優しく声をかけ、
湯気のたつ粥を器に盛ってくれた。
湯気の向こうで、彼女の微笑みがかすんで見える。
匙を口に運ぶと、甘みが舌に広がった。
あたたかくて、やさしい味。
喉を通るたび、胸の奥にまで染みていくようだった。
――気持ちが、あたたかい朝。
あの日から止まっていた時間が、
ゆっくりと流れ出していくのを感じる。
けれど、その温もりの奥で、私は決意していた。
もう、セランの傷を増やしたくない。
彼を傷つけるのはもう嫌だ。
だからこそ、癒したい。
癒せるようになりたい。
……そして。
恋も見つけなきゃいけない。
セランが私に足りないっていう「恋」というものを、
見つけ、確かめなくちゃいけない。
だから、私は戻らなきゃ。
あの場所へ。
力を使う。
使いこなす。
恐れるのではなく、自分の意志で制御する。
完全に――支配下に置く。
そうして初めて、きっと贖える。
償いになる。
あの日失ったものの一部でも、取り戻せるかもしれない。
少なくとも、セランはまだ生きている。
その事実が、私を立たせる。
「アスティ、サフィア。……私はもう大丈夫。
……戻るね。お城に」
声に迷いはなかった。
ふたりの視線のあたたかさが、背中を押してくれた。
お城に戻った次の朝。
まだ誰も来ない早朝の庭に出た。
空気はやわらかく、冬の名残ももうない。
春真っ盛りの香りが土の奥から立ちのぼっている。
五日ぶりくらいだろうか。
私が見ないうちに、花が散ってしまったものもある。
やるはずだった受粉の作業、剪定の計画。
それらはもう終わっていた。
ジェスとセランが、私がいなくても、まるで私の望みを知っていたように、庭を守ってくれていた。
セランだけじゃない。
アスティも、サフィアも。
みんな、私を守ろうとしてくれていた。
祭祀庁も、王国軍も、私を守ってくれる。
それぞれの立場で、静かに囲い、支えてくれている。
――グラント様との婚約も、その一つ。
私を守るためでもある。
そう分かっている。
……カイルも、もちろんそうだ。
あの人は誰よりも冷静に、私を人として守ってくれた。
心の闇に踏み込み、光を差し出すように。
「……嬉しいな」
思わず小さくこぼれた言葉。
胸の奥が、ほんのりと温かくなる。
私も、守りたい。
ただ守られるだけじゃなく、同じように、誰かを。
セランは嵐の時の怪我を、残したい傷だと言っていた。
消えなくてもいい傷――忘れてはいけない痛み。
それを抱いて生きるという強さ。
なら、私もそうしよう。
セランにつけてしまった傷、そして私が消してしまった傷。
もう戻せないけれど、記憶の中では決して薄れさせない。
夢の中でまた出会う時は、怖くても直視しよう。
どう傷つけたのかを見つめ、心に刻もう。
逃げずに、受け止めていく。
そんなことを思いながら、ふと一つの枝を見た。
剪定の跡から、小さな緑がのぞいていた。
「あ。すごい」
声が自然にあふれた。
「……何が?」
背後から低い声がする。
振り向かずともわかる。セランだ。
声だけでなく、気配でわかる。
背中を包みこむような温もりの存在。
「早いね。おはよう。ほら、もう新芽があるの」
剪定された枝の切り口から、若い芽が顔を出している。
私は指先で触れないように、そっとセランに示した。
「はよ。お前が見に来ると思って。
……ほんとだ。切ったばかりなのに。
生きてやろうって力がすげえなあ」
セランの声に、微かな笑みが混じっているのが分かった。
その音が、春の朝の風と混ざって心地いい。
「……本当は摘まなきゃダメだけど、今日はそのままにしよう」
そう言いながら振り向いた。
近くに顔がある。
目が合う。
「ん、顔色も戻ってるな。良かった」
安心したように言って、セランが少し笑った。
その笑みは、ぶっきらぼうで、優しかった。
――これが、家族の顔じゃなくて。
恋をする人の顔、なのかもしれない。
その考えが胸の奥でふくらむ前に、私は頬に、軽く口づけた。
……このくらいなら、挨拶だと言い切れる範囲だと思うから。
「おまえ、また!」
セランが狼狽して赤くなり、慌てて頬を押さえる。
素早く左右を見回して、周囲に人がいないことを確認すると、深くため息をついた。
「……何。嫌がらせ? それとも……早速、芽生えた?」
呆れと期待が半分ずつ混じった目。
その表情が、なんだか可笑しくて。
「ううん。おまじないのお礼だよ」
セランが帰る前、瞼にしてくれたふたつの口づけ。
――悪夢を見ないように、というおまじない。
眠りに溶ける前に感じていたから。
「お礼までがひと組だって言ったのは、セランでしょ?」
言い返すと、セランは目を細めて笑った。
「そうだったな……リシェ、おかえり」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
セランは兄のような顔になって、私の頭を撫でた。
春風が髪を揺らし、光の粒が枝の間からこぼれていた。




