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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
16章 恋のから騒ぎ
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観劇者たち

私のもとに届いた観劇の招待状は、封を開けた瞬間からただならぬ気配を放っていた。

紙質からして高級、筆跡は完璧に整っていて、印章にはイェルス公爵家の紋。


――親愛なる我が右腕 アストリット嬢


明日、王立劇場で、最も新しく瑞々しい恋劇が初演される。

恋知らぬ無垢な姫と若き士官の道ならぬ恋の行末が描かれるという、ありふれた陳腐な筋書きだ。

だが、芝居というものは誰と観るかで価値が変わる。


私は骨を折り、手を掛け、貴女に尽くしてきたはずだ。どうか哀れと思うならば、その観劇を共にする贅沢を私に許していただきたい。


幕間には上等な葡萄酒でも用意しよう。

もっとも、そんなものよりも私と君の視線は舞台の上に夢中になるだろう。


劇場に私の名前で貴賓席を予約してある。貴賓席で待つ。


――貴女の忠実なる獅子 レオグラント・イェルス


……嫌な予感しかしない。


それでも、王都の社交儀礼として無視するわけにもいかず、私は王族も足を運ぶという由緒ある大劇場の貴賓席へと赴いた。

座席に腰を下ろす間もなく、隣でグラントが軽く手を振り、言葉を放つ。


「はは、来たな。素晴らしい装いのところ悪いが。さっそくだがこちらに着替えてくれ。すぐ出よう。“開演”まであまり時間もない」


まるで当然のように。

私が反論する間もなく、用意された控室へと押し込まれた。


そして、席に腰を下ろした“私の代わり”は――サフィアだった。

かつての筆頭侍女であり、乳姉妹でもある彼女。

私が昔短く切った時に作られた鬘を纏って、傍目に見れば私そのもの。


……どうやら、グラントが事前に打診していたらしい。


当たり前だ。サフィアはその為に体格を維持し、公女に似せられるように教育を私と共に受けている。

このくらいの家なら、そういう配置はあり得ることで、グラントもそれをわかって打診したはずだ。


これ以上ない人選。


「サフィア。こんなことで迷惑かけてごめん。後で必ず休みを支給する」


「いえいえ。構いませんよ、アスティ様」


私の化身となった彼女は、私そっくりの笑みを浮かべて見せた。


「それで? どこに連れ出すってわけ?」


「もうわかっているんじゃないのか? 当然『白い聖女の赤と黒』黒の公演に決まっている」


グラントは、楽しそうに、あの一か月だけで終えた歌劇の名前を挙げた。


――というわけで、観劇という名の外出が始まった。

要するに、二人の逢瀬の覗き見だ。


薄々は。……いや気がついていた。

二人の外出は計画書を提出させたのだから。その同日に指定をされたのだから。


ただ。有事に備えて待機だとか、警備としてだとか。そういう呼び出しであって欲しかっただけだ。


思わず天を仰ぎたくなる。やはり茶番だった。


向かった先は、王都の外れにある喫茶館。

大通りに面した二階の貴賓席が貸切予約されていた。

大きな窓から、隣接する植物園がよく見える場所だ。


「本当に、趣味が悪いわね」


ため息まじりに呟けば、グラントは愉快そうに唇を緩める。


「いいだろう? せっかく観覧料を支払ったというのに、あいつは俺の前では頑なだからな。私は君が見た面白いものを見たいんだ。聖女殿は君と一緒なら覗いてもいいと言ってくれたからな」


……それを真に受けるのか。


その日のリシェリアの外出先は、植物園。

陽光を受けて輝くガラス張りの温室には、異国の花々が咲き誇り、色の洪水のようだった。

防衛上は脆弱だが――覗くには理想的。


望遠眼鏡を覗くと、つば広帽子をかぶり、淡い色のワンピースを纏ったリシェリアの姿が見えた。

隣には、すました顔で彼女をエスコートするカイル。

どこに出しても恥ずかしくない見た目だが、彼の視線は常に彼女に釘付けだ。

顔色まではわからない。けれど、雰囲気はあまりにも朗らかで、幸福そのものだった。


ふと、リシェリアがこちらに気づいたように手を振った。


「アスティ、見ろ。あいつの仮面がなくなると、こんなに幼いのだな」


「そうね。若い時はあまり遊ぶ暇がなかったんじゃない。早くから家を継いだでしょ」


思わず応じながらも、頬の奥が少し緩む。

彼が、こんなふうに人と笑い合う姿は久しく見ていなかった。


「いや、そんなことはない。王都に出た頃は、私の兄となにかと連れ出して世話を焼いてやったものだが。そのころにはもう、今のような澄まし面をしていたものだ」


「貴方、嫌われてるんじゃないの」


あり得る話だ。

そもそも気質が違いすぎる。

好む娯楽、趣味も振る舞いも全く違う。家格が上の子弟に仕方なくついて回ったんじゃないのか。


「なに? あんなに私を兄と呼んで慕ってきたというのに……おっと、移動するぞ」


外出だからか、人目があるからか、二人の距離は適切だ。

手も触れず、節度を保っている。


――と思った矢先、リシェリアが何かを見つけたのか駆け出した。

慌てて追うカイル。

人を避け損ねてよろけた彼の手を、リシェリアがさっと取った。


その瞬間の、彼の笑顔。


息を呑んだ。

あの男が、あんな顔をするなんて――。

まるで、少年だった。


「面白いというより、見ていて恥ずかしいわ」


「ふむ、興味深いが実に健全だな。“吸う”とかいう奇行は今日は見られないのか……」


「グラント……」


私は心底呆れた。

城内で、私がカイルの奇行を報告した時は、一つ一つを聞いては理解し難いと眉を顰めていたのに、今は愉快そうに指を数えている。


グラントは、公私混同しないどころか、今は別人のように楽しんでいる。まさに観劇のように。


だが、まだ幕は降りなかった。


やがて二人は芝生広場に腰を下ろし、敷物を広げる。

簡素なパンと果物。

庶民のピクニックのような昼食。

カイルは慣れない手つきで果物を剥き、リシェリアが笑いながら手伝う。

次第に彼の肩から力が抜けていくのが、遠くからでも分かった。


そして――彼はそのまま、座った姿勢でうとうとと舟を漕ぎ始めた。


リシェリアはそっと微笑み、彼の頭を膝に預けた。

細い指が、優しく髪を撫でる。


まるで絵画の一場面のような光景。

甘やかで、どこか痛いほど青い時間。


「あの馬鹿……寝てしまったぞ。おい、警備は平気なんだろうな」


「ええ。初回だから外側は手回ししてる。……何より、今は私たちが見てるでしょ」


リシェリアは、こちらが見ていることを知っている。

だからか、小さく手を振った。


「ふむ、聖女もなかなか積極的だな。これでは賭けも……」


「以前より会える頻度が減ったからね。あれだけ干上がってたら、多少は目を溢してやらないと。私は禁断症状が出たあいつを二度と見たくない」


グラントが笑う。

私は茶を飲み干し、席を立った。


「もう進展はないわね。閉館まで寝てるでしょう。行程も終わるし」


そう言った矢先、腕を掴まれる。

グラントが無言で私を引き戻し、望遠眼鏡の前へ。


「おぉ……! これが!」


滅多に見ない、彼の満面の笑み。


そこに映っていたのは――

膝枕の上で、顔を真っ赤にしながらもリシェリアの太ももにしがみつき、今にも顔を埋めそうなカイル。

あの節度ある祭祀官が、恍惚とした表情で深く息をしている。


リシェリアは慌てて押し留めているが、予想外の暴挙に手間取っていた。

こんな人目のある場所でも、やるのか――。


私は思わず額を押さえた。


次の瞬間、グラントの爆笑が貴賓席いっぱいに響き渡る。

劇場よりも派手な笑い声だった。


私はただ、静かに望遠眼鏡から目を離し、視線を外した。

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