消えない傷、残す傷
「また、夢を見たの」
私はセランの胸に額を押しつけ、その奥にある心臓へ向かって囁いた。
「おう」
セランは短く答え、静かに私の髪を撫でる。
その手のひらの温かさに、ずっと凍っていた自分の中の何かがじんわり溶けていく。
「セラン……ごめん」
喉の奥が痛む。
言いたいけど、言えない。
あそこで何が起きたか――私しか知らない。
誰にも見えていない、塗りつぶされた記憶の中の真実。
私が見てしまった、あの瞬間の。
「夢ではセランが怪我をして。助けられなくて」
声が震えて、言葉が途中でかすれた。
セランはいつも通り、落ち着いた声で言う。
「俺は生きてるだろ。ここにいるよ」
その穏やかな響きに、胸が軋んだ。
――確かに、生きてる。
ここにいる。
あたたかい。
なのに、どうして。
どうしてこんなにも、不安なの。
今の私の中には、セランが無事でいるという実感が薄い。
目を離せば、消えてしまうような気がして。
確かめ続けていなければ、彼の存在そのものが壊れてしまいそうで。
それほどまでに――あの光景は、深く焼きついている。
二つに分かたれていく――
「う……」
喉の奥から、また吐き気が込み上げる。
胃の底を掻き回されるような感覚に、身体が小さく震えた。
「リシェ? 吐くならこっち、ほら」
セランが素早く腕をゆるめ、近くの桶を引き寄せる。
「大丈夫……なにもでない……」
かすれる声で答える。
もう吐くものも、胃には何も残っていない。
だから、ただ息をする。
彼の胸に顔を埋めたまま。
――大丈夫。
今、ここにセランはいる。
この腕の中に。
私は、セランを掴んでいる。
その心音を、確かに感じている。
セランはいる。
生きている。
心の中で、その言葉を何度も繰り返して。
それでも――セランが来てくれたから、随分と落ち着いた。
姿が視界にあるだけで、胸の奥のざわめきが静まっていく。
寝台の上で姿勢を起こし、差し出された器を両手で受け取る。
スープはとろりとした舌ざわりで、少し甘い香草の匂いがした。
温度はぬるめで、喉を通ると胃のあたりにじんわり広がる。
久しく忘れていた“生き返る”感覚。
向かいに腰をおろしたセランを見ながら、ゆっくりと口をつけた。
彼の視線が、心配と安堵のあいだを行き来しているのがわかる。
それだけで、スープの味が柔らかく変わった気がした。
「良かった。やっぱりセランくんは特効薬ですね」
三日ぶりにものを口にしている私を見て、サフィアが微笑みながら、それでも目頭をそっと指で押さえた。
「ありがとう、サフィア。心配かけてごめんね」
声を出すと、まだ喉の奥が少し痛む。
それでも、ちゃんと謝れたことが嬉しかった。
「いいんです。お食事の時以外はお邪魔しませんから、たくさん、お薬を補給してくださいね。ご用があれば、セランくんを寄越してください」
その言い回しに、思わず小さく笑ってしまう。
薬扱いされたセランが、困ったように口角を上げて苦笑していた。
サフィアは軽く礼をして、出ていく前にもう一度セランに視線を送る。
セランは、無言で手をひらりと上げて了承の合図を返した。
扉が静かに閉まる音がして、部屋にまた穏やかな空気が戻った。
「ほら、食後の薬も補給しとけ」
「うん」
セランの腕が、笑いながら背中から私を包みこむ。
その感触に、胸の奥の緊張がゆっくりとほぐれていく。
背に伝わる呼吸の温度、鼓動の振動――それらすべてが、世界の安全の証のように感じられた。
この姿勢が好きだった。
放浪していた頃は、互いの体温で命を守り合う実感がもてて、私も役に立てるんだって嬉しかった。
今は、逆にセランにまた助けられている。
温かさが皮膚から血に混じって、少しずつ養分のように沁みていくのがわかる。
それでようやく、心が眠りを許される気がした。
――そうだ。
私は、セランの上衣の裾から手を差し入れた。
指先が布の下に触れると、彼の体温に触れる前にひやりとした空気が流れる。
「うおっ、冷た! なんだ!? やめろ」
セランが肩をすくめ、驚いて身をよじらせる。
その反応に、少しだけ息がもれた。
「あは、ごめんごめん。ねえ服、脱いで。上だけでいいから見せて」
「なんでだよ、聖女様の破廉恥!」
軽口を飛ばす声。
でも、その冗談が胸に刺さる。
……聖女。
私は、聖女なんかじゃない。
口に出せずとも、顔に出たのかもしれない。
セランの表情が一瞬だけ変わって、気まずそうに視線を逸らした。
「……仕方ないな」
そう言うと、彼はサッと立ち上がり、部屋の窓に布を掛けて、外からの視線を遮った。
そして、無言で上着を脱いだ。
静かな音を立てて、布が床に落ちる。
目の前に現れたのは、久しぶりに見る裸の上半身。
以前よりも引き締まり、肩の線は広く、筋肉が硬質な影を落としている。
太陽に焼けた肌。
細かな擦り傷と、戦場で刻まれた小さな痕跡。
綺麗な体だ。
生きて呼吸をしている。
――そこに、私が両断した痕なんて、ない。
その事実に、胸の底からほっと息が漏れた。
傷跡は癒せてしまう。
証拠にはならない。
それでも――もし、いまだにそこに残っていたなら。
私はきっと、もう彼を直視できなかった。
……でも。
内側には、まだ――。
ダメだ。
考えちゃいけない。
見たくない。
でも確かめたい。
矛盾した想いが、波のように胸を満たして離れない。
けれど今は、力を使う気にはなれなかった。
触れたら、また何かを壊してしまいそうで。
だから、やめた。
あ――。
「背中……傷跡、残ってる」
思わず声がもれた。
あの嵐の中、私を庇ってできた傷。
貫通していた。
それ以外にも、擦過傷が幾つも。
その痕がまだ、残っている。
「あー。医務の方では特別に頼まなければ、基本的には消さねえ方針だってよ。出来る異能者が限られるってのも理由らしい」
「そう、なんだ」
私は出来る。
それなら消してあげたい。
この手で、癒したい。
そのためなら――力を使っても、怖くない。
セランの傷を無かったことにするためなら。
「じゃ、今……消してあげるね」
震える指先で、そっと背中に触れようとした。
「おっと」
けれど、その手をセランが取った。
強くも、優しくもない、確かな力で。
「これはいいんだ。俺が残しておきたい傷だから。……さ、もう終わりだ」
その声は静かで、決して拒絶ではなかった。
それでも、何かを締めくくる響きがあった。
セランはすっと立ち上がり、まるで、そこから先へ踏み込ませないように服を着直した。




