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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
15章 生傷
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剥き出しになった弱さ

吐けるものをすべて吐ききって、喉の奥が焼けるように痛かった。

冷たい汗が背中をつたって、呼吸だけがやけに大きく響く。

床に手をついたまま、指先がかすかに震えている。


呆然としていた。

視界の端に、光る銀がちらりと映った。


――カイルから借りた時計。


小さな針が、律儀に時を刻んでいる。

その音が、まるで何かを責め立てるように、静かな部屋に響いていた。


……今は。


今だけは、時計の針が進む音なんて聞きたくない。


時間が進むことすら、痛い。

世界が動いていることが、置き去りにされた私には残酷だった。


ふらつく足取りで机に向かい、時計をそっと手に取る。

重みが、掌の奥に沈んだ。

柔らかい布を何重にも重ねて、その上から包み込む。

声を出さずに、息を詰めて。

音を立てないように――まるで壊れものを埋葬するように。


引き出しのいちばん奥に押し込んだ。

木が軋む音が、胸の中まで響いた。


静かになった部屋。

けれど、静かになればなるほど、内側が騒ぐ。

気を抜くと、自分の中にあるおぞましさが、また顔を出す。

脈打つように、あの夢の断片が蘇る。

瓦礫の音。光。切断の感覚。

あれは夢じゃない。

私が、あの時――。


喉がきゅっと縮まって、息が詰まる。

胃の底からまた込み上げるものを、どうにか押しとどめた。


こんな夢。

いや……こんな過去。


カイルに相談なんて、できるわけがない。

彼の前で、この手が人を傷つけたなんて言えるはずがない。

優しくて、鋭くて、真実を見抜いてしまうあの人に――。

私は、きっと壊れてしまう。


……やっぱり。


私は聖女なんかじゃない。

あんな力で、誰を癒せるというの。

人を守るどころか、壊してしまうのに。


なるべきじゃなかった。

こんなものを抱えたまま、「聖女」と呼ばれるなんて――。


そんな資格、私にはない。


私はその日、立ち上がることすらできなかった。

脚に力が入らなかった。

床に落ちる冷たさが、まるで自分の体温を奪っていくようで。

けれど、起き上がる気力はどこにもなかった。


防護なんて、とうてい無理だった。

あの“膜”の感触を思い出すだけで、吐き気が戻る。

力に触れることそのものが恐ろしくて――

何かが自分の中で蠢く気がして、息を殺して耐えるしかなかった。


他人の手も怖かった。

癒そうと伸ばされる手が、また何かを壊してしまうように感じて。

だから治癒も拒んだ。

祈りも、光も、あの優しい響きでさえ痛かった。


食べようとしても、口に入れたものはすぐ戻ってしまう。

眠ることすら怖い。

目を閉じれば、あの瞬間が、また――。

夢の中で“私”が力を放つ音が聞こえる気がして。

だから夜を越えることもできず、

次の朝には、もっと体調を崩していた。


サフィアが、気づいていたのだと思う。

私の言葉少なな拒絶を、

手を伸ばせば怯える呼吸を。


その日のうちに、彼女はアスティに通達してくれたらしい。

夜には、アスティの市邸の客室に移送された。


灯りの落ち着いた空間。

大きな公務室のざわめきも、祭祀の鐘も聞こえない。

少なくとも、力のことで満たされた息苦しい日々から外してくれて。

ようやく、息がつけた。


深く眠れたわけじゃない。

でも、三日ぶりに、少しだけ眠った。

うつらうつらして、気づいたら朝になっていた。


「よお。……久しぶりに、またうなされちまったか」


目を開けた時、最初に見えたのは――セランだった。


低く掠れた声。

少し笑うような、けれど心配を隠せない声音。

見かねて、アスティが呼んでくれたのだと分かった。


「たまたま城内にいた日だったから、よかったな。

アスティが上官命令で当番を休みにしてくれたけど」


そう言いながら、彼は窓際の椅子に腰をおろした。

けれど私は、座っていられなかった。


「セラン」


名前を呼んだ瞬間、胸の奥から何かが崩れた。

気づけば、彼の体を抱きしめていた。


硬い鎧の感触の奥に、確かな体温。

鼓動が伝わってくる。

ああ――生きている。

本当に、ここにいる。


私はセランの胸に耳を押しあてて、

その心音を何度もたしかめた。

「生きてる」という証の音を、逃さないように。


「おまじない、かけなおしてやらないとな」


穏やかな声。

私の背をゆっくり撫でる、大きな手。

その温もりに、涙がこぼれそうになる。


今は――繋がっている。

命は、繋がっている。


それを感じるたび、胸が震える。

安心と、恐怖がせめぎ合う。


安堵の中でさえ、心の奥底ではまだ、おびえていた。


「ちっと待て」


セランはそう言って、寝台の脇にしゃがみ込み、

金具の音を鳴らしながら硬い軽鎧を外していった。

ぎし、と革の紐が緩む音。

金属の胸当てが外れ、重い音を立てて床に置かれる。


彼はそのまま私の隣に腰を下ろし、抱きかかえる姿勢をつくってくれた。

その腕が開かれるのを見た瞬間、私は間髪入れずに飛び込んだ。

反射のように。

考えるより先に、身体が動いていた。


セランは慌てて来たのだろう。

着の身着のまま、髪も乱れ、

肌に触れた布地がほんのりと湿っていた。

汗ばんだ体温と、微かに残る鉄と煙の匂い。

そのすべてが――“生きている”実感だった。


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