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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
15章 生傷
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悪夢の守りは剥がされる

潮の匂い、ぬるい風。


胸の奥を撫でていくような、湿った空気。

肌に張りつく温度が懐かしい。


――少し久しぶり。悪夢だ。


久しぶりという言葉が、脳裏に浮かんで。

自分でも可笑しくて、ふっと笑った。


私は待っていたのだろうか。

再びここに来ることを。

少しだけ強くなった自分を確かめたくて。

あのころ直視できなかった闇を、今度こそ見つめようとしていたのかもしれない。


白く乾いた砂。鯨の骨のような影。

あの巨きな遺骸の横を通り抜けると、潮風が肺の底まで沁みた。

生臭さと鉄のような匂いが混じって、目が少し滲む。

義父母に忠告して、叩かれた。

平手の音が、潮騒の中でもくっきり響いた。


泣きながら、腕をつかまれて、地下のワイン倉庫に連れていかれた。

冷たく暗い、石壁の中。

木樽と古い葡萄の香りが充満していた。


今その光景を、夢の中で見ながら思う。

――この時は、言い方を変えるべきだったな。

あの人たちも恐かったのだ。

外から来た異物である私を、どう扱っていいか分からなかった。

幼い私はそれを知らず、ただ泣き叫んでいた。


でも、いまは違う。

俯瞰できる。少しだけ。

あの頃よりも。


ああ。カイルのおかげだ。

とんでもないひとだけど。

尊敬できる。生きる力を教えてくれた。

見たくない現実を見据える方法を、言葉で、論理で、そして沈黙で教えてくれた。


過去を変える答えはここにはない。

でも、これからを変えるために考えることはできる。

それを、彼から学んだ。


ワイン倉庫の空気が、急に震えた。

地鳴り。大地の震え。


ずしん――と、低い音が響いて。

天井の棚からワイン瓶が、次から次へと落ちてくる。

ガラスの砕ける音。

赤い液体が飛び散って、私と床を酒で染めた。

冷たくて、甘くて、鉄臭くて。

世界が傾いて、視界がゆらぐ。


運よく無傷だった。

けれど、酔ったように意識が遠のいていった。


……無傷。


無傷?


頭の上から、あんなに落ちてきたのに。

当たった記憶があるのに。

痛かった記憶が、ない。


おかしい。

思い出そうとした瞬間、夢が巻き戻った。


――ワイン瓶が降ってくる。


見える。

幼いわたしが、目をぎゅっと閉じて。

両腕をかばうように上げている。


……守っていた。自分で。


あの時から、すでに。


今、思い出したから、夢が書き換えられた?

違う。

実際に、無傷だった。


この時から、もう使っていたのだ。

無意識に。


わかってから見れば、見える。

光のような、薄い膜。

自分の身体をぎりぎり覆うほどの、透明な球。

息をするたびに微かに揺れて、

ワインの破片も、液体も、それを滑って流れていく。


――使えていたんだ。


あの頃から、すでに。

知らないうちに、命を守る術を使っていたんだ。


潮の匂いはもう消えていた。

代わりに、土と焦げた風のにおいが鼻を刺す。


この時は、自分しか守れなかった。

それが、あの災厄のすべての始まりだった。


使えることを知っていたなら――

セランは無茶して、私をかばいに飛び込まなかった。

そして、もし他の人を守ることまでできていたら、私がセランとウルを守れた。


そうしていれば、誰も傷つかずにすんだのに。


悔しい。胸の奥が焼けるように。

あのときの瓦礫の音、血の匂い、ウルの唸り。

全部、まだ耳の奥に残っている。


……明日からもっと練習しよう。

守れる力を。

それ以外の力も。

ただ耐えるだけではなく、選べるように。

もう誰も失わないように。


私の中に、小さな灯がともった。

氷の奥で、恐怖がほんの少しだけ融けた気がする。

それは、弱い光だったけれど――確かに、温かかった。


……場面が変わる。


空気の匂いが一瞬で変わり、喉の奥がざらつく。

次は、あの場面だ。

セランたちが瓦礫に呑まれる場面。


私の夢の行き止まり。

何度もここで終わる。

そのあと現実では助けたはずなのに、いつも夢はここで止まる。


瓦礫から現れるのはいつも私の恐怖の具現だ。


……ここに、何かがあるのだろうか。

何か、見たくないものが。

セランとウルが傷ついた姿なんていつだって見たくない。

だからいつも目を背けて泣いていた。


逃げたい。

目をそらしたい。

けれど――今日は、見よう。


守れなかった過去を。

ただ潰されていく家族を、明日守るための力にするために。


砂塵。

怒号。

崩れかけた屋根の上で、石が軋む音。


落ちようとしている瓦礫。

セランとウル。

二人を見守る私は、冷たい顔で立ち尽くしていた。


きっとあの瞬間、恐怖で血の気を失っていた。

逃げるよりも早く、心が凍っていた。


――怖かったんだ。


だから私は、夢の中で幼い“わたし”を抱きしめた。

小さく震える肩を包むように。


「ねえ、一緒に考えよう。どうしたらよかったのか」


声に出すと、胸の奥が熱くなった。


セランとウルに守りを固くする?

瓦礫の前に板のように膜を張る?

それとも――瓦礫を柔らかくするという発想も、あるかもしれない。


「……カイルに相談してみようか」


それは、ふと口から出た言葉だった。


うん。いろんな発想を考えてくれる気がする。

それに、彼はきっと責めない。ただ、真っ直ぐに答えてくれる。


いいかもしれない。そう思うと、少しだけ心が軽くなった。


――その時だった。


じとり。


腕の中で、冷たい気配がした。

まるで空元気をあざ笑うように、湿った匂いが立ちこめた。


“わたし”が動いた。


幼い“わたし”が、セランとウルに両手を伸ばしていた。あの小さな掌の先に、光が集まっていく。


「お願い、まもって……!」


“わたし”は震える声で叫ぶ。

“わたし”は自分にも使った防護を、セランたちに、懸命に使おうとしている。


……使っている。


嫌な予感が、背骨を這い上がる。


守りの球体が、ふたりの中間から発生した。

青白い光。泡のようにふくらんでいく。


――見ては、ダメ。


まって。みないで。時を進めないで。


「ねえ、まって、まって……止めて、待って……!」


私は“わたし”に縋りついた。

しかし“わたし”は冷たく笑っていた。


発動しかけている守りの球体は、私ひとり分くらいの小さなもの。

お互いを突き飛ばし、庇い合っているセランとウルは――

半分ずつしか、その中に収まらない。


これが、彼らを半分だけ守った正体。

稚拙で、未完成な力の行使。


それでも命をつないだ。

ならば、誇っていいはずだ。


なのに。

なのに、冷や汗が止まらないのは――なぜ。


「みるんでしょ?」


“わたし”が、冷たく言った。

その声は氷のようだった。


「ねえ……やめて……見せないで……」


私は力なく、首を振る。

けれど真実からは逃げられない。

もう意識が気づいている。


これは夢。

ただの再演。


瓦礫が落ちる前。

闇に彼らの体が消える、その瞬間。


大きな石の崩れる音の中に――ばつん、という音が混じっていた。


私は見た。

見えていた。


守りの球体は、範囲の内と外を強固に分厚く遮断して。

内側を守り、外側を……外側にあった、セランとウルの半身ごと。

分断するように拒絶した。


――私が、害した。


一瞬で決壊する。

雪崩れる瓦礫ごと、私の視界が夢ごと崩れる。


ああ、私ごと潰してくれたら良いのに。

 

これは、守れなかった後悔の夢じゃなかった。

 

命の選択で見捨てたウルへの負い目でだけじゃない。

セランとウルを混ぜたかもしれないという、冒涜への烙印でも足りない。


もっと純粋に、もっとも非道いこと。

……二人の体を壊したのは、私。


私は夢から逃げ出して、寝台を飛び出し、

喉の奥に込み上げるものを堪えきれず――吐いた。

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